作品タイトル不明
第13話 毒杯の出どころ
エリーザベト・フォン・ヴァルテンブルクは、小瓶の底に残った粉を見て、しばらく黙っていた。
彼女の温室は、相変わらず青く苦い匂いがした。
春の光は硝子屋根から落ちているが、葉の影が床に幾重にも重なって、どこか水の底にいるようだった。
コンスタンツェはそれが気に入らなかった。
水の底に似ている場所で、毒の話をする。
趣味が悪い。
非常に悪い。
「どうですの」
待ちきれずに聞く。
「急かすと、毒の分析は早くなりません」
エリーザベトは淡々と言った。
「わたくしの寿命は短くなる気がしますわ」
「今のところ脈は正常です」
「測っていませんでしょう」
「顔色で分かります」
「本当に怖い人ですわね」
エリーザベトは小瓶の粉を、ごく少量だけ白い皿に落とした。
そこへ水を一滴。
さらに別の透明な液を落とす。
粉の色が淡い灰色へ変わった。
コンスタンツェは椅子の上で身を引いた。
「爆発しませんの?」
「しません」
「煙は?」
「出ません」
「悲鳴は?」
「あなたが上げる可能性はあります」
「否定できませんわ」
イーダは後ろで静かに控えている。
今日も彼女は有能だ。
温室に入る前、コンスタンツェの手袋に小さな蜂蜜菓子を忍ばせてくれた。
精神安定剤である。
医師には認められないだろうが、本人が認めているので十分だった。
オスカーも来ていた。
彼は温室の隅で、書類をめくっている。王宮裏の古い荷道に関する納入記録、倉庫の閉鎖記録、馬車業者の使用許可。書類を持つ姿が、妙に似合う男だった。剣より紙。詩より議事録。恋文より請願書。そういう男である。
ヴィルヘルミーネも遅れて来た。彼女は黒い手袋を外しながら、部屋の匂いを嗅いで顔をしかめた。
「ここへ来るたび、わたくしの香水が負けるわ」
「香水は治療に使えません」
エリーザベトが言う。
「男を遠ざけるには使えるわよ」
「それは治療では?」
「場合によっては」
コンスタンツェは二人を見比べた。
悪女同盟は、今日もあまり善良な響きを持っていない。
だが、有用ではある。
非常に。
「結論から言います」
エリーザベトが小瓶を置いた。
「これは眠り草、苦扁桃、甘草、それからごく少量の青狐草を混ぜたものです」
「名前がすべて不穏ですわ」
「青狐草は量によっては鎮静剤です」
「量によっては?」
「呼吸が弱ります」
コンスタンツェは蜂蜜菓子を口に入れた。
「今、食べるの?」
ヴィルヘルミーネが笑った。
「防衛反応ですわ」
「甘い防衛ね」
「苦い死よりましです」
オスカーが顔を上げた。
「正式な自裁用の毒と一致しますか」
「しません」
エリーザベトは即答した。
「貴族の名誉自裁に使うなら、もっと確実で、もっと早いものを選びます。これは中途半端です。眠らせる、弱らせる、場合によっては死なせる。死因を曖昧にしたい時の配合です」
温室の空気が、少しだけ重くなった。
コンスタンツェは喉の奥が冷えるのを感じた。
一度目の毒杯。
せめて貴族らしく、自ら幕を引け。
マグヌスの薄い声。
あの銀の杯。
あれは名誉などではなかった。
口封じだった。
「では、わたくしに出されるはずだった毒杯は」
言いかけて、止まる。
まだ出されていない。
この時点では、まだ。
エリーザベトがこちらを見た。
「夢の話、でしたね」
「そうですわ」
「では、その夢の毒杯は、正式な自裁ではなく、死因を曖昧にするためのものです」
「夢の中のわたくしは、ずいぶん雑に殺されそうになっていましたのね」
「雑ではありません」
エリーザベトは首を横に振った。
「むしろ、後で都合よく説明できるようにしている。毒を飲んだのか、発作なのか、衰弱なのか。見る者によって言い方を変えられる」
「それは」
オスカーが低く言った。
「裁判を避ける時のやり方ですね」
誰もすぐには答えなかった。
ヴィルヘルミーネが扇を閉じる。
「金の流れとも合うわ。ハルトヴィヒ家の周辺で動いている現金は、薬草だけではないの。馬車業者、書類屋、そして王宮に出入りする小役人にも流れている」
「書類屋?」
コンスタンツェが聞く。
「封蝋、紙、印章の修繕、古い記録の写し。そういうものを扱う店よ。表向きは真面目な商い。裏では、写しの順番を変えたり、日付を少し早めたり、遅らせたりする」
オスカーの目が冷えた。
「記録の偽装」
「あなたの嫌いなものね」
「かなり」
ヴィルヘルミーネは黒い手袋を卓に置いた。
「それから、アーレンス男爵家への支援金。王太子殿下の私的な庇護という形を取っているけれど、間にハルトヴィヒ家の者が入っている。少額ずつ、綺麗に分かれているわ。善意の顔をした帳簿ね」
「善意の顔をした帳簿」
コンスタンツェは呟いた。
嫌な言葉だった。
善意は形がないから怖い。
帳簿になると、なお怖い。
責任の所在が、金額の欄に隠れる。
「殿下は知っておりますの?」
「どこまでかは分かりません」
オスカーが答えた。
「王太子殿下は、アーレンス嬢を支援しているつもりでしょう。そこに誰が予算をつけ、どの名目で流しているかまでは、見ていない可能性が高い」
「見ていない、で済む話ですの?」
「済みません」
オスカーの声は静かだった。
「ですが、本人は済むと思っているかもしれない」
コンスタンツェは、アルブレヒトの顔を思い浮かべた。
君は彼女を傷つけた。
君の所業には、もはや目を瞑れない。
彼はあの時、本気で自分が正しいと思っていた。
それが恐ろしい。
嘘をついている人間より、自分の言葉を真実だと信じている人間の方が、時々ひどいことをする。手加減がなくなるからだ。
「ルーデンドルフ様」
エリーザベトが言った。
「あなたが以前書いた毒杯の特徴と、この小瓶の残留物はよく似ています」
「夢の話ですわ」
「ええ。夢の話としては、ずいぶん具体的です」
「最近の夢は実務的ですの」
「便利な夢ですね」
「不便ですわ。非常に」
エリーザベトは、紙に薬草名を書き出した。
「問題は、この配合を誰が作ったかです。素人では難しい。けれど、わたくしならこんな下手な混ぜ方はしません」
「下手」
「ええ。甘草が多すぎる。飲みやすくしようとしたのでしょうが、かえって匂いが残る。苦扁桃も粗い。調合した者は知識が半端です」
「半端な毒で人は死にますわ」
「死にます」
エリーザベトは顔色を変えずに言った。
「だから厄介です」
ヴィルヘルミーネが、薄く笑った。
「半端な知識を持った誰かが、エリーザベト様の家に罪を寄せようとしている。金はハルトヴィヒ周辺から動いている。荷道は王宮裏の豚小屋の近く。王太子殿下は善意の名札をつけている」
「並べると、とても嫌な絵になりますわね」
コンスタンツェは言った。
「ええ。額縁は上等でしょうけれど」
オスカーは書類の束を卓へ置いた。
「古い荷道の閉鎖記録を見ました。十年前に閉鎖、その後は王宮管理局の倉庫として封印。ところが、三か月前に『清掃点検』の名目で一度開けられています」
「誰の許可で?」
「管理局副長の名があります。ただし、申請書を出したのはハルトヴィヒ家の従者です」
「従者」
「名だけの従者でしょう。実務はマグヌス卿の周辺です」
コンスタンツェは命乞い帳を開いた。
手が自然に動く。
八十五、小瓶の粉=眠り草、苦扁桃、甘草、青狐草。正式自裁用ではない。死因曖昧化。
八十六、毒の調合は半端。エリーザベトならもっと上手くやるらしい。怖い。
八十七、ハルトヴィヒ家周辺から薬草・馬車・書類屋へ金。
八十八、古い荷道、三か月前に清掃点検名目で開く。申請はハルトヴィヒ家従者。
八十九、王太子殿下の善意は帳簿になると危険。
オスカーが横から見ていた。
「相変わらず、よくまとまっていますね」
「見ないでくださる?」
「見えます」
「目を閉じなさい」
「記録係にそれを要求するのは酷です」
「あなたの目は職業病ですわ」
ヴィルヘルミーネが笑う。
「それにしても、命乞い帳という名は変えた方がいいのではなくて? もう立派な調査帳よ」
「嫌ですわ」
コンスタンツェは即答した。
「これは命乞い帳です。わたくしが死なないための帳面ですもの」
「国が少し救われるかもしれないわよ」
「国は自力で頑張るべきですわ。わたくしは自分の命で忙しいのです」
「その割に、ずいぶん大勢を巻き込んでいる」
オスカーが言った。
「不可抗力ですわ」
「本当に?」
答えようとして、コンスタンツェは黙った。
本当に不可抗力なのか。
エリーザベトに会いに行った。
ヴィルヘルミーネに相談した。
リーネを茶会に呼んだ。
オスカーを命綱にした。
イーダを巻き込んだ。
すべて保身のためだった。
少なくとも、最初は。
だが、今この温室には四人の人間がいて、それぞれが自分の危険を抱えている。
エリーザベトは毒婦の汚名を、ヴィルヘルミーネは金銭工作の濡れ衣を、リーネは王太子の庇護という檻を、オスカーは手続きの粗さの奥にあるものを見ている。
自分だけではない。
そのことが、少し怖かった。
「……結果的にですわ」
コンスタンツェは言った。
「結果的に?」
「結果的に、巻き込んだのです。最初から皆様を助けようなどという、高貴な考えはありませんでした」
「知っています」
エリーザベトが言った。
「あなたの動機は、いつも自分で汚してから出してきますから」
「失礼ですわね」
「ですが、出してはくる」
エリーザベトは小瓶を見た。
「毒を避けるなら、一人では無理です。毒は杯に入る前に、人の手をいくつも渡ります。薬草を育てる者、買う者、運ぶ者、隠す者、注ぐ者。それを追うには、人手が要る」
「つまり、悪女同盟は有効?」
ヴィルヘルミーネが楽しげに言う。
「名称は不愉快ですが、有効です」
「よかったですわ」
コンスタンツェは胸を張った。
「不愉快で有効。わたくしに似ていますわね」
「自覚がおありで」
オスカーが言った。
「最近、増えましたの」
その時、温室の外で足音がした。
ヴァルテンブルク家の侍女が現れ、エリーザベトに小さな封書を渡す。彼女は封を見て、眉をひそめた。
「誰からですの」
コンスタンツェが聞く。
「王宮管理局です」
エリーザベトは封を切った。
読み進めるにつれて、その白い顔がさらに冷たくなる。
「何と?」
「ヴァルテンブルク家の薬草園から、不正に管理外の眠り草が流出している疑いがあるため、近日中に調査を行う、と」
沈黙が落ちた。
早い。
早すぎる。
コンスタンツェは命乞い帳を握りしめた。
「誰かが、先に動いていますわね」
オスカーが言った。
「ええ」
エリーザベトの声は静かだった。
「わたくしを毒婦にする準備が、始まったようです」
ヴィルヘルミーネが扇を閉じた。
「なら、こちらも準備を早めましょう」
「何を?」
リーネはいない。
だが、彼女の白い顔がコンスタンツェの脳裏に浮かんだ。王太子の傍で、守られながら、少しずつ自分の言葉を失っていく少女。
毒婦。
未亡人。
悪女。
被害者。
役が配られ始めている。
コンスタンツェは立ち上がった。
「茶会をもう一度開きます」
「春の親睦茶会?」
ヴィルヘルミーネが聞く。
「いいえ」
コンスタンツェは、声が震えていないことに少し驚いた。
「作戦会議ですわ」
エリーザベトが彼女を見る。
「あなたが、作戦を?」
「不満ですの?」
「不安です」
「正直すぎますわ」
オスカーが静かに言った。
「では、まず目的を定めましょう」
「目的?」
「毒杯を出させないこと。ヴァルテンブルク家への濡れ衣を防ぐこと。ハルトヴィヒ家周辺の金と荷道の証拠を押さえること。アーレンス嬢を王太子殿下の証言台に立たされないようにすること」
「多いですわね」
「あなたが命乞い帳に書いた量に比べれば、少ない」
「そこを基準にしないでくださる?」
コンスタンツェは帳面にまた書いた。
九十、エリーザベトへの調査通知。毒婦にする準備開始。
九十一、役が配られ始めている。拒否すること。
九十二、目的。毒杯阻止、濡れ衣阻止、金と荷道の証拠、リーネを証言台に立たせない。
九十三、作戦会議を開く。名称は物騒だが、命より軽い問題。
書き終えると、彼女は深く息を吸った。
毒杯は、まだ未来にある。
だが、その材料はもう現在を歩いている。
薬草の匂いをまとい、金の流れに隠れ、王太子の善意の陰で、静かに近づいている。
コンスタンツェは怖かった。
とても怖かった。
だが、椅子に座ったまま震えていても、毒杯は向こうから来る。
それなら、せめてこちらから席を立つしかない。
「エリーザベト様」
「はい」
「その調査の日程、教えてくださる?」
「もちろん」
「ヴィルヘルミーネ様」
「何かしら」
「金の流れを、もっと詳しく」
「高いわよ」
「命よりは?」
「命の次くらい」
「では払います」
オスカーが言った。
「私は管理局の記録を見ます」
「頼みますわ」
コンスタンツェはそう言ってから、少しだけ照れた。頼む、という言葉を、こんなに素直に言ったのは久しぶりだった。
オスカーは何もからかわなかった。
それがまた、少し困った。
温室の外では、春の陽が傾き始めている。
コンスタンツェは白磁の茶杯を見た。
中の茶は冷めていた。毒ではない。ただの薬草茶である。
彼女は少し迷い、それから飲んだ。
苦かった。
だが、飲み込めた。
毒杯ではないものなら、自分にもまだ飲めるらしい。
それは小さな発見だった。
命乞い帳に書くほどではないと思ったが、結局、あとでこっそり書き足した。
九十四、苦い茶も、毒でなければ飲める。