作品タイトル不明
元王太子殿下からの手紙
その夜、私はもう一度、レオンハルト殿下からの手紙を読んだ。
屋敷の自室。
机上には小さなランプ。
窓の外には、静かな夜の庭。
王宮法務局で受け取る書類とは違い、その手紙はひどく個人的だった。
エリスへ。
君が王宮法務局で働いていると聞いた。
君は昔から優秀だった。
きっと、皆に頼りにされているのだろう。
だが、無理はしていないか。
君はいつも、自分のことを後回しにする。
あの日のことを、今も考えている。
君に謝りたい。
一度、話がしたい。
レオンハルト
短い。
けれど、何度読んでも不思議な違和感が残る。
無理はしていないか。
君はいつも、自分のことを後回しにする。
その言葉自体は、きっと間違っていない。
私は確かに、そういう人間だった。
けれど、それを五年間そばにいたレオンハルト殿下が今になって書いてくることが、ひどく遅い。
遅すぎる。
あの頃、私は何度も無理をしていた。
夜会の途中で殿下がリリア嬢の元へ向かった夜。
隣国大使との晩餐会で、殿下の席が空いたまま、私が会話を繋いだ夜。
王妃教育の確認式で、殿下が来ない理由を笑顔で説明した朝。
そのたびに、殿下は言った。
君なら大丈夫だろう。
今さら、無理はしていないかと尋ねられても。
私は手紙を机に置いた。
怒りは、思ったより湧かなかった。
悲しみも、昔ほど強くない。
ただ、静かな距離がある。
昔の私と、今の私の間に。
翌朝、私は手紙を持って王宮法務局へ向かった。
私的な手紙ではある。
だが今、エリスを巡る噂にレオンハルト殿下の名が利用されている。
ならば、法務局としても把握しておく必要がある。
執務室に入ると、ユリウス殿下がすでに法務卿と話していた。
私を見ると、ユリウス殿下は少しだけ表情を緩めた。
「おはようございます、エリス嬢」
「おはようございます」
私は一礼し、机へ向かう。
少し迷ったが、手紙を取り出した。
「殿下。法務卿。確認していただきたいものがあります」
ユリウス殿下の視線が、封筒に落ちる。
「手紙ですか」
「はい。レオンハルト殿下からです」
その名を出した瞬間、室内の空気がわずかに硬くなった。
法務卿は眉を寄せた。
「いつ届いた」
「一昨日の夜です」
「なぜすぐ出さなかった」
「私的な内容だったためです。ただ、昨日の噂にレオンハルト殿下の名が使われていました。関連がある可能性を考え、提出します」
私は手紙を机に置いた。
ユリウス殿下は、すぐには手を伸ばさなかった。
「読んでも?」
「はい」
彼はゆっくり手紙を開き、内容を確認した。
表情は変わらない。
けれど、読み終えた後、わずかに息を吐いた。
「兄上らしい手紙です」
「そうなのですか」
「はい。謝りたいと書きながら、自分が謝ることで相手が何を感じるかまでは考えきれていない」
その言葉に、私は黙った。
鋭い。
そして、おそらく正しい。
法務卿も手紙を読み、机に戻した。
「直接の脅迫や干渉ではない。だが、噂の中で元王太子の名が使われている以上、無視はできんな」
「はい」
「返事は?」
「まだです」
「書くつもりは」
私は少し考えた。
「現時点では、ありません」
ユリウス殿下が私を見る。
「会いたいとは思いませんか」
その声は穏やかだった。
責めるものでも、探るものでもない。
ただ、確認だった。
「今は、思いません」
「今は」
「はい」
私は正直に答えた。
「いつか、必要があれば話すかもしれません。ですが、それは殿下が望んだからではなく、私が必要だと思った時です」
ユリウス殿下は、静かに頷いた。
「それでよいと思います」
「よろしいのですか」
「なぜ私の許可が必要なのですか」
私は一瞬、言葉に詰まった。
確かに、そうだ。
私は誰かの許可を求める癖が、まだ残っているのかもしれない。
「すみません」
「謝ることではありません」
ユリウス殿下は、少しだけ柔らかく言った。
「ただ、あなたが決めてよいことです」
あなたが決めてよい。
その言葉は、何度聞いても胸に染みる。
私は手紙を封筒に戻した。
「では、決めます。今は返事を書きません」
「承知しました」
法務卿が頷く。
「ただし、噂との関連確認のため、手紙の写しを保管する」
「お願いします」
その後、私たちはメイナへの聞き取り準備に入った。
リリア嬢の元侍女、メイナ。
彼女は現在、王都西区の仕立屋に勤めている。
複数の茶会に出入りし、エリスが王太子を追い落とした、レオンハルト殿下は今もエリスを案じている、といった話を広めている。
問題は、その情報源だ。
レオンハルト殿下本人から聞いたのか。
リリア嬢から聞いたのか。
それとも、誰かが意図的に彼女を使っているのか。
「エリス嬢」
ユリウス殿下が声をかける。
「本当に、ご自身で行くのですか」
「はい」
「王宮に呼び出すこともできます」
「任意の聞き取りを拒んだ時点で、彼女は王宮法務局を警戒しています。こちらから行く方が、周囲の証言も集めやすいでしょう」
「理屈は分かります」
「では」
「心配は別です」
まっすぐ言われた。
私は、返す言葉を少し探した。
「護衛はつけます」
「私も同行します」
「殿下が?」
「はい」
「王太子殿下が王都西区の仕立屋へ?」
「問題がありますか」
「目立ちます」
「では、少し地味な外套を着ます」
「そういう問題では」
法務卿が咳払いをした。
「殿下が同行されると、聞き取り相手が萎縮する可能性があります」
「……それは確かに」
ユリウス殿下は少し考え込んだ。
そして、私を見る。
「では、護衛を二名。法務局官吏を一名同行させてください」
「承知しました」
「それから、無理は」
「しません」
「何かあれば」
「戻ります」
「危険を感じたら」
「逃げます」
「よろしい」
法務卿が何とも言えない顔をしている。
私は少し恥ずかしくなった。
「殿下、私は子どもではありません」
「分かっています」
「では、なぜ」
「大切な方なので」
あまりにも自然に言われた。
私は一瞬、息を止めた。
法務卿が再び咳払いをする。
今度は少し大きい。
ユリウス殿下は、発言の意味に気づいたのか、わずかに視線を逸らした。
「王宮法務局にとって、です」
「……はい」
私もそれ以上は追及しなかった。
けれど、胸の奥が静かに熱い。
困る。
本当に困る。
レオンハルト殿下からの手紙には、私を過去へ引き戻す力があった。
けれどユリウス殿下の一言は、私を今ここに繋ぎ止める。
私はその違いを、はっきり感じていた。
午後。
私は護衛二名と法務局官吏一名を伴い、王都西区へ向かった。
西区は王宮に近い上流街とは違い、職人や小商人の店が並ぶ活気ある地区だ。
馬車を降りると、通りには布地を運ぶ職人、買い物帰りの使用人、花売りの子どもたちが行き交っていた。
目的の仕立屋は、通りの角にあった。
淡い緑の看板。
窓辺には美しいリボンと帽子。
店内に入ると、数人の客がこちらを見た。
その中の一人が、私に気づいて小さく息を呑む。
噂は、ここにも届いている。
「王宮法務局です」
同行官吏が身分証を示した。
「メイナさんにお話を伺いたい」
店主は顔を強張らせ、奥へ向かった。
しばらくして、茶色の髪をきっちり結い上げた女性が現れる。
メイナ。
リリア嬢の元侍女。
彼女は私を見るなり、わずかに目を見開いた。
「エリス様……」
「お久しぶりです」
私は静かに言った。
実際には、彼女と直接話したことはほとんどない。
だが、リリア嬢のそばにいた姿は何度も見ていた。
「何のご用でしょうか」
メイナの声は硬い。
「王都で広がっている噂について、確認したいことがあります」
「私は何も知りません」
「まだ何も尋ねていません」
「……」
彼女は唇を噛んだ。
店内の客たちが、耳をそばだてているのが分かる。
噂の現場で聞き取りをするのは、こういう危うさがある。
だが、同時に利点もある。
周囲が証人になる。
「メイナさん。あなたは複数の茶会で、私が法を使ってレオンハルト殿下を追い落とした、と話したそうですね」
「皆がそう言っています」
「私は、あなたが何を言ったかを確認しています」
「……少し、聞いた話をしただけです」
「誰から聞きましたか」
メイナは目を逸らした。
「覚えていません」
「では、“元王太子殿下は今もエリス様を案じている”という話は?」
「それも、噂です」
「レオンハルト殿下本人から聞いたのですか」
「違います」
「リリア嬢から?」
その名を出した瞬間、メイナの肩が小さく跳ねた。
私は見逃さない。
「リリア嬢と、今も連絡を取っていますね」
「……元主人ですから」
「ベルノワール男爵家は、王宮出入り禁止となっています。けれど私的な手紙まで禁じられているわけではありません」
私は静かに続けた。
「ですから、連絡を取ること自体は問題ではありません。問題は、虚偽の噂を広めたかどうかです」
「虚偽とは限りません」
メイナが顔を上げた。
「エリス様が殿下を追い詰めたのは事実でしょう」
店内が静まり返る。
私は、彼女をまっすぐ見た。
「私は、婚約式に来なかった王太子殿下について、正式な手続きを取っただけです」
「でも、殿下はリリア様を助けていただけです」
「婚約式当日に?」
「リリア様は不安定でした」
「王宮医師の診断記録はありません」
「心の苦しみは記録に残りません!」
メイナの声が高くなった。
その言葉に、少しだけ胸が痛む。
彼女にとって、リリア嬢は本当に守るべき主人だったのかもしれない。
だが、心の苦しみを盾に、他者を傷つけてよいわけではない。
「記録に残らない苦しみがあることは、否定しません」
私は言った。
「ですが、記録に残る責任をなかったことにはできません」
メイナは唇を震わせた。
「リリア様は、全部奪われたのです」
「何を?」
「殿下も、居場所も、未来も」
「リリア嬢が奪われたのではありません」
私は静かに答えた。
「彼女は、他人の婚約と王太子の責務を軽んじた結果、責任を問われたのです」
「ひどい……」
「ひどいのは、責任を問われることではありません」
私は一歩だけ前に出た。
「自分のために誰かを悪者にすることです」
メイナは黙った。
その時、店の奥から小さな物音がした。
誰かが隠れている。
護衛の一人がそちらを見る。
私はメイナの顔を確認した。
彼女は、明らかに動揺している。
「奥に、どなたかいらっしゃいますか」
「いません」
「確認しても?」
「困ります。ここは店です」
同行官吏が店主に確認する。
店主は青ざめた顔で、奥の作業部屋を指した。
「先ほどから、お客様が一人……」
護衛が静かに扉を開ける。
そこにいた人物を見て、私は息を止めた。
淡い灰色の外套。
深く被った帽子。
顔は半分隠れている。
けれど、見間違えるはずがない。
「リリア嬢」
私が名を呼ぶと、その人物はゆっくり顔を上げた。
リリア・ベルノワール男爵令嬢。
王宮出入りを禁じられたはずの少女が、そこに立っていた。
「エリス様」
リリア嬢は、か細い声で言った。
「私、ただ……レオンハルト様が可哀想で」
私は静かに彼女を見た。
過去が、また私の前に立っている。
けれど今の私は、もう神殿で待っていた私ではない。
「では、伺いましょう」
私は言った。
「誰が、何を、可哀想だと語り始めたのか」