作品タイトル不明
第16話 逃亡計画、完成
悪女同盟の作戦会議は、春の親睦茶会という名で開かれた。
名というものは便利である。
同じ女たちが同じ卓を囲んでも、「悪女同盟」と呼べば謀反の匂いがし、「春の親睦茶会」と呼べば菓子の匂いになる。
実際、小温室には蜂蜜菓子と柑橘の焼き菓子が並んでいた。
白磁の茶器、薄い卓布、窓辺の鉢植え。
どこから見ても穏やかな午後の茶会である。
ただし、卓の中央に広げられているのは、王宮裏の古い荷道の写し、馬車業者の支払い記録、薬草の流通表、アーレンス男爵家への支援金一覧、それからコンスタンツェの命乞い帳だった。
穏やかではない。
「まず、逃亡計画を完成させますわ」
コンスタンツェは言った。
エリーザベトが薬草表から顔を上げる。
「なぜ最初に逃亡計画なのですか」
「わたくしが死なないためです」
「作戦会議では?」
「逃げ道のない作戦会議など、ただの集団自殺ですわ」
ヴィルヘルミーネが黒い扇の陰で笑った。
「正しいわ。勝つ計画より、負けた時に生き残る計画の方が先よ」
「未亡人の知恵は重みがありますわね」
「褒めているのかしら」
「かなり」
言い方がオスカーに似た気がして、コンスタンツェは少し嫌な顔をした。
オスカーはその横で、王宮の古い図面を開いていた。
相変わらず眠たげな顔で、しかし目だけは紙の上を冷静に走っている。
彼の前には小さな石がいくつか置かれていた。
王宮、荷道、倉庫、アーレンス男爵家、ヴァルテンブルク家、ルーデンドルフ公爵邸。
それぞれの位置を示している。
リーネは少し離れて座っていた。
今日は白ではなく、淡い青灰のドレスである。
青いリボンはつけていない。
彼女は膝の上で手を重ねているが、以前のように指をほどいたり結んだりはしていなかった。
まだ細い。
まだ弱い。
けれど、弱いなりに座る場所を自分で選んでいるように見えた。
「ルーデンドルフ様」
リーネが控えめに言った。
「逃亡計画というのは、どちらへ逃げるご予定なのですか」
「第一候補は北の修道院ですわ」
「修道院へ?」
「水辺が少なく、豚小屋から遠いからです」
「理由が」
「不満?」
「いえ……大切なことなのですね」
「とても」
リーネは真面目に頷いた。
この子は時々、コンスタンツェの奇妙な発言を奇妙なまま受け止める。
からかわない。笑わない。
たぶん、あまりにも自分も不安定な場所に立っているから、人の変な恐怖を雑に扱わないのだろう。
それは少し、困る優しさだった。
コンスタンツェは命乞い帳を開いた。
「逃亡経路は三つ。第一、北門から修道院方面。第二、西の商業地区を抜けてヴィルヘルミーネ様の知る商会へ。第三、王宮内に閉じ込められた場合は、古い荷道を使って外壁沿いに出ます」
「第三が一番危険です」
オスカーが言った。
「分かっていますわ。豚小屋がありますもの」
「それもありますが、敵の荷道でもある」
「豚小屋以上の問題を置かないでくださる?」
「置いているのは私ではありません」
オスカーは古い荷道を示す石を、指先で少し動かした。
「この道は閉鎖記録があります。にもかかわらず、三か月前に清掃点検名目で開けられた。その後、薬草らしき荷と馬車業者の動きが重なる。さらに、ハルトヴィヒ家の従者名義で管理局に申請が出ている」
「つまり」
ヴィルヘルミーネが扇を閉じる。
「コンスタンツェ様の逃げ道と、相手の逃げ道が重なっている」
「最悪ですわ」
コンスタンツェは心から言った。
「逃亡にも競合がいるなんて」
「むしろ好都合でもあります」
オスカーは淡々と続けた。
「あなたが逃げるために調べた経路が、そのまま相手の荷道の証拠になる」
「嫌ですわ。わたくしの臆病が社会の役に立ってしまいます」
「悪いことではありません」
「悪いことではなくても、気味が悪いのです」
エリーザベトが、小瓶の写しを指で押さえた。
「王宮管理局の調査は明後日です。ヴァルテンブルク家の薬草園に、眠り草が不正に流れている証拠を見つけた、という形にしたいのでしょう」
「実際には?」
「似せた荷が外から入っている。内側から出たように見せかけているだけです。ですが、調査する者が最初から結論を持っていれば、どうとでも見えます」
「見えるものを信じたい人たちには、ちょうどよいわね」
ヴィルヘルミーネの声は冷たかった。
「金の流れも同じよ。ハルトヴィヒ家から直接ではなく、いくつかの商会と小役人を挟んでいる。ですが、目的地は薬草、馬車、書類屋、そして王宮管理局の下役」
「下役が多すぎますわ」
コンスタンツェは顔をしかめた。
「人間はなぜ、こうも安く買われますの」
「高く買われる人間は帳簿に残りにくいわ」
「もっと嫌なことを言いますのね」
「現実よ」
リーネが小さな紙を差し出した。
「あの、わたしも、書き出してきました」
紙には、王太子の言葉が丁寧な字で並んでいた。
『君が困った時は、必ず私に言いなさい』
『君を傷つける者は、私が許さない』
『君は何も悪くない』
『私の傍にいれば、安全だ』
『コンスタンツェに惑わされてはいけない』
『君を利用する者から、私が守る』
最後の一文に、コンスタンツェは眉をひそめた。
「わたくし、利用する者に分類されていますのね」
「王太子殿下から見れば、そうなのでしょう」
オスカーが言った。
「心外ですわ。わたくしは利用されるのも嫌ですけれど、利用するのも疲れるから嫌いですのに」
「疲れるから?」
「高潔な理由が必要ですの?」
「いえ。あなたらしいです」
「褒めていませんわね」
「かなり」
まただ。
またその言い方だ。
コンスタンツェは扇で口元を隠した。
リーネは紙を見つめながら、静かに言った。
「殿下は、わたしがルーデンドルフ様と会うことを、あまりよく思っていらっしゃらないようです」
「でしょうね」
エリーザベトが言う。
「あなたが自分で考え始めると、庇護の形が崩れますから」
「殿下は、悪い方ではありません」
リーネの声は弱かった。けれど、そこには自分で確かめようとする響きがあった。
「ただ、わたしが何かを言う前に、答えをくださいます」
コンスタンツェは、リーネの紙を見た。
「それは便利ですわね」
「はい」
「そして危険ですわ」
「はい」
リーネは頷いた。
その顔に涙はない。
一度目の広間で、彼女は泣いていた。王太子の傍らで、震えていた。
だが今は泣かない。
まだ怖がっている。
けれど、泣く役からは少しずつ降りようとしている。
その変化が、嬉しいというより、胸に痛かった。
自分はこの子に、一度目で何をしたのか。
細かくは覚えていない。
覚えていないことが、なお悪い。
覚えるほどの罪ではないと、その時の自分が思っていた証拠だからだ。
「それで」
ヴィルヘルミーネが卓を軽く叩いた。
「逃亡計画は分かったわ。次は逃げずに済むための計画ね」
「嫌な言い方ですわね」
「あなたの好みに合わせたのよ」
「わたくしの好みはもっと甘いです」
「蜂蜜菓子以外で?」
「痛いところを」
コンスタンツェは命乞い帳に目を落とした。
「まず、エリーザベト様への調査を潰します。毒草が内側から出たのではなく、外から入れられた証拠を押さえる」
「そのためには、荷道と倉庫の小瓶だけでは弱い」
オスカーが言った。
「管理局の調査員が入る前に、ヴァルテンブルク家の薬草園の在庫記録を写しておく必要があります。エリーザベト嬢、できますか」
「できます。父には話してあります。父はわたくしを毒婦と呼ばれることには慣れていますが、家を毒物倉庫扱いされることには怒っています」
「頼もしい父上ですわね」
「怒る方向が限定的です」
エリーザベトは少しだけ肩をすくめた。
「次に金の流れ」
ヴィルヘルミーネが続ける。
「ハルトヴィヒ家から直接出た証拠はまだない。でも、商会を二つ挟んだ先の馬車業者なら掴めるわ。馬車業者は帳簿が雑なの。雑な帳簿は、悪事には向かない」
「雑な毒と雑な帳簿」
コンスタンツェは顔をしかめた。
「悪人なら、もう少し丁寧にしてほしいですわ」
「丁寧な悪人はもっと困ります」
オスカーが言った。
「それはそうですけれど」
卓の上で、石が動く。
王宮裏の荷道。
馬車業者の倉庫。
ヴァルテンブルク家の薬草園。
アーレンス男爵家。
ルーデンドルフ公爵邸。
線は多く、絡まりかけている。
しかし、絡まりの中心に一つの名がある。
マグヌス・フォン・ハルトヴィヒ。
コンスタンツェは、その名を書いた紙を見た。
一度目の夜、彼は毒杯を差し出した。
せめて貴族らしく、と。
その言葉が、今でも耳に残っている。
貴族らしく死ねと言う者は、たいてい自分は安全な場所にいる。
「ルーデンドルフ様」
エリーザベトが声をかけた。
「顔色が悪いです」
「生まれつきですわ」
「嘘です。先ほどより脈が速い」
「測っていないでしょう」
「見れば分かります」
「あなたの観察も嫌ですわね」
オスカーとエリーザベトの観察が合わさると、逃げ場がない。
ヴィルヘルミーネは金を見ているし、リーネは人の言葉を見始めている。
悪女同盟とは、案外、居心地が悪い場所だった。
隠れる場所が減る。
けれど、一人でいるよりはいい。
「では」
コンスタンツェは息を吸った。
「各自、明日から動きます。エリーザベト様は在庫記録。ヴィルヘルミーネ様は馬車業者と商会。オスカー卿は管理局の記録。リーネ様は、王太子殿下から聞いた言葉を必ず書くこと。わたくしは父に、王太子派との交際費をさらに絞らせます」
「それから?」
オスカーが聞いた。
「それから、逃亡用の荷を軽量化します」
「そこに戻るのですね」
「戻りますわ。生存はすべての基礎です」
ヴィルヘルミーネが楽しげに頷く。
「宝石は分けた?」
「昨夜から始めました」
「思い出用、換金用、賄賂用」
「ええ」
「宝石箱は?」
「空にしました」
言った瞬間、胸の奥に妙な寂しさが浮かんだ。
母の首飾りだけは、小さな布袋に入れて引き出しにしまった。
箱ではなく、軽い袋に。
あの青革の宝石箱は、今は空である。
立派で、重くて、空っぽ。
一度目の自分に似ている気がしたので、少し腹が立った。
「よろしい」
ヴィルヘルミーネが言った。
「三流から二流へ昇格ね」
「一流は?」
「逃げずに済むこと」
コンスタンツェは黙った。
逃げずに済むこと。
それは、毒杯を飲まないことより難しそうに聞こえた。
会議が終わった後、皆が帰っていく。
リーネが最後に残った。
「ルーデンドルフ様」
「何ですの」
「わたし、殿下のお言葉を書き出してみて、少し怖くなりました」
「怖いなら正しいですわ」
「正しいのですか」
「怖がらない方が危ないこともあります」
リーネはゆっくり頷いた。
「でも、怖いだけでは嫌です」
コンスタンツェは彼女を見た。
リーネの声は小さい。
けれど、以前よりも届く。
「わたしも、何かできるようになりたいです。守られるだけではなく」
コンスタンツェは、言葉に詰まった。
この子は、変わろうとしている。
それが良いことなのか、危険なことなのか、分からない。
分からないが、たぶん止める権利はない。
「では、まず馬車の乗り降りを自分で決めなさい」
「馬車?」
「ええ。誰に送られるか、誰の馬車に乗るか、どこで降りるか。小さなことですが、小さなことを全部人に預けると、最後に大きなことも選べなくなりますわ」
リーネは少し考えた。
「分かりました」
「あと、階段では裾を踏まないこと。助けられる口実になります」
「あの、それはわたしが不器用だから」
「不器用も政治利用されますわ」
リーネは、困ったように、しかし少しだけ笑った。
「気をつけます」
彼女が去ったあと、コンスタンツェは命乞い帳を開いた。
百六、逃亡計画、完成。北修道院、西商会、王宮裏荷道。第三は最悪。
百七、逃げ道と敵の荷道が重複。最悪。ただし証拠にもなる。
百八、宝石箱を空にした。少し寂しい。認めたくない。
百九、リーネ、自分も何かできるようになりたいと言った。危険だが、よい兆候。
百十、逃げずに済むことが一流。難しすぎる。
そこまで書いて、ペンが止まった。
逃亡計画は完成した。
軽い荷。
金貨の小袋。
三つの経路。
イーダへの合図。
ヴィルヘルミーネの商会。
オスカーへの連絡。
エリーザベトの薬草知識。
リーネの言葉。
逃げる準備はできている。
けれど、妙だった。
準備が整えば整うほど、逃げることが少しだけ難しくなっていく。
持っていく荷は軽くなったのに、置いていくものが増えたからだ。
コンスタンツェは、その考えを命乞い帳に書かなかった。
書けば重くなる気がした。