作品タイトル不明
第17話 コンスタンツェ、本当に逃げる
その報せは、雨の匂いと一緒に来た。
朝から雲が低かった。庭の薔薇はまだ咲ききらず、葉の裏に湿った風が溜まっている。
噴水は止めさせていたが、空そのものが水を含んでいるので、コンスタンツェの気分は悪かった。
雨は嫌いだ。
水が上から落ちてくるというだけで、もう失礼である。
昼前、イーダが青ざめた顔で部屋に入ってきた。
「お嬢様」
「何ですの。顔色が悪いわ」
「王宮から急ぎの知らせでございます」
コンスタンツェは命乞い帳を閉じた。
「毒杯?」
「違います」
「豚?」
「違います」
「堀?」
「お嬢様」
「言いなさい」
イーダは息を整えた。
「アーレンス様が、王宮に留め置かれたそうです」
部屋の空気が薄くなった。
「留め置かれた?」
「王太子殿下のご配慮という形で。体調が優れないため、しばらく王宮の客室で休ませる、と」
「本人は?」
「面会は制限されているそうです」
鍵。
コンスタンツェは思った。
鍵を相手だけが持っているなら、それは檻ですの。
言ったのは自分だった。
それが現実になりつつある。
「それだけではありません」
イーダは続けた。
「ヴァルテンブルク家の薬草園に、管理局が入りました。エリーザベト様は調査に協力しているそうですが、不正流出の疑いが正式に記録される可能性があると」
「ヴィルヘルミーネ様は?」
「ゼッケンドルフ夫人の取引先に、王宮財務の者が聞き取りを始めたそうです。過去の借入整理に不正があったのではないかと」
コンスタンツェは立ち上がった。
卓の上の茶杯が揺れた。
「オスカー卿は」
イーダは少し言い淀んだ。
「王宮書記局で、管理外記録を無断閲覧した疑いをかけられ、事情を聞かれていると」
窓の外で、雨が降り始めた。
細い雨だった。
しかし、雨は雨である。
水の音が、屋根を叩く。
コンスタンツェは扇を握った。
手が冷たい。
毒杯の銀色が頭の奥で光る。
あの夜も、すべてが急だった。
断罪。
控室。
毒杯。
気絶。
逃亡。
泥。
水。
早まっている。
マグヌスが動いた。
悪女同盟の線を、一つずつ切りに来ている。
「お嬢様」
イーダが言った。
「どうなさいますか」
どうする。
考える前に、命乞い帳を開いていた。
逃亡経路。
北修道院。
西商会。
王宮裏荷道。
今なら、まだ逃げられる。
リーネは王宮にいる。
エリーザベトは薬草園で調査を受けている。
ヴィルヘルミーネは金銭不正を疑われている。
オスカーは書記局で足止めされている。
つまり、彼らは動けない。
コンスタンツェだけは、まだ動ける。
逃げるために。
「荷を」
声が出た。
「はい」
「軽い方の荷を。金貨は三袋。母の首飾りは持ちます。宝石箱は絶対に持たない。北門は避ける。雨で道が悪いから、西商会へ」
イーダは、一瞬だけ何かを言いたそうにした。
だが言わなかった。
「かしこまりました」
その忠実さが、胸を刺した。
イーダは自分を止めない。
彼女は侍女だから。
そして、コンスタンツェが逃げるために待遇を改善した侍女だから。
なんて予定通りなのだろう。
なんて嫌な予定通りだろう。
荷造りは早かった。
軽い外套。小袋に分けた金貨。商会への紹介状。蜂蜜菓子。着替え。小さな短剣。母の首飾り。命乞い帳。
宝石箱は机の上に置いたままにした。
空の箱。
美しくて、重くて、役に立たない箱。
コンスタンツェはそれを見た。
「あなたは留守番ですわ」
箱は何も答えない。
答えないので、信用できた。
馬車は裏口に回された。
雨は少し強くなっていた。
石畳が濡れ、馬の背が黒く光っている。
水たまりができている。
コンスタンツェはそれを避けて歩いた。
イーダが傘を差しかける。
「お嬢様。西商会まで行けば、ヴィルヘルミーネ様の手配した馬車に乗り換えられます」
「ええ」
「その後は、郊外の屋敷へ」
「ええ」
「追手が来た場合は」
「紹介状を使います。分かっていますわ」
自分で作った計画だ。
完璧ではないが、悪くない。少なくとも宝石箱を抱えて豚小屋に飛び込むよりは、はるかに上等である。
馬車に乗った。
扉が閉まる。
屋敷が遠ざかる。
コンスタンツェは、膝の上で命乞い帳を抱いた。
隣にはイーダがいる。向かいの席には軽い荷。外では雨が馬車の屋根を打つ。
逃げている。
本当に逃げている。
思ったより、安心しなかった。
「お嬢様」
イーダが静かに言った。
「何ですの」
「このまま西へ向かいます」
「そう命じましたわ」
「はい」
「何か言いたいの?」
イーダは少しだけ沈黙した。
「いいえ」
「言いなさい」
「わたくしは、お嬢様にお仕えしております」
「知っていますわ」
「ですから、お嬢様が逃げるとお決めになったなら、お供いたします」
「ええ」
「ただ」
イーダは、窓の外へ目を向けた。
「お嬢様は、命乞い帳をお持ちです」
「もちろんですわ。これを置いて逃げたら、わたくしの知性が屋敷に残りますもの」
「その帳面には、皆様のことも書かれております」
コンスタンツェは黙った。
雨音が強くなる。
馬車の車輪が、水たまりを踏んだ。
ぱしゃり、という音に、心臓が跳ねる。
やめてほしい。
水は、どこにでも現れる。
「何が言いたいの」
「お嬢様は、荷を軽くなさいました」
「ええ」
「ですが、帳面は重くなりました」
コンスタンツェは、命乞い帳を抱きしめた。
イーダの言う通りだった。
この帳面は、最初は自分だけのためのものだった。
毒杯対策。宝石箱。豚小屋。堀。王太子。逃亡経路。
今は違う。
エリーザベトの毒。
ヴィルヘルミーネの金。
リーネの言葉。
オスカーの記録。
父の迷い。
イーダの給金。
使用人の蜂蜜菓子。
何もかもが書かれている。
逃げるには重すぎる。
「イーダ」
「はい」
「わたくしは、死にたくありませんわ」
「存じております」
「毒杯も嫌です」
「はい」
「豚小屋も嫌」
「はい」
「堀など、論外ですわ」
「はい」
コンスタンツェは窓の外を見た。
雨に煙る王都の屋根。
濡れた石畳。
灰色の空。
馬車は西へ向かっている。このまま行けば助かるかもしれない。少なくとも、今日すぐには毒杯を出されない。
リーネは王宮の客室にいる。
エリーザベトは薬草園で疑われている。
ヴィルヘルミーネは金で詰められている。
オスカーは書記局で動けない。
自分だけが、逃げている。
「……嫌ですわ」
小さく声が出た。
「何がでございますか」
「このまま逃げたら」
コンスタンツェは命乞い帳を開いた。
ページが震える。自分の手が震えているからだ。
百十、逃げずに済むことが一流。難しすぎる。
その文字が滲んで見えた。雨ではない。泣いてはいない。たぶん。
「このまま逃げたら、わたくしは一度目より情けない女になりますわ」
イーダは何も言わなかった。
馬車が進む。
西商会へ向かう道。
逃げるための道。
コンスタンツェは、息を吸った。
「止めなさい」
イーダが顔を上げる。
「馬車を止めなさい!」
御者が手綱を引く。馬車が揺れ、車輪がぬかるみに沈む音がした。
雨が屋根を叩いている。
コンスタンツェは扉を開けた。冷たい風と雨が吹き込む。
「お嬢様!」
「戻りますわ」
「どちらへ」
「王宮へ」
言った瞬間、体の芯が冷えた。
王宮。
毒杯。
マグヌス。
王太子。
リーネの檻。
オスカーの拘束。
エリーザベトの薬草園。
ヴィルヘルミーネの帳簿。
戻れば危険だ。
戻らなければ安全かもしれない。
けれど、戻らない自分は、あの夜、宝石箱を抱えて沈んだ女より醜い。
「お嬢様」
イーダの声は震えていなかった。
「本当に、戻られますか」
「ええ」
「怖くはございませんか」
「怖いですわ!」
コンスタンツェは怒鳴った。
「怖いに決まっているでしょう! わたくしは勇敢な女ではありませんのよ。雨も嫌、水たまりも嫌、毒杯も嫌、豚も嫌、王宮も嫌ですわ!」
息が切れる。
「でも」
声が少し小さくなった。
「このまま逃げたら、わたくしは自分を持って逃げられませんわ」
イーダは、少しだけ目を伏せた。
それから、初めて微笑んだ。
ほんの少し。
使用人らしい控えめな笑みではなく、長く仕えてきた者が、どうしようもない主人を見て諦めるような笑みだった。
「では、戻りましょう」
「止めないの?」
「止めても、お嬢様は戻られるでしょう」
「分かっているなら、最初から言いなさい」
「お嬢様がご自分でお決めになる必要がございましたので」
近頃のイーダは、本当に厄介だ。
馬車は向きを変えた。
西へ逃げる道から、王宮へ戻る道へ。
雨の中、車輪が泥を跳ねる。コンスタンツェはその音に震えた。けれど、もう止めろとは言わなかった。
命乞い帳を開く。
濡れた指で、新しい行を探す。
百十一、コンスタンツェ、本当に逃げた。
百十二、途中で戻る。理由、不明。
百十三、いや、不明ではない。逃げたままでは、自分が嫌になるため。
百十四、非常に不本意。
百十五、王宮へ戻る。毒杯未確認。豚小屋回避できるか不明。
百十六、怖い。
最後の一行を書いて、彼女はペンを止めた。
怖い。
それだけは、どうしても消せなかった。
王宮の塔が、雨の向こうに見えてきた。
灰色の空の下で、それは濡れた刃物のように立っていた。
コンスタンツェは命乞い帳を閉じる。
「イーダ」
「はい」
「もし豚小屋を通ることになったら」
「はい」
「あなた、先に豚へ話をつけてくださる?」
「努力いたします」
「頼もしいわ」
「お嬢様も」
「わたくしも?」
「お戻りになるとお決めになりました」
コンスタンツェは窓の外を見た。
王宮が近づく。
足は震えている。
手も冷たい。
今にも泣きそうだった。
それでも馬車は進む。
毒杯へではない。
まだ、そう決まったわけではない。
今度は、自分の足で戻るのだ。
そのことだけが、一度目と違っていた。