軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

王太子妃候補という新しい火種

翌朝、王宮会議に提出された書類は、王宮法務局にも写しが回された。

題名は簡潔だった。

王太子ユリウス殿下 婚姻候補者に関する整理

一、エリス・フォン・アシュベルト公爵令嬢

元王太子婚約者。

王妃教育履修済み。

王宮法務局特別補佐官として勤務中。

能力、家格ともに申し分なし。

ただし、元王太子との婚約解消直後であるため、社交界の反発に留意。

二、オリヴィア・グランベル侯爵令嬢

グランベル侯爵家令嬢。

元王太子派との融和に有効。

王家と侯爵家の関係安定に資する可能性あり。

三、マリエル・ロウエン伯爵令嬢

中立派貴族の支持を得やすい。

政治的反発が少ない。

ただし王妃教育は未履修。

以上、王家安定の観点から早急な検討を要する。

私はその資料を読み終え、しばらく何も言えなかった。

王太子妃候補。

かつての私なら、その言葉を見ただけで背筋を伸ばしていただろう。

王太子妃になる。 王家を支える。 国のために自分を整える。

それが私の役目だと、疑っていなかったから。

けれど今、同じ言葉はまったく違う重さを持っている。

私はもう、誰かの婚約者になるためだけに存在しているのではない。 王宮法務局特別補佐官としての仕事がある。 自分の意思がある。

それでも、資料の一番上には私の名前があった。

「……早いですね」

私が呟くと、法務卿は渋い顔で頷いた。

「早すぎる。だからこそ、政治的な意図がある」

ユリウス殿下は、資料を手にしたまま黙っていた。

昨夜、法務卿が予想した通りだった。

元王太子派がユリウス殿下に直接反発しにくくなった以上、次は婚姻を通じて影響力を残そうとする。

そして候補者の二番目には、グランベル侯爵家の令嬢。

オリヴィア・グランベル。

ヴィクトル・グランベルの妹にあたる方だ。

「殿下」

私はユリウス殿下へ声をかけた。

「この資料について、事前にご存じでしたか」

「いいえ」

短い答えだった。

声は静かだが、明らかに不快感がある。

「私の婚姻を、王家安定の道具として扱うこと自体は、王太子という立場上、避けられません」

「はい」

「ですが、本人に確認もなく、あなたの名前を一番上に置いたことは問題です」

その言葉に、私はわずかに目を伏せた。

私の名前。

私自身より先に、書類の上で動かされる名前。

それは、どこか懐かしい感覚だった。

五年前、私とレオンハルト殿下の婚約が決まった時も、まず書類が動いた。

家格。 教育。 血筋。 政治的均衡。

そこに、私の気持ちはどれほど含まれていただろう。

「エリス嬢」

ユリウス殿下が、静かに言った。

「あなたは候補者ではありません」

私は顔を上げる。

「少なくとも、私があなたの意思を確認しないまま、そう扱うことはありません」

胸の奥が、少しだけ揺れた。

「ですが、資料には」

「資料が勝手にそう書いているだけです」

ユリウス殿下は、資料を机に置いた。

「人を紙の上だけで動かすことが、どれほど危ういか。私は兄上の件で学びました」

「殿下……」

「あなたを、誰かの都合で王太子妃候補にするつもりはありません」

その言葉は、ありがたかった。

同時に、少しだけ怖かった。

なぜなら、その言葉の奥にあるものを、私はもう全く気づかないふりができなくなっていたから。

ユリウス殿下は、私をただの部下として扱っているのではない。 少なくとも、それだけではない。

けれど、彼は急がない。

私が自分で選べるよう、距離を守っている。

その優しさが、時に胸を苦しくする。

法務卿が咳払いをした。

「感情の話は後にしていただきたい」

「法務卿」

「今は資料の出どころだ」

私は慌てて背筋を伸ばした。

「失礼しました」

「謝るほどではない。ただ、顔に出ていた」

「……以後気をつけます」

ユリウス殿下が、わずかに視線を逸らした。

おそらく、殿下も同じような顔をしていたのだろう。

法務卿は何も見なかったことにしたように、資料を指で叩いた。

「この資料は、王宮会議に正式提出された。提出者は王族婚姻調整室だ」

「王族婚姻調整室……」

王族の婚約、婚姻、縁談の調整を担当する部署である。

私も王太子妃候補だった頃、何度かその名を見たことがある。

「ただし、調整室が独自に候補者を並べることは少ない。大抵は、どこかの派閥や重臣からの働きかけがある」

「今回は、グランベル侯爵家でしょうか」

「可能性は高い」

法務卿は頷いた。

「だが厄介なのは、君の名前が一番上にあることだ」

「私の名前が?」

「そうだ」

法務卿は資料を示した。

「グランベル侯爵家の本命は、自家の令嬢オリヴィアを王太子妃にすることだろう。だが、いきなりそれを押せば露骨だ。そこでまず、君の名前を置く」

「私を?」

「元王太子の婚約者だった君を、現王太子妃候補にする。それに反発が出れば、“やはり元婚約者は難しい”という空気を作れる」

私は、ゆっくり理解した。

「つまり、私を一度持ち上げてから落とすために」

「その可能性がある」

ユリウス殿下の目が冷たくなる。

「許しがたいですね」

「はい」

私も同意した。

だが、不思議と怒りよりも納得が先に来た。

王太子に捨てられた令嬢。 婚約を壊す法務局補佐官。 そして今度は、現王太子に取り入って王太子妃を狙う女。

彼らが作りたい物語は分かりやすい。

私をどれほど事実から遠ざけても、悪役として使いやすい形に整えている。

「よく働く物語ですね」

私が呟くと、ユリウス殿下が少し眉を寄せた。

「感心する場面ではありません」

「はい。ですが、分析は必要です」

「傷ついていますか」

突然問われた。

私は一瞬だけ言葉を探す。

「少し」

正直に答えた。

「ですが、以前ほどではありません」

「なぜですか」

「私を紙の上だけで動かそうとする人がいる一方で、私の意思を確認してくださる方もいると知っているからです」

そう言ってから、少し恥ずかしくなった。

ユリウス殿下は黙った。

法務卿がまた咳払いをする。

「続けるぞ」

「はい」

法務卿は、別の書類を取り出した。

「王族婚姻調整室の担当官に確認を取った。資料作成にあたり、候補者名簿の草案を提出した者がいる」

「どなたですか」

「グランベル侯爵夫人だ」

私は目を細めた。

夜会の最後、強引に音楽を再開させた夫人。

表立って発言は少なかったが、あの場を収める判断は早かった。

「侯爵夫人が、婚姻調整室へ?」

「王妃陛下の旧友という立場を使ったようだ」

「なるほど」

私は資料を見直した。

一番目に私。 二番目にグランベル侯爵令嬢。 三番目に中立派の伯爵令嬢。

配置にも意味がある。

私を火種にする。 反発を起こす。 その後、安定を求める声としてグランベル侯爵令嬢を出す。

よくできている。

だからこそ、腹立たしい。

「殿下」

私はユリウス殿下へ向き直った。

「確認させてください」

「はい」

「殿下は、この候補者選定を進めるおつもりですか」

「ありません」

即答だった。

「少なくとも、このような形で進めるつもりはありません」

「王家や重臣から圧力があっても?」

「王太子の婚姻が政治的意味を持つことは理解しています。ですが、虚偽の噂と印象操作の延長で決められるものではない」

彼は、私を見た。

「それに、私は自分の隣に立つ方を、道具として選びたくありません」

その言葉に、胸がまた揺れた。

私は少しだけ目を伏せる。

「……そうですか」

「エリス嬢」

「はい」

「あなたも同じです」

「私も?」

「誰かの代わりとして、あるいは誰かを黙らせるための候補者として扱われる必要はありません」

私は資料の一番上に書かれた自分の名前を見る。

エリス・フォン・アシュベルト。

元王太子婚約者。 王妃教育履修済み。 家格、能力ともに申し分なし。

そこには、私の傷も、選択も、現在の仕事も、本当の意味では書かれていない。

紙の上の私は、また誰かに使いやすい形へ整えられている。

だから、言わなければならない。

「私は、確認します」

私は資料を閉じた。

「この候補者名簿が、誰の意図で、何の目的で作られたのか」

法務卿が頷く。

「よし。婚姻調整室への正式照会を出す」

「はい」

ユリウス殿下が、静かに言った。

「私からも、王太子として照会します」

その日の午後、婚姻調整室から返答が届いた。

名簿作成にあたり、グランベル侯爵夫人から参考資料の提供を受けたこと。 その際、アシュベルト公爵令嬢について“王太子妃教育を受けたが、社交界での評判に不安がある”との注記が添えられていたこと。 さらに、オリヴィア・グランベル令嬢について“現王太子殿下との婚姻により、元王太子派との融和が期待できる”と記されていたこと。

すべて、予想通りだった。

ただ一つ、予想外のことがあった。

返答書の最後に、こう添えられていたのだ。

なお、グランベル侯爵夫人は、アシュベルト公爵令嬢について以下のように述べた。

「有能ではあるが、すでに一度王太子妃候補として傷がついた令嬢である。

今後は王宮法務局に留め、必要に応じて王家のために働いてもらうのがよろしいでしょう。

王太子妃としてではなく、王家に仕える補佐役として」

私は、その一文を読み終えた瞬間、静かに息を吸った。

王太子妃としてではなく。 王家に仕える補佐役として。

つまり。

また、便利な道具として。

ユリウス殿下が、書類を持つ手に力を込める。

「エリス嬢」

「はい」

「これは、私が抗議します」

「ありがとうございます」

私は答えた。

「ですが、私も言います」

「あなたが?」

「はい」

私は資料を机に置く。

「私は、誰かの代わりにも、誰かの道具にも、もうなりません」

その言葉は、静かに執務室へ落ちた。

そしてその翌日、私はグランベル侯爵夫人と対面することになった。