軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

謝罪は、相手のために差し出すものです

夜会の大広間は、華やかだった。

音楽が流れ、笑い声が響き、宝石と絹が灯りを受けてきらめいている。

けれど、その華やかさの下で、人々の関心は一か所に集まっていた。

元王太子レオンハルト殿下。

現王太子ユリウス殿下。

そして私、エリス・フォン・アシュベルト。

この三人が同じ場に立っている。

それだけで、社交界にとっては十分な見世物なのだろう。

私は、そういう視線に慣れている。

王太子の婚約者だった頃も、常に見られていた。

笑い方。

歩き方。

言葉の選び方。

隣に立つ距離。

失敗しないこと。

だが、あの頃と今では違う。

今の私は、誰かのために完璧な婚約者を演じているのではない。

自分の言葉で立っている。

「エリス」

レオンハルト殿下が、もう一度私の名を呼んだ。

その声には、以前のような当然の響きはなかった。

少し躊躇いがある。

少し痛みもある。

けれど、私はそれに流されない。

「何でしょうか、レオンハルト殿下」

「少しだけでいい。話を聞いてほしい」

「こちらで、ですか」

私は周囲を見る。

大広間の中心近く。

聞き耳を立てるには十分な距離に貴族たちがいる。

レオンハルト殿下も、そのことに気づいたのだろう。

「では、庭園で」

「お断りします」

即答した。

周囲がまたざわめく。

レオンハルト殿下は、目を見開いた。

「なぜ」

「私と殿下が二人きりで庭園へ出れば、どのような噂になるか分かりません」

「私は、そんなつもりでは」

「殿下のつもりではなく、周囲の受け取り方の問題です」

私は淡々と答える。

「そして私は、これ以上、誰かに都合よく物語を作られたくありません」

レオンハルト殿下は、言葉に詰まった。

ユリウス殿下が隣で静かに言う。

「兄上。話が必要なら、この場で、私も立ち会います」

「ユリウス、お前は」

「王太子としてではなく、エリス嬢の同伴者として申し上げています」

その言葉に、レオンハルト殿下の表情がわずかに曇った。

同伴者。

その事実が、彼には重いのだろう。

かつて、私がレオンハルト殿下の隣に立っていたように、今はユリウス殿下の隣に立っている。

けれど意味は違う。

あの頃の私は、置き去りにされても隣に立つことを求められていた。

今の私は、自分の意思でここにいる。

「……分かった」

レオンハルト殿下は、深く息を吐いた。

「この場で言う」

彼は私を見た。

その視線に、昔の甘さはない。

代わりに、後悔の色があった。

「エリス。あの日のことを謝りたい」

大広間の空気が、少しずつ静まる。

音楽だけが流れ続けている。

「婚約式の日、私は神殿へ行かなかった。いや、行かなかったのではなく、行くべきだったのに行かなかった」

彼の声は震えていた。

「リリアが不安定で、私を必要としていると思った。君なら待ってくれると、そう思った」

私は黙って聞いていた。

「だが、それは間違いだった。君は五年間、何度も待ってくれていた。私が公務を抜けた時も、式典を欠席した時も、君が代わりに頭を下げていた」

ようやく。

ようやく、そのことに気づいたのか。

そう思った。

けれど、不思議と胸は大きく揺れなかった。

それは、もう私がその謝罪を待っていなかったからかもしれない。

「地方へ行ってから、初めて分かった。私が当然だと思っていたことの多くは、君が整えてくれていたのだと」

レオンハルト殿下は、拳を握る。

「私は、君を婚約者としてではなく、便利な支えとして扱っていたのかもしれない」

その言葉に、ユリウス殿下の表情がわずかに動いた。

私は静かに息を吸った。

「その通りです」

レオンハルト殿下が顔を上げる。

「私は、殿下の婚約者でした。けれど、殿下にとっては、殿下の不在を埋める者だったのでしょう」

「エリス……」

「私は何度も待ちました。何度も許しました。何度も、分かってくれるだろうと言われました」

私は彼をまっすぐ見る。

「ですが、分かってほしかったのは私も同じです」

レオンハルト殿下の顔が歪んだ。

周囲の誰かが、小さく息を呑む。

「君のことを、私は分かっていなかった」

「はい」

「すまなかった」

彼は頭を下げた。

元王太子が、公衆の面前で私に頭を下げる。

それは、社交界にとって大きな出来事だろう。

けれど私は、その光景を見ても、不思議と勝ち誇る気持ちにはならなかった。

謝罪は、勝敗ではない。

傷を負わせた側が、ようやく傷を見たというだけのことだ。

「謝罪は受け取りました」

私は言った。

レオンハルト殿下が顔を上げる。

その瞳に、わずかな期待が宿った。

だから、私は続けた。

「ですが、それで過去が戻るわけではありません」

期待が、静かに消える。

「分かっている」

「また、私と殿下の関係が戻ることもありません」

レオンハルト殿下の肩が揺れた。

それでも彼は、目を逸らさなかった。

「……分かっている」

「本当に?」

思わず、問い返していた。

彼は少しだけ苦しそうに笑った。

「分かっているつもりだった。だが、君がユリウスの隣にいるのを見て、私はまだ愚かな期待を捨てきれていなかったのだと知った」

正直な言葉だった。

だからこそ、私は少しだけ困った。

人は、完全な悪人ばかりではない。

レオンハルト殿下は無責任だった。

私を傷つけた。

リリア嬢を優先し、王太子としての責務を軽んじた。

けれど今、彼は自分の愚かさを見ようとしている。

それでも、戻る理由にはならない。

「殿下」

「何だろう」

「謝罪は、相手のために差し出すものです」

私は静かに言った。

「自分が許されるためでも、関係を戻すためでもなく、傷つけた事実を認めるために」

レオンハルト殿下は、黙って聞いていた。

「もし殿下が本当に謝りたいのなら、私だけではなく、殿下が軽んじてきた責務にも向き合ってください」

「責務……」

「地方修養は、罰であると同時に機会です」

私は続ける。

「そこで、もう一度学んでください。誰かに支えられるとはどういうことか。支えてくれる人を当然に扱うことが、どれほど危ういことか」

レオンハルト殿下は、深く息を吐いた。

「君は、強いな」

その言葉に、私は少しだけ目を細めた。

また、その言葉か。

だが、続く言葉は違った。

「いや、違う。強いから平気だったわけではないのだな」

私は、何も言わなかった。

レオンハルト殿下は、自分の言葉を確かめるように続けた。

「君は、傷ついても立っていただけだった」

胸の奥が、わずかに痛んだ。

けれど、それは嫌な痛みではなかった。

遅すぎた理解。

それでも、理解されないまま終わるよりは、きっとましなのだろう。

「そうです」

私は答えた。

「だから、もう私は自分を平気だとは言いません」

「そうか」

レオンハルト殿下は、少しだけ笑った。

寂しそうな笑みだった。

「ユリウス」

彼は弟へ向き直る。

「彼女を、私のように扱うな」

ユリウス殿下の表情は変わらない。

だが、その声ははっきりしていた。

「言われるまでもありません」

それだけで十分だった。

周囲の空気が、少しずつ変わっているのが分かる。

元王太子が謝罪した。

私はそれを受け取り、復縁は否定した。

ユリウス殿下は、私の隣に立ち続けた。

噂が好む曖昧な余白は、少しずつ消えていく。

その時、グランベル侯爵の嫡男、ヴィクトル・グランベルが人垣の中から歩み出た。

整った顔立ちの青年だった。

だが、その目にはあからさまな不満がある。

「美しい和解の場を邪魔するようで恐縮ですが」

彼は軽く礼をした。

「一つ、伺ってもよろしいでしょうか。アシュベルト公爵令嬢」

「どうぞ」

「あなたは今、元王太子殿下を許したように見えます。ですがその一方で、王宮法務局では婚約破棄の相談を受け、貴族家を次々と追及している」

周囲がまたざわつく。

ヴィクトルは、明らかにこの話題へ持っていくつもりだったのだ。

「それは矛盾していませんか」

「どの点がでしょう」

「個人的には謝罪を受け入れる寛容さを見せながら、他家の婚約問題では徹底的に責任を追及する。まるで、ご自分に都合よく法を使い分けているように見えます」

なるほど。

これが今夜の本題か。

私はヴィクトルを見た。

「ご質問にお答えする前に、確認してもよろしいですか」

「何でしょう」

「あなたは、ラングレー家の持参金詐取疑惑をご存じのうえで、その発言をされていますか」

ヴィクトルの表情が一瞬だけ固まった。

大広間の空気が変わる。

私は静かに続けた。

「私が法務局で扱ったのは、ただの婚約破棄ではありません。持参金の不正取得、不公正契約、虚偽説明、資金移動です」

「それは、法務局の一方的な見解でしょう」

「記録があります」

私ははっきり言った。

「送金記録、契約書、証言書、手紙、商業登録記録。すべて正式な記録です」

「しかし、若い男女の心変わりにそこまで」

「心変わりは罪ではありません」

私は彼の言葉を遮った。

「ですが、心変わりを理由に他人の財産を奪うことは問題です」

ヴィクトルは唇を引き結んだ。

私は一歩も引かない。

「謝罪を受け入れることと、責任を曖昧にすることは違います」

私はレオンハルト殿下を見る。

「レオンハルト殿下の謝罪を受け取りました。ですが、殿下が王太子位を失った事実は変わりません。地方修養の処分も変わりません」

次に、ヴィクトルへ視線を戻す。

「同じように、誰かが謝ったとしても、契約違反や財産侵害の責任が消えるわけではありません」

大広間は静まり返っていた。

ヴィクトルの狙いは、私を感情的な女に見せることだったのだろう。

元婚約者を許すふりをしながら、他者を裁く矛盾した令嬢。

けれど、その筋書きには乗らない。

「許すかどうかは、傷つけられた側が決めることです」

私は言った。

「責任を取るかどうかは、法と記録に基づいて判断されることです」

ユリウス殿下が、静かに私の隣に立っている。

その気配だけで、十分だった。

ヴィクトルは、まだ何かを言おうとした。

その時、レオンハルト殿下が口を開いた。

「ヴィクトル。やめろ」

「殿下」

「私は、エリスに追い落とされたのではない」

その声は、広間によく通った。

「私が、自分の責任を果たさなかった。それだけだ」

ヴィクトルが目を見開く。

レオンハルト殿下は続けた。

「彼女を悪者にして私を慰めようとするのなら、それは私への侮辱でもある」

沈黙。

それは、決定的な沈黙だった。

元王太子本人が、噂を否定した。

私が彼を追い落としたのではないと。

私は、少しだけ驚いていた。

レオンハルト殿下は、私を見た。

そして、今度は何も求めなかった。

ただ、小さく礼をした。

その姿を見て、私は思う。

完全にやり直せなくても、人は少しだけ変われるのかもしれない。

過去が消えるわけではない。

けれど、過去と違う選択をすることはできる。

ユリウス殿下が、低く言った。

「ヴィクトル・グランベル」

「……はい」

「今夜この場で流布された噂について、後日、王宮法務局に説明を求めます」

ヴィクトルの顔色が変わった。

「私はただ、疑問を」

「疑問を持つことは自由です」

ユリウス殿下の声は静かだった。

「ですが、虚偽の噂を利用して他者の名誉を傷つけるなら、責任が伴います」

先日、私が言った言葉と同じだ。

胸の奥が、少し温かくなる。

ヴィクトルは、それ以上何も言えなかった。

音楽が、ようやく人々の耳に戻ってくる。

夜会は続く。

けれど、空気は変わった。

私は静かに息を吐いた。

レオンハルト殿下との会話は終わった。

謝罪も、過去も、完全に整理できたわけではない。

それでも、一つだけはっきりした。

私はもう、彼の言葉を待っていない。

私の人生は、すでに別の場所へ進み始めている。