作品タイトル不明
第11話 命乞い帳を読まれる
秘密というものは、隠している時より、隠していることを忘れた時に外へ転がり出る。
その日、コンスタンツェは命乞い帳を小温室に置き忘れた。
原因はリーネだった。
帰り際、彼女が王太子から贈られたという小さな青いリボンを落とし、コンスタンツェがそれを拾った。
リーネは恐縮し、エリーザベトはリボンの染料が少し強いと言い、ヴィルヘルミーネは王太子の贈り物にしては趣味が若すぎると笑った。
その混乱の中で、命乞い帳は卓の端に残された。
気づいたのは、夕方だった。
「イーダ」
コンスタンツェは自室で立ち上がった。
「命乞い帳がありませんわ」
イーダの顔から血の気が引いた。
「お部屋には?」
「ないわ」
「書斎には?」
「ない」
「では、小温室では」
二人は顔を見合わせた。
小温室。
悪女同盟の茶会。
使用人が片づけに入る場所。
誰かに見られれば、非常にまずい。
命乞い帳は、日記ではない。
日記なら、まだ可愛げがある。
恋の悩みや、ドレスへの不満や、誰かへの悪口が書かれていると思ってもらえる。
だが、あれには毒杯対策、逃亡経路、宝石箱の重量、豚小屋回避、王太子殿下への警戒、オスカー・フォン・レーエンスベルクの観察力、悪女同盟の仮成立まで書かれている。
見られたら終わりである。
いや、死にはしないかもしれないが、かなり終わる。
「取りに行きますわ」
「わたくしが」
「いいえ、わたくしが行きます。もし誰かに見られていたら、その場で命乞いを」
「お嬢様、それは事態を悪化させます」
「では、買収を」
「相手によります」
「脅迫は?」
「もっと相手によります」
コンスタンツェは裾を持ち上げ、廊下へ出た。
夕暮れの屋敷は静かだった。
窓の外で、庭の木々が細く揺れている。
使用人たちの足音が遠くに聞こえる。
どの足音も、今は命乞い帳を持って逃げる者の足音に聞こえた。
小温室の扉は半分開いていた。
中から、人の声がする。
男の声。
「これは、ずいぶん実用的な帳面ですね」
コンスタンツェは、その場で凍った。
オスカー・フォン・レーエンスベルクの声だった。
なぜいる。
なぜこの男は、危険な場所に危険な時刻でいるのか。
命綱のくせに、こちらの首を締めに来るとはどういう了見か。
コンスタンツェは扉を押し開けた。
小温室の卓のそばに、オスカーが立っていた。
灰色の上着。片手に命乞い帳。
もう片方の手には、数枚の書類を持っている。
彼は顔を上げた。
「公爵令嬢」
「お返しなさい」
コンスタンツェは、ほとんど飛びかかるように近づいた。
「今すぐ。読みましたの?」
「少し」
「少しとは何行ですの」
「最初の六十九項目ほど」
「全部ではありませんの!」
「続きがあるのですか」
「ありません!」
イーダが後ろで額に手を当てている。
オスカーは帳面を閉じず、指で表紙を軽く押さえた。
「『わたくしが死なないための高貴なる覚書』。副題『命乞い帳』」
「読み上げないでくださる? 尊厳が剥げますわ」
「尊厳より命を優先する、と三十三項目目に」
「そこも読んだのですか!」
「はい」
この男は危険だ。
非常に危険だ。
豚小屋と同じくらい危険かもしれない。
いや、豚は文字を読まないだけまだましである。
「レーエンスベルク卿。あなた、他人の帳面を勝手に読むのは無作法ではなくて?」
「開いたまま置かれていました」
「閉じていても読んだでしょう」
「否定しきれません」
「正直な泥棒ですわね」
「記録係です」
「もっと悪いですわ!」
オスカーはようやく帳面を閉じた。
だが返さない。
「公爵令嬢。これは本当に命乞い帳なのですか」
「表紙に書いてありますわ」
「表紙はそうですが、中身は違う」
「違いません。毒杯対策も、逃亡経路も、宝石箱の重量も、すべて命乞いに関わります」
「これは宮廷危機の分析表です」
コンスタンツェは口を閉じた。
オスカーは卓に帳面を置き、数ページを開く。
「王太子殿下の言動。ハルトヴィヒ家周辺の資金移動。薬草の流通。アーレンス嬢の立場。ヴァルテンブルク家への偽装の可能性。ゼッケンドルフ夫人の金銭情報。使用人の待遇改善による屋敷内協力度の変化」
「最後のは生存対策ですわ」
「ですから、危機分析です」
「違います。命乞い帳です」
「国家運営にも使えます」
「国家はもっとまともな帳面で運営なさい!」
声が温室に響いた。
硝子の屋根が夕焼けを受けて、薄く赤くなっている。
その赤が、ふと毒杯の中身を思わせた。
コンスタンツェは息を吸った。
ここはあの部屋ではない。
卓の上にあるのは茶器であって、銀杯ではない。
オスカーの目が、その一瞬を見逃さなかった。
「あなたは、本当に毒杯を怖がっているのですね」
「誰だって怖がりますわ」
「まだ出されてもいない毒杯を?」
コンスタンツェは答えられなかった。
イーダが一歩近づこうとする。
コンスタンツェは手で制した。
オスカーは静かに言った。
「あなたは、まだ起きていないことを避けるように動いている」
「慎重なのです」
「慎重な人間は、命乞いの文句を三種類用意し、豚小屋の位置を調べ、水辺を敵視し、宝石箱の重量を憎むのですか」
「慎重の形は人それぞれですわ」
「かなり独特ですね」
「個性です」
「恐怖に見えます」
言葉が静かだったので、かえって逃げ場がなかった。
コンスタンツェは扇を握った。開くのも忘れていた。
「恐怖で悪いですの?」
声が少し低くなった。
「死ぬのは怖いですわ。毒を飲むのも、水に沈むのも、泥にまみれるのも、誰にも信じてもらえないのも、全部怖い。怖がるのは、そんなにおかしなこと?」
オスカーは、すぐには答えなかった。
小温室の外で、夕風が葉を揺らしている。
遠くで使用人の笑い声がした。
蜂蜜菓子の配給以来、屋敷の空気は少し緩んでいる。
平和な音だった。
その平和の中で、コンスタンツェだけが、まだ銀の杯の前にいる。
「おかしくはありません」
オスカーは言った。
「ただ、理由が現在に見当たりません」
「理由のない恐怖もありますわ」
「あります。ですが、あなたの恐怖には順序がある。毒杯。豚小屋。堀。宝石箱。王太子殿下。アーレンス嬢。ハルトヴィヒ卿。その順序が、何かの出来事の並びに見えます」
コンスタンツェは笑おうとした。
だが、うまくいかなかった。
「あなた、嫌われますわよ」
「よく言われます」
「でしょうね」
彼は帳面を閉じ、ようやく差し出した。
コンスタンツェは奪うように受け取った。胸に抱える。宝石箱と違って軽い。だが、今はこれの方がずっと重く感じた。
「あなたが何を見たのか、私には分かりません」
オスカーは言った。
「見たなどと」
「言い換えましょう。あなたが何を信じて怯えているのか、私にはまだ分からない」
「信じる?」
「ええ。未来か、夢か、記憶か、妄想か」
「ずいぶんな候補ですわね」
「証明できないものは、そう扱うしかありません」
冷たい。
だが、公平でもあった。
コンスタンツェは唇を噛んだ。
「では、わたくしが狂っていると思いますの?」
「可能性はあります」
「即答しないでくださる?」
「ただし」
オスカーは、彼女の目を見た。
「あなたが本気で怯えていることは事実です。そして、あなたの予測のいくつかは、すでに現実の動きと重なっている。ならば、理由は不明でも、情報として扱う価値があります」
「情報」
「はい」
「わたくしの恐怖を、情報にしますの?」
「恐怖は、きちんと扱えば優れた警報になります」
コンスタンツェは黙った。
それは慰めではなかった。
優しい言葉でもなかった。
だが、笑われるよりはましだった。
彼は彼女を聖女にしない。勇敢とも言わない。かわいそうとも言わない。ただ、恐怖を恐怖として置き、使える形にしようとしている。
妙な男だ。
とても嫌な男で、少しだけありがたい男だった。
「それで、あなたは何をしに来ましたの」
コンスタンツェは聞いた。
「父への書類は口実でしょう」
「半分は本当です」
「残り半分は?」
「あなたの茶会について、王宮で噂が立ち始めています」
コンスタンツェは眉を寄せた。
「早すぎませんこと?」
「社交界の噂は、馬車より速い」
「厄介ですわね」
「特に、王太子殿下の周囲が気にしています。アーレンス嬢が、あなたの屋敷に出入りしたこと。ヴァルテンブルク令嬢とゼッケンドルフ夫人が同席したこと」
ヴィルヘルミーネの言葉が蘇る。
悪女が一人なら吊るされる。
五人なら派閥。
四人でも、噂にはなるらしい。
「マグヌス卿は?」
「直接は何も。ただ、書記局にアーレンス男爵家の最近の支援記録を問い合わせてきました」
「支援記録?」
「王太子殿下の私的な庇護が、どの程度公的支出に触れているか。そこを整理したいようです」
コンスタンツェは命乞い帳を抱え直した。
金。
薬草。
馬車。
リーネ。
王太子の善意。
マグヌスの実務。
線が少しずつ、同じ場所へ向かっている。
「レーエンスベルク卿」
「はい」
「もし、王太子殿下の善意を使って、誰かが別のことをしているとしたら」
「あり得ます」
「早いですわね」
「王太子殿下は、善意に名前をつけるのが上手い。そういう方の周囲では、名前を借りたがる者が出ます」
「つまり、殿下は悪くないと?」
「そうは言っていません」
オスカーは淡々と言った。
「利用される善意にも、責任はあります」
その言葉は、静かに温室の空気へ落ちた。
コンスタンツェは少しだけ、アルブレヒトの顔を思い出した。
正しい自分を信じる青い目。
リーネを守ろうとする手。
そして、一度目の夜、自分に向けられた裁きの声。
「あなたは、殿下を嫌っておりますの?」
「いいえ」
「では、好き?」
「その二択しかない方が多すぎますね」
どこかで聞いた返しだった。
たぶん、自分が言った。
コンスタンツェは少しだけ笑ってしまった。
すぐに引っ込めたが、遅かった。オスカーが見ていた。
「何ですの」
「いえ」
「記録しないでくださる?」
「善処します」
「しない人の言い方ですわ」
イーダが背後で、少しだけ息をついた。
その息が、先ほどまでより軽い。
オスカーは卓上の書類を持ち直した。
「命乞い帳のことは、今のところ誰にも言いません」
「今のところ?」
「内容が国家転覆に向かわない限り」
「向かいませんわ! わたくしは国家より自分の命で手一杯ですの!」
「それは安心しました」
「本当にそう思っていますの?」
「はい。国家転覆を企む人間は、宝石箱の重さでここまで悩みません」
「褒めていますの?」
「かなり」
ひどい褒め言葉だった。
だが、コンスタンツェは命乞い帳をさらに強く抱きしめた。
「レーエンスベルク卿」
「はい」
「あなたは、わたくしを信じますの?」
「何を?」
「わたくしが怖がっているものを」
オスカーは少し考えた。
「あなたの説明は、まだ信じません」
コンスタンツェは唇を尖らせた。
「ですが」
彼は続けた。
「あなたが怖がっていることは信じます。今は、それで十分でしょう」
十分。
その言葉は、あまりに小さなものだった。
だが、一度目の広間で誰もくれなかったものでもあった。
十分ではない。
けれど、何もないよりはずっとよい。
コンスタンツェは視線を落とした。
「では、命綱としては仮採用ですわ」
「光栄です」
「まだ本採用ではありません」
「待遇は?」
「水辺のない職場を保証します」
「それはあなたの希望では?」
「兼用ですわ」
オスカーは、少しだけ笑った。
彼が去ったあと、コンスタンツェは温室の椅子に座り込んだ。
足の力が抜けていた。
「お嬢様」
イーダが近づく。
「大丈夫でございますか」
「大丈夫ですわ」
「お顔が白うございます」
「元からです」
「そういうことにしておきます」
イーダは茶を淹れ直した。
蜂蜜を多めに入れてくれる。何も言わずに。
コンスタンツェは命乞い帳を開いた。
七十、命乞い帳を置き忘れない。最重要。
七十一、オスカー・フォン・レーエンスベルクに読まれた。非常に危険。
七十二、ただし笑わなかった。
七十三、恐怖は警報になるらしい。
七十四、説明は信じないが、恐怖は信じる、とのこと。扱いに困る。
七十五、仮採用命綱。
そこまで書いて、手が止まった。
七十二、ただし笑わなかった。
その一行を見ていると、胸の奥が少し熱くなった。嫌な熱ではない。だが、危険な熱かもしれない。
コンスタンツェは蜂蜜茶を飲んだ。
「イーダ」
「はい」
「命乞い帳の隠し場所を変えますわ」
「どちらへ?」
「宝石箱の中」
イーダが無言になった。
コンスタンツェも、すぐに気づいた。
「……駄目ですわね。宝石箱は信用なりません」
「はい」
「では、軽い箱にします」
「それがよろしいかと」
外はすっかり暮れていた。
小温室の硝子に、部屋の灯りが映っている。
そこには、命乞い帳を抱えた公爵令嬢が映っていた。
美しく、青ざめ、たいへん情けない顔をしている。
だが、その背後にはイーダがいた。
少し離れた場所には、オスカーが残していった書類がある。
今日の茶会で、三人の女たちが座った椅子も、まだ片づけられていなかった。
一人ではない。
その状態は、やはり少し軽かった。
コンスタンツェは、その感傷をすぐに命乞い帳の端へ押し込めた。
七十六、一人ではないと油断するな。
七十七、でも、一人でない方が逃亡計画は立てやすい。
それならば実用的である。
彼女は満足して、帳面を閉じた。