作品タイトル不明
過去は、記録の中で終わらせます
レオンハルト殿下との面会は、三日後に決まった。
場所は、王宮法務局の面会室。
同席者は、王太子ユリウス殿下、法務卿、記録係一名。
面会の目的は、私的な和解ではない。
元王太子レオンハルト殿下が、地方修養先へ戻る前に、過去の婚約不履行とその後の噂について正式に発言を残すため。
そう記録された。
面会条件
一、面会場所は王宮法務局面会室とする。
二、記録係一名を同席させ、発言を記録する。
三、王太子ユリウス殿下、法務卿の同席を認める。
四、本面会は私的接触ではなく、婚約解消後の確認面会として扱う。
五、面会内容は必要に応じて王宮記録へ提出される。
私はその条件書を確認し、署名した。
自分の名前を書く手は、もう震えなかった。
エリス・フォン・アシュベルト。
この名前を、誰かの婚約者としてではなく、私自身のものとして書けるようになるまで、ずいぶん時間がかかった気がする。
面会当日。
王宮法務局の面会室は、いつもより静かだった。
大きな窓から午後の光が差し込み、中央には小さな円卓が置かれている。 互いに距離を取りすぎず、かといって近すぎもしない配置。
法務卿は壁際の席に座り、記録係が筆記台の前に控えていた。 ユリウス殿下は、私の隣ではなく、少し斜め後ろの席に座っている。
守るために前へ出るのではない。 私の言葉を遮らない位置。
その距離を選んでくれたのだと分かった。
「エリス嬢」
ユリウス殿下が、静かに声をかける。
「無理はしないでください」
「はい」
「途中で席を外しても構いません」
「はい」
「答えたくないことには、答えなくて構いません」
「分かっています」
私は少しだけ笑った。
「殿下は、私を面会に行かせたくないのですか」
「正直に言えば、半分は」
「半分?」
「もう半分は、あなたがご自分で区切りをつけようとしているなら、それを尊重したいと思っています」
その言葉に、胸の奥が温かくなる。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
扉が叩かれた。
記録係が立ち上がり、扉を開ける。
入ってきたのは、レオンハルト殿下だった。
以前より、少し痩せて見えた。 金の髪は整えられているが、王太子だった頃の眩しいほどの華やかさはない。 衣装も控えめで、王族というより、地方へ赴く一貴族のようだった。
だが、その方が今の彼には似合っているのかもしれない。
レオンハルト殿下は、私を見ると深く頭を下げた。
「面会に応じてくれて、ありがとう」
「条件に同意いただき、ありがとうございます」
私がそう答えると、彼は少しだけ苦笑した。
「君らしい」
「今の私は、王宮法務局特別補佐官ですので」
「ああ」
レオンハルト殿下は椅子に座る前に、ユリウス殿下へ視線を向けた。
「ユリウス。同席を許してくれて感謝する」
「この面会は、エリス嬢の意思で行われています。私が許すものではありません」
「……そうだな」
レオンハルト殿下は、静かに椅子へ腰を下ろした。
記録係が筆を構える。
法務卿が短く告げた。
「これより、元王太子レオンハルト殿下とエリス・フォン・アシュベルト王宮法務局特別補佐官の面会を開始する。発言は記録される」
レオンハルト殿下は頷いた。
「承知しています」
沈黙が落ちた。
その沈黙を破ったのは、レオンハルト殿下だった。
「まず、正式に謝罪したい」
彼は私を見た。
「婚約期間中、私は何度も君を軽んじた。公務も、式典も、外交の席も、君が何とかしてくれると思っていた。リリアを優先し、君の忍耐に甘えた」
私は黙って聞いた。
記録係の筆が走る音がする。
「婚約式の日、私は神殿へ行くべきだった。たとえリリアが不安定だったとしても、王宮へ連絡を入れるべきだった。延期の手続きを取るべきだった。君に、何も知らせず待たせるべきではなかった」
「はい」
短く答えた。
レオンハルト殿下は、その一言を受け止めるように目を伏せた。
「地方へ行ってから、私は何度も考えた。君なら分かってくれる、という言葉を、私はどれほど身勝手に使っていたのかと」
その言葉を聞いても、胸は激しく揺れなかった。
少し前なら、もっと痛かっただろう。
今は、過去の自分を遠くから見ているような感覚がある。
「殿下」
「何だろう」
「私は、謝罪を受け取ります」
レオンハルト殿下が、静かに私を見る。
「ありがとうございます」
「ですが、私は殿下を許すためにここへ来たのではありません」
彼の表情が少しだけ強張る。
私は続けた。
「許すかどうかは、今すぐ決めるものではないと思っています。時間が必要です。あるいは、一生完全には許せないかもしれません」
「……ああ」
「それでも、私はもう過去に縛られたくありません」
言葉にして、ようやく自分でも分かった。
私は、レオンハルト殿下に許しを与えるために来たのではない。
過去を、過去として置いていくために来たのだ。
「殿下が謝罪したこと。私がそれを受け取ったこと。復縁の意思はないこと。今後、私的な接触を望まないこと。それを記録に残したいのです」
レオンハルト殿下は、しばらく黙っていた。
そして、ゆっくり頷く。
「分かった」
その声は、かすかに震えていた。
「私は、君との復縁を望まない。いや、望む資格がない」
「資格の問題ではありません」
私は首を横に振った。
「私が望まないのです」
面会室の空気が、少しだけ張り詰めた。
レオンハルト殿下は、苦しそうに笑った。
「はっきり言うな」
「曖昧にすると、また誰かが物語を作ります」
「そうだな」
彼は小さく息を吐いた。
「君は、もう私を待っていないのだな」
「はい」
今度は迷わず答えた。
「私はもう、殿下を待っていません」
その言葉は、私自身にも響いた。
婚約式の日、神殿で告げた言葉。
今日まで待ちました。
あの時、私は待つことを終わらせた。
そして今、その記録を閉じる。
「では、もう一つだけ言わせてほしい」
レオンハルト殿下は、ユリウス殿下を見た。
「ユリウス」
「はい」
「私は、王太子としてお前に何かを言える立場ではない。だが、兄として一つだけ」
「聞きます」
「彼女を、責務だけで隣に立たせるな」
ユリウス殿下の表情は変わらなかった。
けれど、その声は真剣だった。
「そのつもりはありません」
「彼女は、自分が傷ついていても笑う。役目だと思えば、限界まで立つ。私はそれに甘えた」
レオンハルト殿下は、私を見ずに続けた。
「だから、お前は甘えるな」
「兄上」
「そして、もし彼女が自分の意思でお前の隣に立つと言ったなら、その時は、誰よりも大切にしろ」
私は思わず、息を止めた。
ユリウス殿下も、少しだけ目を伏せた。
「言われるまでもありません」
その答えは、短かった。
でも、十分だった。
レオンハルト殿下は、少しだけ笑った。
「そうだろうな」
それから彼は、私へ向き直った。
「エリス」
「はい」
「私は明日、地方へ戻る。そこで、もう一度やり直す。王太子としてではなく、一人の人間として」
「はい」
「君に許されるためではない。君に見てもらうためでもない。私自身が、私の責任を理解するために」
その言葉は、以前の彼なら言えなかっただろう。
遅すぎる。
そう思わないわけではない。
けれど、人が遅れてでも変わろうとすることまで否定したくはなかった。
「よい修養になることを願っています」
「ありがとう」
面会は、それで終わった。
法務卿が終了を告げ、記録係が筆を置く。
レオンハルト殿下は立ち上がり、最後にもう一度、私へ頭を下げた。
「さようなら、エリス」
私は立ち上がり、礼を返す。
「さようなら、レオンハルト殿下」
今度こそ、それは別れだった。
扉が閉まった後、私はしばらく動けなかった。
悲しいのか、寂しいのか、ほっとしているのか。
自分でも、すぐには分からなかった。
「エリス嬢」
ユリウス殿下の声がする。
「はい」
「座ってください」
「大丈夫です」
「今は、大丈夫ではない顔をしています」
私は反論しようとして、やめた。
椅子に腰を下ろす。
すると、ようやく息が深く入った。
「終わりました」
私は呟いた。
「はい」
「本当に、終わったのですね」
「はい」
ユリウス殿下は、私の隣に立ったまま、静かに答えてくれた。
私は目を閉じる。
神殿で鳴った鐘。 空席だった婚約者。 差し出したブローチ。 署名した自分の名前。
全部が、過去になっていく。
消えるわけではない。
けれど、今の私を縛る鎖ではなくなっていく。
「殿下」
「はい」
「私は、少し休みます」
ユリウス殿下は、ほんの少しだけ驚いた顔をした。
そして、すぐに柔らかく微笑む。
「よく言えました」
「やはり、褒める基準が低いです」
「重要な進歩です」
私は少しだけ笑った。
その笑みは、きっと泣き笑いに近かった。
それでも、私は笑えた。
過去は、記録の中で終わらせる。
そして私は、私の未来へ進む。