軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第15話 マグヌスの筋書き

マグヌス・フォン・ハルトヴィヒは、几帳面な男だった。

机上には書類が角を揃えて積まれ、砂時計は常に左奥に置かれている。

封蝋は赤と黒を使い分け、急ぎの文書には細い金線を入れる。

人に見せる顔もまた、書類のように整っていた。

王太子アルブレヒトは彼を信頼している。

当然だろう。

マグヌスは、王太子が言葉にする前に必要なものを用意した。

慈善の名目。

庇護の手続き。

アーレンス男爵家への支援。

王宮内でリーネを守るための人員配置。

コンスタンツェの不評を集めた報告。

王太子が「正しく怒る」ための材料。

材料を揃えるのは、料理人の仕事に似ている。

食べる者は、皿の上の美しさを見る。

台所の血や骨や刃物は見ない。

マグヌスはそれでよいと思っていた。

王国には秩序が要る。

王太子には、正しい物語が要る。

民には、分かりやすい善悪が要る。

そして宮廷には、時々、悪女が要る。

コンスタンツェ・フォン・ルーデンドルフは、その役にたいへん向いていた。

高慢。

口が悪い。

使用人に冷たい。

王太子妃の座に執着している。

社交界にも敵が多い。

すべて事実だった。

事実ほど、使いやすい嘘はない。

「マグヌス卿」

執務室の扉が叩かれ、若い従者が入ってきた。

「王宮管理局より、ヴァルテンブルク家への調査通知が出ました」

「予定通りだ」

「はい。ただ……ルーデンドルフ公爵令嬢が、エリーザベト様と接触したとの噂が」

マグヌスは書類から目を上げた。

「知っている」

「ゼッケンドルフ夫人とも」

「それも」

「アーレンス令嬢も、ルーデンドルフ家に出入りしているようです」

それは少し厄介だった。

マグヌスは指先で机を一度だけ叩いた。

コンスタンツェが変わった。

その報告は、いくつも上がってきている。

使用人の待遇改善。修道院への寄付。王太子への過剰な警戒。リーネへの奇妙な助言。ヴァルテンブルク家とゼッケンドルフ夫人への接近。

一度は、気まぐれだと思った。

追い詰められる前に、評判を整えようとしているのだと。

だが、動きが妙に早い。

まるで、どこに火がつくかを知っているように。

「レーエンスベルクは?」

「王宮書記局で、古い荷道の記録を見ていたそうです」

マグヌスの指が止まった。

「誰から聞いた」

「管理局の書記見習いから」

「その見習いには、余計なことを話すなと言っておけ」

「はい」

従者が下がると、マグヌスは椅子に深く背を預けた。

オスカー・フォン・レーエンスベルク。

目立たない男だが、面倒な文官である。

熱血漢ではない。

正義に酔うこともない。

だからこそ厄介だった。

正義に酔う者は、正義を用意すればよい。

だが、手続きに酔う者は、手続きの粗を嗅ぎつける。

王太子殿下の周囲に、今その種類の男が寄ってくるのは都合が悪い。

マグヌスは、新しい紙を取り出した。

アーレンス男爵家。

ヴァルテンブルク家。

ゼッケンドルフ家。

ルーデンドルフ公爵家。

レーエンスベルク伯爵家。

線を引く。

コンスタンツェを中心に、女たちと文官が結ばれ始めている。

それは、よくない。

悪女は孤立していなければならない。

孤立した悪女は、裁きやすい。

悪女が集まると、派閥になる。

派閥になると、裁くには理由が増えすぎる。

マグヌスは羽根ペンを置いた。

ならば、早めるしかない。

その頃、コンスタンツェはルーデンドルフ家の書斎で父と向かい合っていた。

ルーデンドルフ公爵は、娘の差し出した書類を読んでいる。

表情は硬い。

父は怒っている時より、考えている時の方が怖い顔をする。

「コンスタンツェ」

「はい、お父様」

「これは何だ」

「王太子派との交際費、寄付金、馬車手配、薬草流通、書類屋への支払いの一覧ですわ」

「なぜ、お前がこれを持っている」

「悪女の人脈ですわ」

父の目が鋭くなった。

「冗談ではない」

「少しだけ冗談です。大部分は本気ですわ」

「コンスタンツェ」

父は書類を置いた。

「お前は、何に首を突っ込んでいる」

それは父親の声だった。

公爵ではなく、父の声。

久しぶりに聞いた気がした。

コンスタンツェは、一瞬だけ言葉を選びかけた。

夢の話にするか。

未来の話にするか。

毒杯の話にするか。

豚小屋の話はやめておこう。父娘の会話に向かない。

「死なないための努力ですわ」

「またそれか」

「ええ。またです」

「誰かがお前を害すると?」

「害するというより、都合よく片づける準備をしている人たちがいます」

父の顔色が変わった。

「誰だ」

「まだ断定はできません。ただ、ハルトヴィヒ家の周辺に金と荷物が動いています。ヴァルテンブルク家へ罪を着せる準備も。アーレンス男爵家への支援も、綺麗すぎます」

「王太子殿下は」

「おそらく、全部はご存じありません」

「殿下を疑うのか」

その声に、かつての父が戻る。

王家。婚約。家名。政治的な均衡。

父はそれらを重んじる男だった。娘の安全より軽んじているわけではない。だが、しばしば順番を間違える。

コンスタンツェは机に手を置いた。

「お父様」

「何だ」

「わたくしを王太子妃にしたいのですか」

父は眉をひそめた。

「何を急に」

「それとも、生かしておきたいのですか」

部屋の空気が止まった。

暖炉の火が小さく鳴る。

古い書物の匂いがする。

壁にかかった先祖の肖像が、皆こちらを見ている。

父はしばらく何も言わなかった。

その沈黙は、コンスタンツェの胸を冷やした。

即答してほしかったのかもしれない。

もちろん生かしたい、と。

そんなことを言わせる自分も、ずいぶん卑怯だった。

だが、聞かずにはいられなかった。

一度目の父は、断罪の場で彼女を守れなかった。

完全に見捨てたわけではない。だが、動きが遅かった。王家への遠慮と、娘の悪評と、家名の計算に縛られていた。

その遅さが、毒杯への道を開いた。

「コンスタンツェ」

父の声は低かった。

「誰が、お前にそこまで言わせた」

「誰でもありませんわ。わたくしが勝手に言っています」

「お前は変わった」

「よく言われます」

「なぜだ」

「死にたくないからです」

父は目を閉じた。

疲れたような、痛むような顔だった。

「お前は、そんなに追い詰められていたのか」

コンスタンツェは答えられなかった。

一度目の自分は、追い詰められるまで自分が危ういことに気づかなかった。

二度目の自分は、追い詰められる前から怯えている。

どちらがましなのか、自分でも分からない。

「お父様」

「何だ」

「王太子殿下との婚約を、今すぐ破棄しろとは申しません」

本当は言いたい。

今すぐ逃げたい。

だが、逃げ道には準備が要る。

「ただ、ハルトヴィヒ家の動きから距離を置いてください。交際費を絞り、支払い記録を残し、王太子派の私的な依頼を家の名で受けないで」

「それは、殿下に対する不信と取られる」

「わたくしが死ぬよりはましですわ」

父が、はっきりと息を呑んだ。

コンスタンツェは続けた。

「お父様。わたくしは善い娘ではありませんでした。わがままで、高慢で、あなたの家名を笠に着ました。でも、家名のために黙って死ぬほど、行儀はよくありませんの」

父は書類を見下ろした。

長い沈黙の後、彼は言った。

「支払い記録を洗い直す。ハルトヴィヒ家からの依頼は、今後すべて私に通せ。家令にも言っておく」

コンスタンツェは、少しだけ息を吐いた。

「ありがとうございます」

「礼を言うには早い」

「では、保留にしますわ」

「お前は本当に」

父は言いかけて、やめた。

その顔に、わずかな苦笑が浮かぶ。

「以前より、扱いにくくなった」

「生存性能が上がったのですわ」

「そうか」

「ええ」

父はもう一度、書類を手に取った。

「コンスタンツェ」

「はい」

「私は、お前を王太子妃にしたいと思っていた」

コンスタンツェは黙った。

「それが家のためで、お前のためでもあると思っていた」

「はい」

「今は、少し分からない」

「分からないなら、上等ですわ」

父が顔を上げる。

「分かったつもりで娘を毒杯へ近づけられるより、ずっとよろしいです」

「毒杯」

「比喩です」

父は、もう問い返さなかった。

その夜、コンスタンツェは自室で命乞い帳を開いた。

書くべきことは多い。

百、マグヌス・フォン・ハルトヴィヒは悪女を孤立させたい。

百一、オスカーが荷道記録を見たことは知られている可能性あり。

百二、父に相談。即時婚約解消は不可。ただしハルトヴィヒ家との金銭距離を取らせる。

百三、父、少し分からないと言った。進歩。

百四、分からない父は、分かったつもりの父より安全。

百五、王太子殿下の善意、マグヌスの帳簿、リーネの役割、エリーザベトの毒婦化、ヴィルヘルミーネの金銭悪評、すべて同じ舞台に乗せられている可能性。

そこまで書いて、手が止まった。

舞台。

アルブレヒトは物語を求める。

マグヌスは舞台を整える。

リーネは守られる少女にされる。

エリーザベトは毒婦にされる。

ヴィルヘルミーネは金で男を滅ぼす女にされる。

コンスタンツェは悪女にされる。

役が配られている。

ならば必要なのは、役を拒むことだ。

「イーダ」

「はい」

「次の茶会の準備を」

「春の親睦茶会でございますか」

「いいえ」

コンスタンツェは命乞い帳を閉じた。

「悪女同盟の作戦会議ですわ」

イーダは少しだけ目を閉じた。

「……かしこまりました」

「何か言いたそうね」

「いえ」

「言いなさい」

「お嬢様が、だんだん逃げる準備から戦う準備へ移っておられる気がいたします」

コンスタンツェは固まった。

「失礼ですわね。わたくしは今も全力で逃げる準備をしています」

「そうでございますか」

「ええ。戦うのは、逃げ道を塞がれた時だけです」

「では、その時は?」

コンスタンツェは窓の外を見た。

庭の噴水は、夜の中で止められている。彼女が命じたからだ。水音はない。部屋には蝋燭の火だけが揺れている。

毒杯はまだ来ていない。

豚小屋も遠い。

堀も、今は暗い記憶の中に沈んでいる。

だが、マグヌスの筋書きは動き始めた。

彼女は小さく息を吐いた。

「その時は、泣きながら噛みつきますわ」

イーダが、ほんの少し笑った。

「お嬢様らしゅうございます」

「褒めていますの?」

「かなり」

誰かに似た言い方だった。

コンスタンツェは少し不機嫌になり、それでも命乞い帳を抱えて寝台へ向かった。

戦うつもりはない。

ないはずだった。

ただ、もう一度毒杯の前に立たされるくらいなら、少しくらい噛みついても罰は当たらないだろう。

どうせ一度目で、貴族令嬢としての尊厳は豚小屋に落としてきたのだから。