作品タイトル不明
婚約を壊しているのは、私ではありません
王都の噂は、馬車より速い。
特にそれが、誰かを傷つけるための噂ならなおさらだ。
翌朝、王宮法務局に出勤した私を待っていたのは、山積みの書類ではなく、妙にぎこちない官吏たちの視線だった。
いつも通り挨拶をすれば、皆もいつも通り返してくれる。
けれど、その後に一瞬だけ視線が泳ぐ。
私の顔を見て、何かを言いかけて、やめる。
それが三人続いた時点で、私は察した。
噂は、もう王宮の中まで届いている。
「おはようございます、エリス補佐官」
「おはようございます」
記録係の青年が、書類を抱えたまま私の机の前で立ち止まった。
昨日、噂の件を知らせてくれた官吏だ。
彼は周囲を見回し、声を落とした。
「その……昨夜から、さらに広がっております」
「私が婚約を次々破壊しているという噂ですか」
「はい」
彼は気まずそうに頷く。
「今朝は少し形が変わっていまして」
「どのように?」
「“エリス・フォン・アシュベルトは、王太子に捨てられた恨みから、幸せな婚約者たちを引き裂いている”と」
私はしばらく黙った。
なるほど。
昨日よりも物語性が増している。
噂というものは、ただの悪口では広がらない。
聞いた者が誰かに語りたくなるよう、分かりやすい筋書きが与えられると、一気に足が速くなる。
王太子に捨てられた令嬢。
嫉妬に狂い、他人の婚約を壊す。
法務局という権力を使って、恋人たちを引き裂く。
悪役としては、なかなか分かりやすい。
「よくできていますね」
私が呟くと、記録係が目を丸くした。
「よく……ですか?」
「ええ。広まりやすい形に整えられています」
「感心している場合ではないのでは」
「もちろん、感心だけで終わらせるつもりはありません」
私は外套を椅子に掛け、机に向かった。
「まず、噂の初出を確認しましょう」
「初出、ですか」
「はい。いつ、どこで、誰が、どのような言葉で話したのか。噂も記録を辿れば足跡が残ります」
記録係は、少しだけ表情を明るくした。
「では、聞き取りを始めますか」
「お願いします。王宮内で最初に耳にした方、社交界での出どころ、昨日から今朝にかけて言い回しが変わった場所を整理してください」
「承知しました」
彼が去ると、私は昨日の事件報告書を開いた。
ラングレー家。
カストナー家。
過去の被害者二名。
噂を流す動機がある者は多い。
今回の件で不利益を受ける者。
王宮法務局の監査強化を嫌う者。
私個人に恨みを持つ者。
そして、元王太子レオンハルト殿下の周辺。
私は引き出しの中にある手紙を思い出した。
昨夜読んだ、謝罪を望む短い手紙。
あの手紙自体に悪意は感じなかった。
だが、レオンハルト殿下の名は、未だに社交界では重い。
殿下に同情する者。
元王太子派だった者。
私を「王家に恥をかかせた令嬢」と見る者。
彼らが噂を利用する可能性はある。
「朝から難しい顔ですね」
声をかけられ、顔を上げる。
ユリウス殿下が、書類の束を手に立っていた。
昨日に続き、またご自身で持ってこられたらしい。
「おはようございます、ユリウス殿下」
「おはようございます。噂の件ですか」
「はい」
「聞きました」
ユリウス殿下は、私の机の前に書類を置く。
「不愉快な内容です」
「よくできた内容でもあります」
「評価しますか」
「広まりやすさという意味では」
ユリウス殿下は、少しだけ眉を寄せた。
「あなたは、自分に向けられた悪意を分析する癖がありますね」
「分析しなければ、対処できません」
「傷つかないわけではないでしょう」
その言葉に、私は一瞬だけ黙った。
傷つかない。
そう言い切るのは、簡単だった。
けれど、それは嘘になる。
私は王太子に捨てられたのではない。
私が婚約を終わらせた。
そう分かっていても、誰かに「捨てられた恨み」と言われれば、胸の奥はわずかに痛む。
五年間が、そんなふうに語られることも。
私の決断が、嫉妬や復讐にすり替えられることも。
「傷つかないわけではありません」
私は正直に答えた。
ユリウス殿下の瞳が、少し柔らかくなる。
「そうですか」
「ですが、傷ついたからといって、立ち止まる理由にはなりません」
「立ち止まってもよいのですよ」
「今は、立ち止まりたくありません」
私は机上の報告書を整えた。
「この噂が広がれば、王宮法務局に相談したい令嬢たちが萎縮します。私が悪女にされるだけならともかく、助けを求める人が黙らされるのは困ります」
「あなたらしい理由ですね」
「自分のためにも調べます」
私は念のため、そう付け加えた。
ユリウス殿下が、少しだけ笑った。
「それを聞けて安心しました」
「安心?」
「あなたがいつも他人のためだけに動こうとするので」
私は返答に困る。
ユリウス殿下は、そんな私を責めるでもなく、静かに続けた。
「噂の件は、王太子として正式に調査を命じることもできます」
「お気遣いありがとうございます。ですが、まずは法務局で確認します」
「あなた自身に関わる件です。無理に担当しなくても」
「いいえ」
私は首を横に振った。
「私自身に関わるからこそ、自分で確認したいのです」
誰かに守られるだけでは、きっとまた私は待つ人間に戻ってしまう。
もちろん、一人で抱え込むつもりはない。
けれど、自分の名誉は、自分でも守りたい。
「分かりました」
ユリウス殿下は頷いた。
「では、私はあなたの調査を妨げないようにします」
「ありがとうございます」
「ただし」
「ただし?」
「危険があると判断した場合は、私も介入します」
「殿下」
「そこは譲れません」
真顔だった。
私は小さく息を吐く。
「承知しました」
その後、午前中いっぱいを使って、法務局の官吏たちは噂の経路を集めた。
昼前には、簡易の聞き取り記録が私の机に届く。
噂の出どころは大きく三つ。
一つ目、ラングレー家と付き合いのある貴族サロン。
二つ目、元王太子派の若手貴族たちが集まる乗馬倶楽部。
三つ目、王都西区の女性向け茶会。
そして、その三つの場所すべてに共通して出入りしていた人物がいた。
リリア・ベルノワール男爵令嬢の元侍女、メイナ。
私はその名を見た瞬間、指を止めた。
「リリア嬢の……」
記録係が頷く。
「はい。ベルノワール男爵家は王宮出入り禁止となりましたが、元使用人までは制限対象ではありません」
「現在、彼女はどこに?」
「王都西区の仕立屋で働いているようです。ただ、複数の茶会で“王太子殿下は本当はエリス様を案じていた”とか、“エリス様が法を使って殿下を追い落とした”と話していたという証言があります」
私は報告書を読む。
噂は、リリア嬢本人ではなく、元侍女から流れている。
それが偶然なのか、指示なのかはまだ分からない。
ただ一つ言えるのは、噂には明らかな方向性がある。
レオンハルト殿下を哀れな被害者にする。
私を冷酷な加害者にする。
王宮法務局の正当性を揺らがせる。
「メイナに聞き取りを行いましょう」
私が言うと、記録係は頷いた。
「出頭命令を出しますか」
「いえ、まずは任意の聞き取りで」
「任意で来るでしょうか」
「来なければ、次の段階に進めます」
私は報告書を閉じた。
「噂は婚約と同じです。始めるのは簡単でも、責任を取らずに終わらせることはできません」
午後。
メイナへの聞き取り依頼を出した直後、法務局に別の来客があった。
クラリッサ嬢だった。
昨日の今日である。
まだ疲れも残っているはずなのに、彼女はきちんとした外出着で現れた。
「エリス様」
「クラリッサ嬢。どうされましたか」
「噂を聞きました」
彼女は、まっすぐ私を見た。
「私のせいで、エリス様が悪く言われているのではないかと思って」
「あなたのせいではありません」
「でも、私が相談したから」
「違います」
私ははっきり告げた。
「婚約を壊しているのは、私でもあなたでもありません」
クラリッサ嬢が息を呑む。
「約束を破った人たちです」
彼女の瞳が揺れた。
私は続ける。
「私たちは、壊れたものを記録しているだけです。壊したのは、約束を軽んじた者たちです」
クラリッサ嬢は唇を震わせ、それから深く頷いた。
「……はい」
「だから、あなたが謝る必要はありません」
「でも、私は何かしたいのです」
クラリッサ嬢は、小さな封筒を差し出した。
「これは?」
「私の友人たちからの手紙です。今回の件を聞いて、実は似たような悩みがあると相談されました」
封筒の中には、数通の手紙が入っていた。
婚約者が別の令嬢を優先している。
持参金の使途が不透明。
婚約契約を急がされている。
家のために黙れと言われている。
私は一通ずつ目を通し、静かに息を吸った。
やはり、これは一つの事件で終わらない。
「ありがとうございます。正式な相談として受けるには、本人の意思確認が必要です」
「はい。皆、怖がっています。でも、エリス様になら話せるかもしれないと」
婚約を破壊する令嬢。
噂はそう言う。
けれど、その噂の裏で、助けを求める声が届き始めている。
私は手紙を丁寧に封筒へ戻した。
「分かりました。必ず確認します」
クラリッサ嬢は、少しだけ安心したように微笑んだ。
その時、廊下から慌ただしい足音がした。
記録係が戻ってくる。
「エリス補佐官。メイナから返答がありました」
「来ますか」
「いえ」
記録係は、困惑した顔で答えた。
「“私は何も知りません。噂は王都の皆が言っていることです。それに、元王太子殿下もエリス様と話したがっていると聞いています”と」
私は、わずかに眉を動かした。
元王太子殿下。
ここでその名を出す。
偶然ではない。
「分かりました」
私は椅子から立ち上がった。
「では、明日はこちらから会いに行きます」
クラリッサ嬢が驚いた顔をする。
「エリス様が直接ですか」
「はい」
私は窓の外を見る。
王都の街は、夕暮れの光に染まり始めていた。
噂は外を歩いている。
ならば、私も外へ出るべきだ。
「婚約を壊しているのは、私ではありません」
私は静かに言った。
「そのことを、記録に残しましょう」