作品タイトル不明
元王太子派の名誉回復計画
グランベル侯爵家から届いた封書は、朝の王宮法務局に重い沈黙を落とした。
封書そのものは、よくある貴族家の書簡だった。
上質な紙。 侯爵家の紋章入り封蝋。 整った筆跡。
だが、その中に同封されていた写しには、明らかにただの社交では済まない文言が残されていた。
グランベル侯爵家夜会について
元王太子レオンハルト殿下の名誉回復のため、夜会にて世論を整えること。
アシュベルト公爵令嬢による一連の法務局活動が、社交界に過度な不安を与えている点を強調する。
王太子位剥奪は拙速であり、殿下には再評価の余地があるという空気を作ること。
なお、直接的な王家批判は避ける。
あくまで「若い方々のすれ違い」「法の硬直性」「令嬢の過剰な反応」という形で語ること。
私はその写しを読み終え、しばらく指先を紙の端に置いたまま黙っていた。
法務卿は、腕を組んで深く息を吐く。
「世論を整える、か。ずいぶん便利な言葉だ」
「事実を整えるのではなく、見え方を整えるという意味ですね」
「より悪い」
法務卿の声は低かった。
ユリウス殿下は、窓際に立って書状を見下ろしていた。 その表情は静かだが、銀灰の瞳には冷たい光がある。
「兄上の名誉回復を望むこと自体は、政治的意見として存在し得ます」
「はい」
「ですが、そのためにエリス嬢の名誉を傷つけ、王宮法務局の信頼を揺らそうとしたのなら、看過できません」
私は頷いた。
私個人への中傷だけなら、まだ私自身の問題として処理できる。 だが今回は違う。
王宮法務局が、婚約を壊す場所である。 私が、恨みで貴族家を追い詰めている。 そういう噂が広がれば、本当に助けを求めたい令嬢たちは口を閉ざす。
それは、法務局への妨害だ。
「ヴィクトル・グランベル様から、事情聴取の返答は?」
私が尋ねると、記録係が別の書類を差し出した。
「本日午後、王宮法務局へ出頭すると返答がありました。ただし、グランベル侯爵も同席を希望されています」
「親子で、ですか」
「はい」
法務卿が鼻を鳴らした。
「息子の軽率な発言にしたいのか、侯爵家として押し通すのか。どちらにせよ、記録に残る」
記録に残る。
その言葉は、私にとって頼もしい響きを持つ。
噂は形を変える。 だが、記録は同じ場所に留まり続ける。
だからこそ、誰かが都合よく物語を作ろうとしても、戻って確認できる。
「エリス嬢」
ユリウス殿下が私を見る。
「午後の聴取ですが、あなたが担当しますか」
「はい。そのつもりです」
「あなた自身が中傷の対象になっています」
「承知しています」
「無理に前へ出る必要はありません」
以前なら、私はすぐに「大丈夫です」と答えていただろう。
だが今は、一度だけ自分の内側を確認した。
傷ついていないわけではない。 怖くないわけでもない。
侯爵家を相手にする。 しかも、元王太子派の中心人物だ。 この先、社交界でどれほどの反発を受けるか分からない。
それでも。
「私は、担当したいです」
私は言った。
「この噂は、私の名前を使って、他の方々の声を塞ごうとしています。なら、私自身が記録したい」
ユリウス殿下は、しばらく私を見つめていた。
そして、静かに頷く。
「分かりました。ですが、私も同席します」
「殿下が?」
「王太子としてです」
その声は穏やかだったが、決定は揺るがない。
「王宮法務局への政治的圧力の有無を確認する必要があります」
法務卿も頷いた。
「それがよろしいでしょう。侯爵家が相手なら、王太子殿下の同席は意味がある」
私は少しだけ息を吐いた。
「ありがとうございます」
ユリウス殿下は、わずかに目を細める。
「礼を言われることではありません。あなたを一人で矢面に立たせるつもりはありませんから」
胸の奥が、静かに温かくなった。
守られるだけではない。 けれど、隣に立ってもらえる。
私はその距離を、少しずつ覚え始めている。
午後。
王宮法務局の審問室に、グランベル侯爵とヴィクトル・グランベルが現れた。
侯爵は堂々としていた。 息子のヴィクトルも、昨日の夜会で見せた動揺をある程度隠している。
さすが、と言うべきなのだろう。
貴族社会で長く生きる者は、表情を整えるのがうまい。 だが、整えられた表情と、整えられた事実は違う。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
私が告げると、侯爵は穏やかに笑った。
「こちらこそ。昨夜は少々行き違いがあったようですからな」
「行き違い、ですか」
「ええ。若い者たちの言葉が、いささか大きく受け止められてしまったのでしょう」
法務卿の眉が動いた。
私は記録係へ視線を向ける。
「今の発言を記録してください」
「承知しました」
ペンが走る音が響く。
侯爵の笑みが、ほんの少しだけ硬くなった。
「補佐官殿は、相変わらず記録がお好きだ」
「はい」
私は頷いた。
「噂より正確ですので」
ヴィクトルが口を開く。
「昨夜の件ですが、私はエリス嬢を中傷する意図はありませんでした。ただ、社交界で広がる疑問を口にしただけです」
「その疑問の根拠は、リリア・ベルノワール嬢からの手紙ですか」
「一部は」
「では、その手紙に書かれていた内容を、事実確認せずに他者へ話したのですね」
ヴィクトルは言葉に詰まった。
侯爵が代わりに口を挟む。
「社交界では、手紙や噂をもとに意見を交わすことなど珍しくありません」
「珍しいかどうかではなく、結果として他者の名誉を傷つけたかどうかを確認しています」
「大げさですな。アシュベルト公爵令嬢は、少々傷つきやすくなられたのでは?」
その言葉に、室内の空気が冷えた。
ユリウス殿下が、静かに侯爵を見た。
「グランベル侯爵」
「はい、殿下」
「それは、名誉を傷つけられた者が問題提起することを、感情的だと片づける発言ですか」
侯爵の笑みが消えた。
「そのような意図はございません」
「意図ではなく、発言内容を確認しています」
ユリウス殿下の声は、低く澄んでいた。
侯爵は一瞬黙り、それからゆっくり頭を下げる。
「失言でした。お詫びします」
私はその謝罪を受け流し、机上の書状へ視線を戻した。
「では、こちらについて確認します」
私は例の写しを示す。
「“元王太子レオンハルト殿下の名誉回復のため、夜会にて世論を整えること”とあります。これは、侯爵家が作成したものですか」
侯爵は目を細めた。
「私的な覚書です」
「作成者は?」
「家の者です」
「指示者は?」
「侯爵家としての意向です」
記録係のペンが走る。
私は続けた。
「その中で、私の法務局活動が社交界に過度な不安を与えている点を強調する、とあります」
「事実でしょう。婚約契約に法務局が介入することを不安視する家は多い」
「不正な契約を結んでいなければ、不安視する必要は薄いと思いますが」
侯爵の目が鋭くなる。
「補佐官殿は、貴族社会の慣習を軽んじておられる」
「慣習が人を黙らせるために使われるなら、確認が必要です」
「理想論ですな」
「いいえ」
私は首を横に振った。
「契約の話です」
侯爵は黙った。
私は書状の次の行を指す。
「“若い方々のすれ違い”“法の硬直性”“令嬢の過剰な反応”という形で語ること。これは、私の婚約無効確認を感情的な反応として見せる意図があったと解釈できます」
「解釈は自由です」
「では、否定なさいますか」
「……政治的配慮です」
政治的配慮。
また、便利な言葉だ。
「つまり、元王太子殿下の名誉回復のため、私の行動を過剰な反応として語る必要があったと」
「王家の安定のためです」
その言葉に、ユリウス殿下の表情がわずかに変わった。
「王家の安定を、私ではなく兄上の名誉回復に求めたのですね」
侯爵は答えない。
その沈黙が、十分な答えだった。
ユリウス殿下は静かに続ける。
「兄上は昨夜、自らの責任を認めました。にもかかわらず、侯爵家はエリス嬢を悪者にして兄上を持ち上げる計画を立てた」
「殿下、我々は王家を案じて」
「王家を案じるなら、虚偽の噂を使うべきではありません」
ユリウス殿下の声に、はっきりとした怒りが滲んだ。
侯爵も、それを感じ取ったのだろう。 わずかに顔色を変える。
「グランベル侯爵」
私は改めて口を開いた。
「王宮法務局は、侯爵家が虚偽の噂を組織的に広めたかどうかを引き続き確認します」
「組織的とは、ずいぶんな言い方だ」
「覚書があります。夜会があります。リリア嬢からの手紙があります。メイナの茶会での発言があります。ヴィクトル様の夜会での発言があります」
私は一つずつ並べた。
「これらが偶然繋がったのか、意図的に繋げられたのか。それを確認するだけです」
侯爵は、もう笑わなかった。
「補佐官殿は、敵を作るのがお上手だ」
「違います」
私は答えた。
「記録を辿ると、隠れていた敵意が見えるだけです」
審問は、その後も続いた。
グランベル侯爵は決定的な言質を避け続けた。 ヴィクトルも、父の顔色を見ながら発言を抑えた。
だが、十分だった。
少なくとも、侯爵家がレオンハルト殿下の名誉回復を目的として、私と王宮法務局に関する印象操作を行っていたことは記録された。
審問後、侯爵親子が退室すると、法務卿が深く息を吐いた。
「これで侯爵家は、しばらく大きく動けんだろう」
「ですが、完全には止まりません」
私は言った。
「むしろ、別の形で動く可能性があります」
「そうだな」
法務卿は頷いた。
「次は、王太子妃候補の話が出るだろう」
その言葉に、私は一瞬だけ固まった。
「王太子妃候補、ですか」
ユリウス殿下の表情もわずかに曇る。
法務卿は、当然のことのように続けた。
「元王太子派がユリウス殿下に直接反発できないなら、次は婚姻で取り込もうとする。王太子妃の座を通じて、影響力を残すためにな」
王太子妃。
その言葉は、かつて私の未来だった。 そして、失ったはずのものでもある。
ユリウス殿下が私を見る。
「エリス嬢」
「はい」
「あなたを巻き込むつもりはありません」
私は、なぜか少しだけ笑ってしまった。
「もう十分、巻き込まれております」
「……申し訳ありません」
「責めているのではありません」
私は机上の記録を整えた。
「ただ、必要なら確認します。王太子妃候補の話も、誰が何の意図で進めているのか」
ユリウス殿下は、しばらく黙っていた。
そして、静かに言う。
「あなたは本当に、逃げませんね」
「逃げる必要がある時は逃げます」
「今は?」
「記録が必要です」
ユリウス殿下は、少し困ったように笑った。
「では、私も逃げずに向き合います」
その言葉を聞いた時、私はまだ知らなかった。
翌日には本当に、王太子妃候補者に関する書類が王宮会議へ提出されることを。
そしてその候補者一覧の中に、私の名前も含まれていることを。