軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

王太子殿下の同伴者として

グランベル侯爵家の夜会は、王都でも指折りの規模を誇る。

王宮に次ぐ広さの大広間。

古い血筋を示す深紅の紋章旗。

天井から吊るされた硝子細工の灯り。

壁際には、王都中から集められた花々。

そのすべてが、侯爵家の力を示していた。

そして今夜、その夜会にはもう一つの意味がある。

元王太子レオンハルト殿下が、一時帰都して出席する。

地方修養中の身でありながら、元王太子派の中心であるグランベル侯爵家の夜会に姿を見せる。

それだけで、社交界は十分にざわついた。

さらに、私に関する噂も流れている。

王太子に捨てられた恨みから、婚約者たちを引き裂いている。

王宮法務局を使い、幸せな恋人たちを裁いている。

元王太子を追い落とし、新王太子に取り入った。

噂は、日ごとに衣装を変える。

最初は薄汚れた悪意だったものが、今では金糸の刺繍まで施され、いかにも本当らしい顔で歩き回っている。

だから私は今夜、ここへ来た。

誰かの作った物語を、黙って着せられないために。

「エリス嬢」

馬車の中で、ユリウス殿下が声をかけた。

私は窓の外から視線を戻す。

「はい」

「緊張していますか」

「しています」

正直に答えると、ユリウス殿下は少しだけ目を細めた。

「正直でよろしい」

「最近、殿下の褒める基準が低くなっていませんか」

「あなたが無理を隠さなくなったので、褒める機会が増えただけです」

「そうでしょうか」

「そうです」

馬車の中は静かだった。

外では、侯爵邸へ向かう馬車が列を作っている。

車輪の音、馬の息、遠くから漏れる音楽。

夜会はもう始まっている。

「確認しておきます」

ユリウス殿下は、穏やかな声で言った。

「今夜、あなたは私の同伴者です」

「はい」

「つまり、あなたに向けられる無礼は、私に向けられる無礼でもあります」

「殿下」

「脅すつもりはありません」

その言葉に、私は少しだけ首を傾げる。

十分に脅しのようにも聞こえる。

ただ、相手ではなく私を安心させるための言葉なのだと分かる。

「ですが、私が守られるだけでは意味がありません」

「分かっています」

ユリウス殿下は頷いた。

「あなたは、ご自分の言葉で立ちたいのでしょう」

「はい」

「では、私は隣に立ちます」

その言葉は、とても短かった。

けれど、私には十分だった。

誰かの後ろに隠れるのではない。

誰かを前に出して利用するのでもない。

隣に立つ。

ただ、それだけ。

それが、こんなにも心強い。

「ありがとうございます」

「こちらこそ」

「殿下が礼を言うことでは」

「私は、あなたに同伴していただけて心強いので」

私は一瞬、言葉に詰まった。

「私が、殿下を心強くするのですか」

「はい」

「王太子殿下を?」

「ええ」

ユリウス殿下は、当然のように頷いた。

「私も、一人で立っているわけではありません」

その言葉に、胸の奥が静かに揺れた。

王太子という立場は、きっと孤独だ。

兄を処分され、新たに王太子となり、元王太子派の反発を受ける。

その中で、彼もまた立っている。

完璧に見える人でも、支えを必要とすることがある。

私は、それを忘れていたのかもしれない。

「でしたら、今夜はきちんと務めます」

「無理はしない範囲で」

「はい」

「食事も取る範囲で」

「殿下」

「重要です」

少し笑ってしまった。

馬車が止まる。

扉が開き、夜会の灯りが差し込んだ。

先に降りたユリウス殿下が、私へ手を差し出す。

私はその手を取った。

白ではなく、淡い青でもなく。

私が選んだ深い紺の手袋。

その上に、ユリウス殿下の手がそっと添えられる。

侯爵邸の玄関前には、多くの視線が集まっていた。

王太子ユリウス殿下が来た。

そして、その同伴者は誰か。

人々が気づく。

エリス・フォン・アシュベルト。

元王太子の婚約者。

婚約式をひとりで終わらせた令嬢。

王宮法務局特別補佐官。

そして今、現王太子の同伴者。

さざ波のように、ざわめきが広がった。

私は背筋を伸ばす。

逃げない。

俯かない。

待たない。

私は、私の名でここに立つ。

「参りましょう」

ユリウス殿下が言った。

「はい」

大広間に入ると、音楽が一瞬だけ揺らいだように感じた。

実際には、演奏は続いている。

だが、人々の意識がこちらへ向いたことで、空気が変わったのだ。

グランベル侯爵が、笑顔で歩み寄ってくる。

銀髪を後ろに撫でつけた、恰幅のよい人物だった。

年齢を重ねた貴族らしい穏やかな笑みを浮かべているが、その目は鋭い。

「ユリウス王太子殿下。本日はようこそお越しくださいました」

「招待に感謝します、グランベル侯爵」

ユリウス殿下は礼を返す。

侯爵の視線が、私へ移る。

「そして、アシュベルト公爵令嬢も。いや、今は王宮法務局特別補佐官とお呼びすべきでしょうか」

「どちらでも構いません。今夜はユリウス殿下の同伴者として参りました」

「それはそれは」

侯爵は笑みを深めた。

「近頃、補佐官殿のお名前は社交界でよく耳にします」

「良い意味でしょうか」

「噂というものは、聞く者次第で意味を変えますからな」

「では、記録に残すには不向きですね」

私が答えると、侯爵の目がわずかに細くなった。

周囲の貴族たちが、密かに耳を傾けているのが分かる。

グランベル侯爵は、柔らかい口調で続けた。

「しかし、若い方々の恋路に法務局が関わるのは、いささか堅苦しい時代になったものですな」

「恋路を裁いているわけではありません」

「ほう」

「契約違反、財産の不正取得、虚偽の噂による名誉毀損。法務局が扱うのは、そちらです」

侯爵は笑った。

「なるほど。さすがは噂の補佐官殿。言葉が鋭い」

「事実を短くすると、鋭く聞こえることがあります」

ユリウス殿下が、隣でわずかに口元を緩めた気配がした。

侯爵は一瞬だけ沈黙し、それから視線を広間の奥へ向けた。

「今夜は、懐かしい方もお見えです。補佐官殿もお会いになりたいのでは?」

誰のことかは、言われなくても分かった。

広間の奥。

人垣の向こうに、金の髪が見えた。

レオンハルト殿下。

元王太子。

かつての私の婚約者。

彼は、こちらを見ていた。

距離はある。

けれど、その視線だけは分かる。

驚き。

戸惑い。

そして、何かを言いたそうな表情。

「お会いする必要があれば」

私は答えた。

「正式な場で、正式にお話しします」

侯爵は、わずかに眉を上げた。

「おや。かつての婚約者に対しても、法務局らしい」

「かつての婚約者だからこそ、曖昧にしないだけです」

その時、広間の空気がまた動いた。

レオンハルト殿下が、人垣を抜けてこちらへ歩いてくる。

周囲の会話が、少しずつ小さくなる。

誰もが見ていた。

元王太子。

新王太子。

そして、その間に立つ元婚約者。

随分と分かりやすい舞台だ。

だからこそ、間違えてはいけない。

ここで誰かの感情に流されれば、また新しい噂の餌になる。

レオンハルト殿下は、私たちの前で足を止めた。

以前より少し痩せたように見える。

華やかだった金の髪も、今夜は落ち着いた形に整えられていた。

「ユリウス」

「兄上」

兄弟は短く言葉を交わす。

それから、レオンハルト殿下は私を見た。

「エリス」

その声を聞いた瞬間、胸の奥に古い痛みがよみがえる。

けれど、私は微笑まなかった。

取り乱しもしなかった。

ただ、礼をする。

「レオンハルト殿下。お久しぶりでございます」

殿下の表情が、わずかに揺れた。

私が昔のように「レオンハルト様」と呼ばなかったからかもしれない。

「手紙を読んでくれただろうか」

「拝読いたしました」

「返事がなかったから……」

「返事をする必要があると判断しませんでした」

周囲が、小さくざわめいた。

レオンハルト殿下は、一瞬言葉を失う。

「私は、君に謝りたかった」

「そのお気持ちは、手紙に記されていました」

「なら、少し話せないか」

私は、静かに息を吸った。

ここで私的に話すことはできない。

この夜会は、すでに噂の中心だ。

私とレオンハルト殿下が二人で話せば、どのような物語に仕立てられるか分からない。

「ここは侯爵家の夜会です。私的なお話には不向きです」

「エリス」

「必要であれば、王宮法務局を通して正式に面会を申請してください」

レオンハルト殿下の顔が、痛ましげに歪んだ。

「君は、そこまで私を遠ざけるのか」

その言葉に、周囲が息を呑む。

私は、静かに彼を見た。

「遠ざけているのではありません」

かつて神殿で言った言葉を思い出す。

私は、殿下を捨てるのではありません。

殿下を待つ私を、終わりにするのです。

今も同じだ。

「私と殿下の間に、必要な距離を置いているだけです」

レオンハルト殿下は、何も言えなかった。

ユリウス殿下が、一歩だけ私の隣に並ぶ。

守るために前に出るのではない。

隣に。

その距離が、私に力をくれる。

グランベル侯爵が、場を取りなすように笑った。

「いやはや、若い方々は難しいですな。かつての誤解も、今夜のうちに解ければよいのですが」

誤解。

また、その言葉だ。

私は侯爵を見た。

「誤解とは、どの件でしょうか」

「もちろん、殿下と補佐官殿のことです」

「私とレオンハルト殿下の婚約は、誤解で終わったのではありません」

広間が静まる。

私は続けた。

「正式な記録に基づき、法的に終わりました」

この場の全員に聞こえるように。

声を張り上げず、しかし明確に。

「そして、婚約を終わらせたことは、私が他人の婚約を壊している理由にはなりません」

ざわめきが走る。

噂を知っている者たちが、互いに視線を交わした。

グランベル侯爵の笑みが、ほんの少しだけ消えた。

「補佐官殿。それは、今この場で話すべきことですかな」

「侯爵閣下が、今この場で誤解と仰いましたので」

私は答えた。

「誤解であるなら、早く解くべきでしょう」

ユリウス殿下が静かに言った。

「私も同意します」

その一言で、空気が決まった。

王太子が、私の発言を支持した。

グランベル侯爵は、もう笑うしかなかった。

「なるほど。では、今夜は興味深い夜になりそうですな」

ええ。

私もそう思う。

この夜会は、ただの再会では終わらない。

誰が噂を作り、誰が利用し、誰が沈黙を望んでいるのか。

今夜、その一部は必ず見える。

レオンハルト殿下は、まだ私を見ていた。

私はその視線を受け止める。

もう、待つためではなく。

終わった過去と、向き合うために。