軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第12話 豚小屋再訪

王宮の裏手に豚小屋があることを、普通の貴族令嬢は知らない。

知る必要がないからである。

王宮とは、白い列柱と磨かれた床と、香水を含んだ風の吹く場所でなければならない。

そこに肉を食う家畜の匂いや、湿った藁や、古い荷道や、働く者たちの靴跡があるなど、令嬢たちは考えない。

考えなくてすむように育てられる。

コンスタンツェも、一度目の人生ではそうだった。

ただし死ぬ直前に、嫌というほど知った。

「嫌ですわ」

彼女は王宮裏の石壁の前で、はっきりと言った。

「まだ何も言っていません」

オスカー・フォン・レーエンスベルクは、いつもの眠たげな顔で答えた。

「言わなくても分かりますわ。あなたがこの道を選んだ時点で、わたくしには十分すぎるほど分かります」

「こちらの方が人目につかない」

「人目につかない道には、たいてい碌でもないものがありますの」

「たとえば?」

「豚ですわ」

オスカーは、ほんのわずかに目を伏せた。

笑いをこらえたのかもしれない。

もしそうなら、失礼である。

非常に失礼である。

コンスタンツェは外套の前を握った。

今日は王宮の小会議に同席するという名目で来ていた。

ルーデンドルフ公爵家と王太子周辺の交際費について、父が書類を提出する。

その控えを確認するため、という体裁である。

本当の目的は、王宮裏手の古い家畜小屋と荷道を調べることだった。

オスカーは王宮書記局の人間として、古い納入記録を調べる権限がある。

コンスタンツェにはない。だから彼女は、彼を命綱兼案内人として連れてきた。

もっとも、本人は連れてこられたという顔をしていない。

むしろこちらを観察している。

よくない。

命綱に観察眼がありすぎるのは、便利であると同時に危険だった。

イーダは少し後ろを歩いている。

王宮の裏口まで侍女を連れてくるのはやや不自然だが、コンスタンツェが「精神安定上、必要です」と言い張った。

実際、必要である。豚と一対一で向き合うなど、魂の強い人間のすることで、自分には向いていない。

「本当に、行かなければなりませんの?」

コンスタンツェは小声で聞いた。

「行かなくても構いません」

オスカーは言った。

「まあ」

「ただし、あなたが命乞い帳に書いた『豚小屋の裏で見た馬車の紋らしきもの』は確認できません」

「嫌な言い方ですわね」

「正確な言い方です」

「正確さは人を傷つけますわ」

「不正確さは人を殺します」

そう言われると、返しにくい。

コンスタンツェは唇を噛んだ。

一度目の夜、彼女は確かに何かを見た。

泥に倒れ、宝石箱を抱え、豚に押されながら、古い木戸の隙間の向こうに黒い荷車があった。

車輪の泥。低い男の声。布で覆われた荷。揺れる小さな灯。

そこに、紋章の一部が見えた気がする。

鹿の角のようなもの。

ハルトヴィヒ家の紋章には、黒鹿が使われている。

もちろん、あの時の自分は恐怖と泥と尊厳喪失の中にいた。

見間違いかもしれない。

だが、もし見間違いでないなら。

あの夜、王宮裏で何かが運ばれていた。

コンスタンツェの毒杯と同じ夜に。

「行きますわ」

彼女は言った。

「ただし、豚が三歩以内に近づいた場合、あなたを盾にします」

「私は文官です」

「盾に職種は関係ありません」

「あると思います」

イーダが後ろで静かに言った。

「お嬢様。豚が近づきましたら、まずわたくしがお止めいたします」

「イーダ」

コンスタンツェは振り返った。

「あなた、忠義が過剰ではなくて?」

「豚相手なら、まだ現実的かと」

「それはそれで複雑ですわ」

古い石壁を回り込むと、空気が変わった。

王宮の表側にある花と香水の匂いが消え、湿った藁と土と獣の匂いが混じってくる。

春の光は同じなのに、ここだけ少し低く、少し重かった。

地面には車輪の跡が幾筋も残り、荷を運ぶ者たちの足音が遠くでしている。

そして、豚がいた。

柵の中で、丸い背がいくつも動いている。

鼻を鳴らし、泥を掘り返し、こちらには何の敬意も払っていない。

コンスタンツェは立ち止まった。

足が動かない。

喉の奥に、冷たい水の記憶が戻ってくる。

泥の匂い。豚の鼻息。宝石箱の重さ。足元が滑る感覚。空へ投げ出された体。水音。

手が震えた。

「公爵令嬢」

オスカーの声が、横から来た。

遠くない。

近すぎもしない。

「戻りますか」

その聞き方が、少しずるかった。

行け、と言わない。

行くべきだ、とも言わない。

戻る道を残している。

だから、戻りにくくなる。

「戻りませんわ」

コンスタンツェは言った。

「わたくしは、豚に二度負ける女ではありませんの」

「一度は負けたのですか」

「比喩ですわ!」

「では、比喩に再戦ですね」

腹立たしい。

腹立たしいが、少し息が戻った。

コンスタンツェは扇を握り、柵の横を進んだ。

豚が一頭、こちらを見た。

彼女は真剣に睨み返した。

「お退きなさい。今日は宝石箱を持っておりませんわ」

豚は鼻を鳴らした。

まったく分かっていない顔だった。

当然である。豚である。

柵の裏側には、古い木戸があった。

半ば土に沈み、普段は使われていないように見える。

だがよく見ると、蝶番に新しい油がさしてある。

オスカーが膝を折り、木戸の下を見た。

「使われていますね」

「最近?」

「おそらく。土の乾き方が違う。車輪跡もあります」

「王宮の正式な納入路では?」

「正式な納入路なら、あちらの石畳を使います。ここは古い非常用の荷道です。記録上は、十年以上前に閉じたことになっている」

「閉じた道に、油はさしませんわね」

「ええ」

オスカーは木戸を押した。

ぎい、と鈍い音がした。

その音に、コンスタンツェの背筋が縮む。

木戸の向こうには、細い道が続いていた。

王宮の外壁と古い倉庫の間を通る、薄暗い道である。

荷車一台がぎりぎり通れる幅。

地面は踏み固められていた。

イーダが小さく言った。

「この道は、使用人でもあまり通りません」

「知っているの?」

「厨房の者に聞いたことがございます。昔は肉や油を運ぶ道だったと」

「肉と油」

コンスタンツェは顔をしかめた。

「ますます不吉ですわ」

道の奥へ進む。

足元は乾いているが、ところどころに黒い泥がこびりついていた。

一度目の夜も、こんな泥だった。

彼女の靴とドレスと頬を汚した泥。

尊厳というものが、水に沈む前にまず泥で台無しになることを、彼女はあの夜学んだ。

オスカーが壁際で何かを拾った。

小さな布片だった。黒に近い深緑。金糸が少しだけ残っている。

「これは」

コンスタンツェは息を止めた。

金糸の形は、ごくわずかだが枝分かれしている。

鹿の角。

あるいは、それに似せたもの。

「ハルトヴィヒ家の色ですか」

オスカーが聞いた。

「……似ていますわ」

「断定は?」

「できません。ですが、王太子殿下の周囲でこの色を使う家は多くありません」

オスカーは布片を紙に包んだ。

「他にも見ましょう」

「まだ進みますの?」

「ここで帰るなら、豚との再戦は引き分けですね」

「進みますわ!」

まったく、腹立たしい男は人を動かすのがうまい。

道のさらに奥には、小さな倉庫があった。

戸は閉じている。

錠前は古いが、鍵穴に新しい傷がある。

オスカーは錠前を見て、眉を寄せた。

「開けられています」

「不法に?」

「正式なら、書記局に使用記録が残ります。少なくとも私は見ていません」

「あなたが見ていない書類もあるでしょう」

「あります。ですが、そういう言い方をする人間は、だいたい何か隠しています」

「職業病ですわ」

「ええ」

倉庫の戸は、オスカーが持っていた細い鍵で開いた。

「なぜ鍵を?」

「古い王宮倉庫の共通鍵です。書記局の備品」

「書記局は鍵まで持っているの?」

「記録と現物が合うか確認するためです」

「嫌な職場ですわね」

「便利な職場です」

中は薄暗かった。

空の樽。

壊れた木箱。

古い縄。

乾いた藁。

長く使われていない匂いの中に、なぜか新しい油と薬草の苦い匂いが混じっていた。

コンスタンツェはすぐにハンカチで鼻を押さえた。

「この匂い」

「分かりますか」

「分かりたくありませんわ。エリーザベト様の温室で嗅いだ匂いに似ています」

オスカーは倉庫の奥へ進み、空の小瓶を見つけた。

薄い硝子瓶で、栓はない。

底に緑がかった粉がわずかに残っている。

「触らないで」

コンスタンツェは思わず言った。

「触りません」

「吸わないで」

「吸いません」

「舐めないで」

「私は幼児ではありません」

「毒の前では人間など皆、幼児ですわ」

オスカーは紙で瓶を包んだ。

「エリーザベト嬢に見せましょう」

「ええ。あの方なら、怖い顔で怖いことを言ってくれますわ」

「信用しているのですね」

「怖い人は、怖い方向が分かると信用できますの」

「複雑な理論ですね」

「人生は複雑ですわ。特に死んだ後は」

言ってから、しまったと思った。

オスカーがこちらを見た。

「死んだ後」

「比喩です」

「便利な比喩が多い」

「あなたは便利な指摘が多すぎますわ」

彼は追及しなかった。

その代わり、静かに倉庫の床を見た。

「ここで荷を積み替えていますね」

「何の?」

「薬草か、薬液。あるいはそれに見せかけた何か。馬車業者を使えば、王宮の正式な納入記録には残らない」

「ハルトヴィヒ卿が?」

「まだ断定できません」

「でも布片がある」

「布片だけでは弱い。誰かが落とした可能性もある。偽装の可能性も」

「慎重ですのね」

「あなたが生き延びるには、慎重な人間も必要でしょう」

その言い方に、コンスタンツェは少しだけ黙った。

わたくしが生き延びるには。

彼は、そこを前提にしている。

それが妙に、温かくもあり、怖くもあった。

倉庫を出る時、豚がまた鼻を鳴らした。

コンスタンツェは足を止めた。

柵の中の豚は、こちらを見ている。

一度目の豚とは別の豚かもしれない。

同じかもしれない。

豚の顔の見分けなど、彼女の教養には含まれていない。

けれど、そこにいるだけで、あの夜の泥が戻る。

コンスタンツェはゆっくり息を吸った。

「お退きなさい」

声は震えた。

だが、出た。

「今回のわたくしは、まだ沈みませんわ」

豚は何も答えなかった。

その無理解が、少しありがたかった。

王宮裏から表の回廊へ戻ると、空気が急に軽くなった。

花の匂い。

磨かれた床。

女官たちの低い笑い声。

さきほどの泥と薬草の匂いが、遠い悪夢のように薄れる。

だが、コンスタンツェの靴の端には、黒い泥がついていた。

彼女はそれを見て、小さく息を吐いた。

「イーダ」

「はい」

「帰ったら、靴を捨てます」

「磨けば落ちるかと」

「尊厳は落ちませんわ」

「では、処分いたします」

オスカーが横で言った。

「証拠として泥を取っておいた方がいい」

コンスタンツェは彼を見た。

「あなた、情緒がないと言われません?」

「よく」

「でしょうね」

結局、靴は片方だけ証拠に残し、もう片方はイーダが磨くことになった。何事も妥協である。

帰りの馬車で、コンスタンツェは命乞い帳を開いた。

七十八、豚小屋再訪。生還。

七十九、豚に二度目の敗北はせず。勝利とは言い難い。

八十、古い荷道、使用痕あり。閉鎖記録と矛盾。

八十一、黒緑の布片。金糸。鹿角に似る。ハルトヴィヒ家の色に近い。

八十二、倉庫内に薬草臭。小瓶あり。エリーザベトに確認。

八十三、オスカーは靴の泥まで証拠にする。情緒なし。ただし有用。

八十四、豚は何も覚えていない。少し羨ましい。

最後の一行を書いて、コンスタンツェはペンを止めた。

覚えているのは、自分だけだ。

豚も知らない。

オスカーも知らない。

イーダも知らない。

あの夜、自分がどれほどみっともなく泣いたか。

宝石箱を離せずに沈んだこと。

最後まで美しくも高貴でもなかったこと。

誰も知らない。

知られたくないのに、誰かに少しだけ分かってほしいような気もする。

コンスタンツェは、その考えをすぐ押し込めた。

「イーダ」

「はい」

「蜂蜜菓子を一つ」

「今でございますか」

「豚に勝った褒美ですわ」

イーダは少しだけ笑って、包みを差し出した。

甘い菓子は、馬車の揺れの中で少し崩れていた。

それでも、毒よりはずっとよかった。