軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

可哀想な人は、誰ですか

リリア・ベルノワール男爵令嬢。

五年間、王太子レオンハルト殿下が私より優先し続けた少女。

病弱で、か弱く、誰かに守られることに慣れていた人。

彼女は仕立屋の奥で、灰色の外套を両手で握りしめていた。

かつて王宮で見た時よりも、少し痩せたように見える。

けれど、その瞳は変わっていなかった。

自分が傷ついたと訴えることに、疑いを持たない瞳。

「リリア嬢」

私は静かに呼びかけた。

「ここで何をされていたのですか」

「メイナに、会いに来ただけです」

「何のために?」

「昔から仕えてくれていた子ですもの。会いたくなるのは、おかしいことですか」

「おかしくはありません」

私は答えた。

「ただし、王都で広がっている噂に関与しているなら、確認が必要です」

リリア嬢は、悲しそうに目を伏せた。

「私、そんなつもりでは」

その言葉を、私は何度も聞いた気がする。

そんなつもりではなかった。

ただ不安だった。

ただ寂しかった。

ただ助けてほしかった。

その「ただ」の後始末を、いつも誰かが背負ってきた。

私も、その一人だった。

「では、つもりではなく、事実を確認しましょう」

私は同行官吏に目で合図する。

記録の準備が整う。

仕立屋の店内には、店主、数人の客、メイナ、護衛、官吏がいる。

正式な審問室ではない。

だが、発言の記録は残せる。

「リリア嬢。あなたはメイナさんに、私が法を使ってレオンハルト殿下を追い落としたと話しましたか」

「そんな言い方はしていません」

「では、どのように?」

「私はただ、レオンハルト様が今も苦しんでいると話しただけです」

「なぜ苦しんでいると?」

「エリス様に捨てられたからです」

店内の空気が固まった。

私は静かに息を吸う。

「私は、レオンハルト殿下を捨てていません」

「でも、婚約を終わらせたではありませんか」

「婚約式に来なかったのは殿下です」

「リリア様が苦しんでいたからです!」

メイナが叫ぶように言った。

私は彼女を見る。

「メイナさん。リリア嬢がその日、医師の診察を受けなかったことは記録に残っています」

「だから、心の苦しみは記録に」

「心の苦しみを理由に、王太子の正式婚約式を無断欠席させたのですね」

メイナは黙った。

リリア嬢が小さく震える。

「私、そんなつもりでは……」

「では、どんなつもりでしたか」

「ただ、レオンハルト様にそばにいてほしくて」

「婚約式の日に?」

「その日じゃないと、私は耐えられなかったのです」

彼女の声はか細い。

けれど、その内容は残酷だった。

その日じゃないと耐えられなかった。

では、私は?

五年間、私は何度も耐えてきた。

夜会で隣に誰もいないこと。

視察先で、王太子の不在を頭を下げて謝ること。

自分の婚約式で、婚約者が来ないこと。

それらには、耐えて当然だと?

「リリア嬢」

私は静かに言った。

「あなたが苦しかったことは、否定しません」

リリア嬢が顔を上げる。

「ですが、あなたの苦しみは、私の人生を後回しにしてよい理由にはなりません」

「……」

「あなたがレオンハルト殿下を必要としていたとしても、殿下には王太子としての責務がありました。そして私との婚約に対する責任がありました」

「私は、ただ」

「ただ、ではありません」

私は遮った。

声は荒げない。

でも、言葉は譲らない。

「あなたは何度も殿下を呼びました。殿下は何度も応じました。その結果、私が代わりに謝罪し、調整し、記録し、穴を埋めました」

リリア嬢の唇が震える。

「私、そんなこと知りません」

「知ろうとしなかったのです」

店内が静まり返る。

私の声だけが、静かに響いた。

「知らなかったことと、関係ないことは違います」

リリア嬢は涙を浮かべた。

以前なら、この涙を見た瞬間、レオンハルト殿下は私を責めただろう。

エリス、言い過ぎだ。

リリアは病弱なんだ。

君なら分かってくれるだろう。

でも、ここにレオンハルト殿下はいない。

私が私の言葉を引っ込める理由もない。

「リリア嬢。あなたはメイナさんに、私の噂を広めるよう頼みましたか」

「頼んでなんて」

「では、何と言いましたか」

「……レオンハルト様が可哀想だと」

「他には?」

「エリス様は強いから、きっと平気だと」

胸の奥に、古い痛みが走った。

強いから平気。

その言葉は、何度私を黙らせてきただろう。

「私は平気ではありませんでした」

自然と、言葉が出た。

リリア嬢が目を見開く。

「でも、エリス様はいつも」

「笑っていましたか」

「……はい」

「笑っていれば、傷ついていないことになりますか」

リリア嬢は答えられなかった。

メイナも、店主も、客たちも黙っている。

私は続けた。

「私は公爵令嬢として、王太子の婚約者として、場を乱さないために笑っていました。それは平気だったからではありません」

レオンハルト殿下の隣で、私は何度も笑った。

笑えば、場が収まるから。

笑えば、誰もそれ以上聞いてこないから。

笑えば、自分の傷も見えないふりができたから。

「強く見える人間は、傷つかないわけではありません」

私の声は、自分でも驚くほど静かだった。

「ただ、傷ついても立っているだけです」

リリア嬢の瞳から涙がこぼれた。

「私……」

「謝罪を求めているわけではありません」

私は言った。

「今ここで必要なのは、あなたの涙ではなく、事実です」

リリア嬢が息を呑む。

「メイナさんに何を話したのか。誰に手紙を出したのか。王都で広がっている噂に、どこまで関わったのか。すべて確認します」

「そんな……」

「噂で人の名誉を傷つけるなら、責任が伴います」

リリア嬢は俯いた。

メイナが小さく震える声で言った。

「リリア様は悪くありません。私が勝手に」

「メイナ」

リリア嬢が制する。

その声は、意外にもはっきりしていた。

リリア嬢はしばらく黙っていたが、やがて小さな声で話し始めた。

「……手紙を、出しました」

「誰に?」

「昔、王宮で親しくしてくださっていた方々に。レオンハルト様が地方で苦しんでいること、エリス様が法務局で婚約破棄の相談を受けていることを」

「その中で、私が婚約を破壊していると?」

「そこまでは……でも、そう受け取られるような書き方をしたかもしれません」

「なぜ?」

「悔しかったからです」

初めて、彼女の言葉から飾りが消えた。

「エリス様は、何も失っていないように見えました。レオンハルト様と婚約がなくなっても、すぐ法務局に招かれて、ユリウス殿下にも認められて」

リリア嬢は泣きながら続ける。

「私は何もなくなったのに。王宮にも行けなくなって、レオンハルト様にも会えなくなって、皆から責められて」

「だから、私を悪者にしたかったのですか」

「……はい」

その答えに、店内の誰かが息を呑んだ。

記録係のペンが走る。

リリア嬢は、両手で顔を覆った。

「だって、エリス様は強いから。少しくらい言われても、大丈夫だと思ったのです」

「大丈夫ではありません」

私は言った。

「ですが、私はあなたと同じことはしません」

「同じこと……?」

「あなたを悪者にするための噂は流しません」

リリア嬢が顔を上げる。

私は彼女を見つめた。

「あなたがしたことは、記録に残します。必要な処分は法に従って行われます。けれど、私的な悪意であなたを貶めることはしません」

「どうして……」

「それをすれば、あなたと同じになるからです」

リリア嬢は、何も言わなかった。

いや、言えなかったのだろう。

しばらくして、同行官吏が聞き取り内容をまとめた。

リリア嬢は、複数の知人へ私を貶める内容の手紙を送っていたことを認めた。

メイナは、その手紙の内容を茶会で話した。

さらに一部の元王太子派の貴族が、それを利用して噂を大きくした。

完全な黒幕というより、複数の悪意と未練が絡み合っている。

それでも、出発点の一つがここにあることは分かった。

「リリア嬢」

私は最後に告げた。

「今後、私および王宮法務局に関する虚偽の噂を流した場合、正式な名誉毀損および業務妨害として扱います」

「……はい」

「メイナさんも同様です」

「はい」

メイナは項垂れた。

聞き取りを終え、仕立屋を出る頃には、通りに夕方の光が差していた。

同行官吏が記録を抱え、護衛が周囲を確認する。

私は少しだけ足を止め、空を見上げた。

疲れた。

そう思った。

けれど、言える場所があると思うと、その疲れは以前ほど重くなかった。

王宮法務局へ戻ると、ユリウス殿下が待っていた。

私の姿を見るなり、彼は近づいてくる。

「おかえりなさい」

「ただいま戻りました」

「無事で何よりです」

「殿下、ここは王宮です。そこまで心配なさらなくても」

「心配していました」

真っ直ぐ言われて、私は言葉を失う。

ユリウス殿下は、同行官吏から簡単な報告を受けた後、私を見る。

「疲れましたね」

「……はい」

今度は、素直に答えた。

「疲れました」

ユリウス殿下の表情が柔らかくなる。

「では、今日はもう休みましょう」

「報告書を」

「明日で構いません」

「しかし」

「エリス嬢」

少しだけ強い声だった。

「強く見える人間も、傷つくのでしょう」

私は息を止めた。

先ほど、私がリリア嬢に言った言葉。

もう報告が伝わっていたのか。

ユリウス殿下は静かに続ける。

「なら、今日は傷を増やさないでください」

胸の奥が、じんわりと温かくなる。

私は小さく頷いた。

「分かりました」

「よろしい」

その時、法務卿が執務室に入ってきた。

手には、数通の封書。

「休む前に一つだけ確認だ」

「何でしょうか」

「リリア嬢の手紙を受け取った貴族の中に、元王太子派の中心人物がいた」

私は姿勢を正した。

「どなたですか」

「グランベル侯爵家の嫡男、ヴィクトル・グランベル」

ユリウス殿下の表情が変わった。

名前に覚えがある。

グランベル侯爵家は、以前からレオンハルト殿下を強く支持していた家だ。

王族会議でも、最後までレオンハルト殿下の処分に反対していた。

法務卿は続けた。

「そして明後日、グランベル侯爵家主催の夜会がある。そこに、レオンハルト殿下が地方修養先から一時帰都して出席するという届けが出ている」

部屋が静まり返った。

レオンハルト殿下が、王都へ戻る。

私が返事をしていない手紙の主が。

ユリウス殿下が低く言った。

「兄上が、夜会に?」

「はい。名目は、侯爵家への私的訪問です」

私は、ゆっくり息を吸った。

噂。

リリア嬢。

元王太子派。

そして、レオンハルト殿下の帰都。

点が、少しずつ線になり始めている。

「エリス嬢」

ユリウス殿下が私を見る。

「無理に関わる必要はありません」

私は少しだけ考えた。

逃げることもできる。

行かないこともできる。

けれど、噂は夜会でさらに広がるだろう。

私がいない場所で、また物語が作られる。

王太子に捨てられた哀れな令嬢。

法で恋人たちを引き裂く悪女。

元王太子を追い落とした冷たい女。

もう、誰かの作った物語の中で黙って立つつもりはない。

「殿下」

「はい」

「その夜会に、私も出席できますか」

ユリウス殿下の銀灰の瞳が、わずかに揺れた。

「あなたが望むなら」

「望みます」

私ははっきり言った。

「私の名前で流された噂です。私の言葉で、終わらせます」

ユリウス殿下は、しばらく私を見つめていた。

そして、静かに頷く。

「では、私の同伴者として出席してください」

「殿下の?」

「はい」

その言葉の意味は、重い。

王太子の同伴者として夜会に出る。

それは、社交界に対する明確な意思表示になる。

エリス・フォン・アシュベルトは、王宮から遠ざけられた令嬢ではない。

新王太子が、公に隣へ立たせる人物である。

「よろしいのですか」

「私が望みます」

ユリウス殿下は、まっすぐ答えた。

「あなたを噂の中に一人で立たせるつもりはありません」

胸の奥が熱くなった。

守られるだけではない。

けれど、隣に立ってもらえる。

それは、こんなにも心強い。

「ありがとうございます」

「ただし、今日は休むこと」

「……はい」

「報告書は明日」

「はい」

「夕食も取ること」

「殿下」

「これは条件です」

少し笑ってしまった。

「承知しました」

その夜、私はいつもより早く屋敷へ戻った。

レオンハルト殿下への返事は、まだ書かなかった。

代わりに、夜会用の手袋を確認する。

白ではない。

淡い青でもない。

私は、銀糸の刺繍が入った深い紺の手袋を選んだ。

王家の色ではない。

私自身が選んだ色。

明後日、私は夜会へ行く。

誰かの婚約者としてではなく。

誰かに捨てられた令嬢としてでもなく。

エリス・フォン・アシュベルトとして。

私の名を、私の言葉で取り戻すために。