軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

正式な記録は、噂よりも強い

ヴィクトル・グランベルは、社交界で人気のある青年だった。

侯爵家の嫡男。

元王太子レオンハルト殿下の側近格。

軽妙な会話を好み、多くの若い貴族たちに慕われている。

だからこそ、彼の言葉は広がりやすい。

彼が冗談めかして言えば、それは誰かの茶会へ持ち込まれる。

彼が眉をひそめて語れば、それは疑惑として形を得る。

噂は、一人で歩くのではない。

歩かせる人間がいる。

私は今、その一人を目の前にしていた。

大広間の空気は、先ほどまでの華やかさを失っていた。

誰もが成り行きを見守っている。

ヴィクトルは、ユリウス殿下に王宮法務局での説明を求められ、顔を強張らせていた。

「王太子殿下」

グランベル侯爵が、そこで口を開いた。

息子を庇うように、一歩前へ出る。

「若者の軽率な発言に、そこまで厳しくなさる必要はございますまい」

「軽率な発言で、人の名誉は傷つきます」

ユリウス殿下は静かに答えた。

「まして、それが意図的に広げられたものであれば、軽率では済みません」

侯爵は笑みを浮かべた。

「意図的とは、ずいぶんなお言葉ですな。ヴィクトルはただ、社交界で囁かれている疑問を口にしただけでしょう」

「では、その疑問がどこから来たのか確認する必要がありますね」

私は言った。

侯爵の視線が私へ向く。

「補佐官殿は、今夜も記録のお話ですかな」

「はい」

私は頷いた。

「正式な記録は、噂よりも強いので」

その言葉に、周囲の一部がざわめいた。

この場にいる者の多くは、噂を楽しむ側だ。

だが、楽しむ側でいられるのは、自分が噂の対象ではない時だけである。

「まず、確認いたします」

私はヴィクトルを見る。

「ヴィクトル様。あなたは、私が王太子に捨てられた恨みから、婚約者たちを引き裂いている、という話をなさいましたか」

「私は、そこまで直接的には」

「では、どう表現されましたか」

ヴィクトルは口を閉ざした。

「思い出せませんか」

「社交の場での会話を、いちいち覚えているはずがないでしょう」

「では、覚えていない会話で他者の名誉を傷つけた可能性があるということですね」

彼の眉が跳ねる。

「言葉尻を取るのはやめていただきたい」

「記録とは、多くの場合、言葉尻から始まります」

私は静かに答えた。

「誰が、いつ、どこで、何を言ったか。それを確認するだけです」

グランベル侯爵が不快そうに口を開く。

「社交界の会話に法務局が入り込むとなれば、誰も安心して話せなくなる」

「虚偽の噂で他者を傷つけなければ、安心して話せます」

私の返答に、周囲の数人が小さく目を伏せた。

心当たりがあるのだろう。

噂は、娯楽として扱われる。

誰が誰に捨てられた。

誰が誰を奪った。

誰が誰に取り入った。

そうした話は、茶菓子と一緒に消費される。

だが、その噂の中に置かれた人間には生活がある。

名誉がある。

未来がある。

私は、そのことを忘れたくない。

「ヴィクトル様」

私は再び問いかけた。

「リリア・ベルノワール男爵令嬢からの手紙を受け取りましたね」

ヴィクトルの顔色が変わる。

その反応で十分だった。

「……どこでそれを」

「確認を進めています」

「私的な手紙です」

「その私的な手紙に基づいて、私に関する噂を広めたのであれば、私的では済みません」

ヴィクトルは唇を噛んだ。

グランベル侯爵の表情も硬くなる。

周囲の貴族たちが、互いに視線を交わす。

リリア嬢の名が出たことで、噂の構図が見え始めたのだ。

リリア嬢が手紙を書く。

メイナが茶会で語る。

ヴィクトルたち元王太子派がそれを利用する。

そして、エリスを悪者にし、レオンハルト殿下への同情を集める。

その流れは、あまりにも分かりやすい。

「私は、リリア嬢を憐れに思っただけです」

ヴィクトルが言った。

「彼女はすべてを失った。元王太子殿下も、居場所も、名誉も」

「だから、私の名誉を傷つけてよいと?」

「あなたは失っていないではないですか」

その言葉は、以前リリア嬢が言ったものと似ていた。

エリス様は何も失っていないように見えました。

私は、静かに彼を見た。

「失っていないように見えたから、傷つけてもよいと?」

ヴィクトルは答えない。

「私は婚約を失いました。五年間積み上げた未来を失いました。王太子妃候補としての立場も失いました」

私は声を荒げなかった。

淡々と、事実を並べる。

「そのうえで、別の道を選びました」

ヴィクトルの視線が揺れる。

「失った後に立ち上がった人間を、失っていない人間だと決めつけないでください」

広間が静かになる。

私は続けた。

「リリア嬢が失ったものがあることは否定しません。レオンハルト殿下が後悔していることも、今夜ご本人から伺いました」

私はレオンハルト殿下を見る。

彼は、黙ってこちらを見ていた。

「ですが、誰かの後悔や喪失は、別の誰かを貶める理由にはなりません」

ユリウス殿下が、隣で静かに頷いた。

その姿に、私は少しだけ力をもらう。

「ヴィクトル様。あなたは、リリア嬢の手紙を受け取りました。メイナが茶会で語った内容も聞いていた。そして今夜、この場で私が法を都合よく使っているかのように発言した」

「疑問を呈しただけです」

「疑問の形をした中傷もあります」

私は言った。

「特に、事実確認をせずに広めるなら」

ヴィクトルは、初めて言葉を失った。

グランベル侯爵が低い声で言う。

「補佐官殿。あなたは随分と強気だ。侯爵家を敵に回すおつもりか」

その瞬間、空気が鋭くなった。

脅し。

分かりやすいほどの脅しだった。

だが、私は怯まない。

私が返答する前に、ユリウス殿下が一歩前へ出た。

「侯爵」

その声は静かだった。

しかし、大広間の誰もが背筋を伸ばすほどの重さがあった。

「今の発言は、王宮法務局特別補佐官に対する圧力と受け取れます」

侯爵の顔色が変わる。

「いえ、そのような意図では」

「意図ではなく、発言の内容を確認しています」

ユリウス殿下は続ける。

「エリス嬢は、王宮法務局の職務として噂の出どころを確認している。侯爵家の名をもってそれを牽制するなら、正式に記録します」

私は思わず、ユリウス殿下を見た。

彼は私の前に完全に立ち塞がったわけではない。

半歩だけ前。

私の視界を遮らない位置。

私が言葉を続けられる余地を残しながら、必要な分だけ守ってくれている。

その距離に、胸が温かくなった。

「侯爵閣下」

私はユリウス殿下の隣で口を開く。

「私は侯爵家を敵に回したいのではありません」

侯爵がこちらを見る。

「記録を味方につけているだけです」

その言葉に、周囲の空気がまた動いた。

私はヴィクトルへ視線を戻す。

「ヴィクトル様。リリア嬢からの手紙を、王宮法務局へ提出してください」

「なぜ私が」

「あなたがその内容を根拠に噂を広めた可能性があるためです」

「提出しなければ?」

「正式な調査手続きに進みます」

ヴィクトルは父を見る。

グランベル侯爵は、苦々しい顔で黙っていた。

レオンハルト殿下が、そこで口を開いた。

「ヴィクトル。提出しろ」

「殿下」

「リリアのためだと言うなら、なおさらだ。曖昧な噂で彼女の名まで利用するな」

ヴィクトルは悔しそうに唇を噛む。

だが、元王太子本人に言われては逆らいにくい。

「……後日、提出します」

「後日ではなく、明日正午までに」

私は訂正した。

「王宮法務局へ」

ヴィクトルは私を睨んだ。

だが、もう何も言わなかった。

その時、夜会の主催者であるグランベル侯爵夫人が、音楽を再開するよう楽団へ合図した。

止まりかけていた夜会を、無理やり元の形へ戻そうとしている。

けれど、もう空気は戻らない。

噂は、この場で一度切られた。

完全に消えたわけではない。

だが、少なくとも今夜ここにいた者たちは知った。

エリス・フォン・アシュベルトは、黙って噂を着せられる令嬢ではない。

記録を持ち、言葉を持ち、王太子の隣に立っている。

そして、元王太子自身も彼女を追い落とされた被害者とは認めなかった。

それで十分だ。

少なくとも、今夜は。

音楽が流れ始めると、ユリウス殿下が私へ向き直った。

「エリス嬢」

「はい」

「一曲、お願いできますか」

その言葉に、私は瞬いた。

「今、ですか」

「今です」

「この流れで踊るのですか」

「この流れだからこそ」

ユリウス殿下は、手を差し出した。

「あなたが噂に傷つけられて退場したのではなく、堂々と夜会を続けたと示すために」

「……政治的ですね」

「はい」

「それだけですか?」

思わず尋ねてしまった。

ユリウス殿下は、一瞬だけ目を細めた。

そして、少し声を落とす。

「私個人としても、あなたと踊りたいと思っています」

胸の奥が、跳ねた。

今度こそ、返答に困る。

周囲は見ている。

夜会の空気もまだ落ち着いていない。

けれど、私は自分で選ぶと決めた。

待つのではなく。

選ぶ。

「一曲だけなら」

私が答えると、ユリウス殿下は静かに微笑んだ。

「ありがとうございます」

私は彼の手を取る。

大広間の中央へ進む。

視線が集まる。

レオンハルト殿下も、ヴィクトルも、グランベル侯爵も、リリア嬢の手紙を受け取ったかもしれない誰かも。

皆が見ている。

けれど、不思議と怖くなかった。

音楽が始まる。

ユリウス殿下の手は、強すぎず、弱すぎない。

私を支配しない。

けれど、離さない。

「疲れていませんか」

「少し」

「途中でやめても構いません」

「そこまで弱くはありません」

「強いから平気、とは言いません」

その言葉に、私は少し笑った。

「ありがとうございます」

「ですが、疲れたら言ってください」

「はい」

私たちは踊る。

王太子と、その同伴者として。

噂の中の悪女としてではなく。

捨てられた令嬢としてでもなく。

エリス・フォン・アシュベルトとして。

曲が終わる頃、広間のざわめきは少し落ち着いていた。

人々はもう、好き勝手に噂を語るだけではいられない。

正式な記録が動き出したからだ。

夜会の帰り道。

馬車の中で、私は深く息を吐いた。

「疲れました」

自分から言えた。

ユリウス殿下は、満足そうに頷く。

「よく言えました」

「やはり褒める基準が低いです」

「重要な進歩です」

私は窓の外を見る。

王都の灯りが流れていく。

「殿下」

「はい」

「ありがとうございました。今夜、隣に立ってくださって」

「こちらこそ」

「殿下がいなければ、私はもっと怖かったと思います」

少しの沈黙。

言ってから、少し恥ずかしくなった。

けれど、ユリウス殿下は静かに答えた。

「そう言っていただけるなら、同伴者としての役目は果たせたようです」

「同伴者として、ですか」

「今は」

私は彼を見る。

ユリウス殿下は、窓の外へ視線を向けていた。

横顔は穏やかだが、その言葉の余韻だけが残る。

今は。

その意味を、私はまだ尋ねなかった。

翌朝。

王宮法務局に、ヴィクトル・グランベルから封書が届いた。

中には、リリア嬢からの手紙が数通。

そして、もう一つ。

グランベル侯爵家が、複数の貴族家へ送っていた招待状の写しがあった。

その余白には、手書きでこう添えられていた。

――元王太子殿下の名誉回復のため、夜会にて世論を整えること。

私はその一文を見て、静かに目を細めた。

噂は、ただの噂ではなかった。

意図的に整えられていた。

そしてそれは、レオンハルト殿下自身の望みではなかったとしても、元王太子派による政治的な動きだった。

法務卿が低く言う。

「次は侯爵家だな」

私は頷いた。

「はい」

正式な記録は、噂よりも強い。

ならば次は、その記録で、噂を作った者たちの意図を明らかにする番だ。