軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

私は、誰かの代わりにはなりません

グランベル侯爵夫人は、優雅な人だった。

銀糸を織り込んだ淡い藤色のドレス。 首元には大粒の真珠。 柔らかな微笑み。 そして、相手を値踏みするような視線。

王宮法務局の応接室に現れても、彼女はまるで自分の屋敷の客間にいるかのように落ち着いていた。

「お招きいただき光栄ですわ、エリス様」

侯爵夫人は、私の名を親しげに呼んだ。

「いえ、本日は確認のためにお越しいただきました」

「まあ、堅いこと」

彼女は微笑んだまま、椅子に腰を下ろす。

「王宮法務局という場所は、もう少し温かみがあってもよろしいのではなくて?」

「必要なのは温かみより正確さです」

「そういうところですわね」

「どういうところでしょうか」

「ご自分でお分かりにならない?」

夫人は、ゆっくり扇を開いた。

「あなたは有能です。礼儀も知っている。教育も受けている。けれど、少し硬すぎる」

その言葉に、私は黙った。

硬すぎる。 冷たい。 可愛げがない。

形を変えて、何度も聞いてきた言葉だ。

「レオンハルト殿下の時も、そうでしたわ」

夫人は続ける。

「あなたがもう少し柔らかく振る舞っていれば、あそこまで拗れなかったのではなくて?」

法務卿の眉が動く。

ユリウス殿下も同席していたが、何も言わなかった。

私が答えるのを待っている。

だから私は、静かに口を開いた。

「婚約式に来なかったのは、私ではありません」

「それは存じております」

「公務をたびたび欠席したのも、私ではありません」

「ええ」

「では、なぜ私の柔らかさの問題になるのでしょう」

夫人の微笑みが、ほんの少しだけ薄くなった。

「男性には、時に逃げ場が必要なのです」

「女性には必要ないのですか」

「まあ」

夫人は扇で口元を隠した。

「そういう返しが、硬いと申し上げているのです」

「事実確認です」

「あなたは本当に、法務局向きですわね」

「ありがとうございます」

「褒めているだけではありませんのよ」

「承知しています」

夫人は少し目を細めた。

私が傷つくことを期待していたのかもしれない。 あるいは、怒ることを。

だが、私はどちらもしない。

ここは王宮法務局だ。 そして私は、感情ではなく記録を扱うためにここにいる。

「グランベル侯爵夫人」

私は机上の資料を開いた。

「王太子妃候補者名簿について確認します。婚姻調整室へ参考資料を提出されたのは、夫人で間違いありませんか」

「ええ。王妃陛下とは昔から親しくしておりますので、助言を求められましたの」

「助言の中で、私について“王太子妃としてではなく、王家に仕える補佐役として”と述べていますね」

「ええ」

夫人は悪びれなかった。

「事実でしょう? あなたは有能ですもの。王宮法務局で働く方が、王家の役に立つと思いましたの」

「王太子妃候補としては不適格だと?」

「不適格とまでは申しません」

「では?」

「傷がついています」

応接室が静まり返った。

夫人は柔らかく続ける。

「一度、王太子殿下との婚約を終えた令嬢です。たとえあなたに非がなくとも、社交界はそう見ません。王太子妃には清らかな印象が必要ですわ」

清らかな印象。

私はその言葉を、静かに飲み込んだ。

社交界が求める清らかさとは、何だろう。

傷つかないこと。 失敗しないこと。 捨てられないこと。 声を上げないこと。

もしそうなら、私は確かに清らかではないのかもしれない。

私は傷ついた。 失敗もした。 婚約を終わらせた。 そして、声を上げた。

「夫人」

「何かしら」

「傷がついた令嬢は、王家のために働く道具としてなら使える。そういう意味でしょうか」

「言葉が悪いですわ」

「では、正しい言葉で言い直してください」

夫人は、一瞬黙った。

私は待った。

以前の私は、こういう沈黙が苦手だった。 相手が困る前に、私が折れていた。

でも今は、折れない。

沈黙もまた、答えになるから。

「あなたは、王太子妃になるよりも補佐官として働く方が似合う。そういうことですわ」

「それは、私の意思を確認した上でのご意見ですか」

「あなたのためを思って」

「私の意思を確認しましたか」

夫人は答えなかった。

「グランベル侯爵夫人。私は、王太子妃になりたいと申し上げたことはありません」

ユリウス殿下の視線を感じた。

けれど私は、そちらを見なかった。

「同時に、補佐官として王家に都合よく使われたいと申し上げたこともありません」

夫人の顔から、少しずつ笑みが消える。

「私は私の意思で、王宮法務局特別補佐官の任を受けました。誰かに傷物だからここに置かれたわけではありません」

「そのような意味では」

「では、今後そのような意味に取れる表現はお控えください」

私は資料を閉じた。

「王宮法務局への参考資料として提出された以上、夫人の発言は個人的な感想では済みません。王族婚姻調整に影響を与える情報です」

「大げさですわね」

「大げさかどうかは、影響の大きさで決まります」

法務卿が頷いた。

「グランベル侯爵夫人。婚姻調整室へ提出した参考資料について、正式な訂正書を出していただく」

夫人の顔色が変わった。

「訂正書?」

「アシュベルト公爵令嬢に関する“傷がついた”“補佐役として留めるべき”という趣旨の記述が、本人の意思確認を伴わない不適切な評価であったことを明記してもらう」

「そのような屈辱的な」

「他者を一方的に評価し、政治的に利用しようとした結果です」

法務卿の声は容赦なかった。

夫人はユリウス殿下を見た。

「殿下。私は王家の安定を思って」

「分かっています」

ユリウス殿下は静かに答えた。

「ですが、王家の安定のために、誰かを都合よく配置することを私は望みません」

「殿下はまだお若い。婚姻は感情ではなく政治です」

「その通りです」

ユリウス殿下は頷いた。

「だからこそ、虚偽や侮辱を土台にしてはなりません」

夫人は言葉を失った。

ユリウス殿下は、さらに続ける。

「そして、私の婚姻について一つ明確にしておきます」

その声に、私の胸が小さく跳ねた。

「私は、自分の隣に立つ方を、派閥融和の駒として選びません」

「殿下」

「もちろん、王太子として政治的責任は理解しています。ですが、私の隣に立つ方には、その方自身の意思が必要です」

彼は、そこで私を見た。

まっすぐに。

「誰かの代わりでも、誰かを黙らせるためでもなく」

私は、思わず息を止めた。

その言葉は、私が言いたかったものでもある。

誰かの代わり。 誰かの道具。 誰かの都合。

もう、そこには戻らない。

「エリス嬢」

ユリウス殿下が、私の名を呼んだ。

侯爵夫人も、法務卿もいる。

ここは告白の場ではない。 そんなことは分かっている。

それでも、その声はとても静かで、誠実だった。

「今ここで答えを求めるつもりはありません」

私は彼を見る。

「ですが、あなたがいつか誰かの隣に立つことを選ぶなら、それはあなた自身の意思であってほしい」

胸の奥が、熱くなる。

私は少しだけ目を伏せ、それから答えた。

「はい」

たった一言だった。

けれど、今の私にはそれで精一杯だった。

グランベル侯爵夫人は、完全に沈黙していた。

彼女はおそらく、ここまで明確にユリウス殿下が私の意思を尊重するとは思っていなかったのだろう。

私は改めて夫人へ向き直る。

「夫人」

「……何かしら」

「私は、誰かの代わりにはなりません」

静かに告げた。

「レオンハルト殿下の失敗を埋めるためにも、ユリウス殿下の政治的不安を隠すためにも、グランベル侯爵家の面目を保つためにも」

私は背筋を伸ばす。

「私は、私の意思で選びます」

夫人は、しばらく何も言わなかった。

やがて、ゆっくり扇を閉じる。

「……訂正書は、出します」

「ありがとうございます」

「ですが、社交界はそれほど単純ではありませんわ」

「存じています」

「あなたがどれほど正しくても、正しさだけで王太子妃にはなれません」

「はい」

私は頷いた。

「ですから、今は王太子妃になる話をしているのではありません」

夫人が眉をひそめる。

「私は、私の名前を勝手に使わないでくださいと申し上げています」

その言葉に、夫人は初めて本当に黙った。

審問が終わり、グランベル侯爵夫人が退室すると、応接室には長い静寂が残った。

法務卿が、資料をまとめながら言う。

「訂正書が出れば、婚姻調整室の名簿は一度差し戻しになる」

「はい」

「だが、王太子妃問題そのものは消えん」

「分かっています」

むしろ、ここからだろう。

ユリウス殿下が王太子である以上、婚姻の話は必ず出る。 私の名前も、またどこかで使われるかもしれない。

その時、私はどうするのか。

今はまだ、答えを出せない。

けれど一つだけ、決めている。

誰かに決めさせない。

「エリス嬢」

ユリウス殿下が声をかけた。

「はい」

「先ほどのことですが」

「はい」

「急がせるつもりはありません」

彼は少しだけ言葉を選ぶように続けた。

「あなたが何を選ぶとしても、まずあなた自身の意思を大切にしてください」

「殿下は、それでよろしいのですか」

「よいかどうかではなく、そうあるべきです」

私は少しだけ笑った。

「殿下は時々、まっすぐすぎます」

「不都合ですか」

「いいえ」

私は首を横に振る。

「助かります」

ユリウス殿下の表情が、わずかに柔らかくなった。

その日の夕方。

グランベル侯爵夫人から、婚姻調整室へ訂正書が提出された。

私に関する不適切な評価を撤回すること。 本人の意思確認を伴わない候補者評価であったこと。 王宮法務局での職務を、王家の都合で限定する意図はないこと。

書面としては十分だった。

けれど、その訂正書が出た直後、別の知らせが王宮に届いた。

レオンハルト殿下が、地方修養先へ戻る前に、王宮へ正式な面会願いを出したという。

宛先は、二つ。

王太子ユリウス殿下。

そして、私。

法務卿がその報告書を読み、眉を上げた。

「どうする」

私は、少しだけ考えた。

逃げることはできる。 拒むこともできる。

けれど、夜会で彼は自分の責任を認めた。

ならば、最後に一度だけ。 正式な場で話す意味はあるかもしれない。

「条件をつけます」

私は言った。

「王宮法務局の面会室。記録係同席。ユリウス殿下も同席。私的な接触ではなく、正式な面会として」

ユリウス殿下が頷いた。

「私もそれがよいと思います」

「それでよろしければ、面会に応じます」

私は報告書に視線を落とす。

過去が、また扉を叩いている。

けれど今度は、私が扉を開けるかどうかを決める。

もう、待たされる側ではない。

選ぶ側として。

私は静かにペンを取った。