軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

最初の事件の終わりと、新しい噂

レオンハルト殿下からの手紙。

その封を見た瞬間、私の手は止まった。

元王太子。

元婚約者。

五年間、私が待ち続けた人。

そして、婚約式の日に神殿へ来なかった人。

封蝋は王家のものではなかった。

現在、レオンハルト殿下は地方修養中であり、王太子位も剥奪されている。

使える印章も限られているのだろう。

私はしばらく封を見つめ、それから机の引き出しに入れた。

今、読むべきではない。

明日はクラリッサ嬢の件を決着させる大切な日だ。

過去に心を乱される余裕はない。

私はランプの明かりを少し強め、ラングレー家の資料に向き直った。

レオンハルト殿下からの手紙は、引き出しの中で静かに眠っていた。

翌日。

王宮法務局の審問室には、前回より多くの人が集まっていた。

クラリッサ・エインズワース伯爵令嬢。

エインズワース伯爵。

ラングレー子爵とオスカー令息。

カストナー男爵とミレーヌ嬢。

そして、過去にラングレー家と婚約解消を経験した二人の令嬢。

一人は、マーガレット・ロウ準男爵夫人。

かつては商家から準男爵家へ迎えられた令嬢だったという。

もう一人は、セシリア・ノーブル子爵令嬢。

婚約破棄の噂によって、長く社交界から遠ざかっていた方だ。

二人とも、表情は硬かった。

けれど、ここに来た。

それだけで十分に強い。

法務卿が審問開始を告げる。

「本日は、ラングレー子爵家に関する一連の婚約契約について確認する」

ラングレー子爵の顔色は悪かった。

オスカー令息は、昨日までの整った微笑みを完全に失っている。

私は資料を順に並べた。

クラリッサ嬢の契約書。

マーガレット夫人の過去の契約書。

セシリア令嬢の過去の契約書。

三つの契約書には、表現こそ違うが、同じ目的の条項が含まれていた。

婚約継続の有無にかかわらず、花嫁側資産の返還請求権を放棄する。

これを偶然と呼ぶには、あまりにも似すぎている。

「マーガレット夫人」

私は静かに声をかけた。

「証言をお願いできますか」

マーガレット夫人は、小さく頷いた。

「五年前、私はラングレー家の縁戚と婚約しました。持参金は、父の商会から用意されたものです。婚約後すぐ、事業準備金として預けるよう求められました」

「その後、婚約は?」

「三か月後に解消されました。相手の方が、別の女性と結婚したいと」

「持参金は返還されましたか」

「いいえ。契約書に返還請求権の放棄があると言われました」

彼女は膝の上で手を握る。

「父は訴えようとしました。でも、相手は貴族家で、こちらは商家上がりだからと。これ以上騒げば、私の再婚にも響くと言われて……諦めました」

審問室が静まる。

私は次に、セシリア令嬢を見た。

「セシリア嬢」

「はい」

「あなたの件も、同様ですか」

セシリア令嬢は唇を噛んだ。

「はい。私は三年前、オスカー様の従兄と婚約していました。持参金の一部を、ラングレー家の投資に回すと言われました。その後、相手の方から婚約を解消されました」

「理由は?」

「私が冷たい女だから、と」

その言葉に、胸の奥が少し痛んだ。

冷たい女。

都合よく扱えない女に、男たちはよくその名を貼る。

「実際には?」

「相手の方には、別の恋人がいました」

「持参金は?」

「戻りませんでした。父は怒りましたが、母が、これ以上騒げば私が傷物として扱われると」

彼女は悔しそうに俯いた。

「私は何も言えませんでした」

私は頷いた。

「証言ありがとうございます」

そして、ラングレー子爵へ向き直る。

「以上の証言と契約書を照合すると、ラングレー家は少なくとも三度、婚約契約を利用して花嫁側資産を取得し、その後、婚約解消時に返還を拒んでいます」

「言いがかりだ!」

ラングレー子爵が叫ぶ。

「それぞれ事情が違う!」

「はい。人の名前と年月は違います」

私は資料を一枚持ち上げた。

「ですが、条項と結果は似ています」

法務卿が低く言う。

「ラングレー子爵。事業投資と称して受け取った資金の使用記録を提出しなさい」

「それは……古いものもあるので」

「提出しなさい」

「……」

沈黙。

つまり、ないのだ。

または、出せない。

「では、こちらから確認した記録を提示します」

私は王都商業登録局から取り寄せた資料を開いた。

「過去五年、ラングレー家名義で登録された香料輸入事業、織物投資事業、馬車部品製造事業。いずれも登録のみで、実際の取引記録がほぼ存在しません」

ラングレー子爵の顔が青ざめる。

「さらに、受け取った資金の大半は、ラングレー家の借入返済、社交費、親族への送金に充てられています」

「違う!」

「記録があります」

私は書類を机に置いた。

「借入返済の受領証。商会への支払い記録。宝飾店の領収書。今回カストナー家へ移動された送金記録」

私は一つずつ並べる。

「すべて、王都の正式な記録です」

オスカー令息がうめくように言った。

「父上……」

その声には、少しだけ驚きが混じっていた。

彼自身も、すべてを知っていたわけではないのかもしれない。

だが、それで責任が消えるわけではない。

「オスカー令息」

私は彼を見る。

「あなたはクラリッサ嬢の持参金について、返還できないと手紙に書きました」

「……はい」

「その時点で、資金が実際に事業へ使われていない可能性を知っていましたか」

「僕は……父から、事業に使ったと」

「確認は?」

「していません」

「確認せずに、返還できないと書いたのですね」

彼は何も答えなかった。

それも記録される。

「そして、婚約解消前からミレーヌ嬢と結婚の約束をし、彼女の家へ資金を移すことに同意した」

「僕は、ミレーヌを幸せにしたかっただけです」

その声は、昨日より弱かった。

私は静かに答える。

「誰かを幸せにするために、別の誰かから奪ってよい理由にはなりません」

クラリッサ嬢が、まっすぐオスカー令息を見た。

「オスカー様」

彼女の声は震えていなかった。

「私は、あなたに愛されなかったことを責めるつもりはありません」

オスカー令息が顔を上げる。

「クラリッサ……」

「でも、私の持参金を返さなかったこと。私に説明もせず、私の人生を軽んじたこと。それは、許せません」

彼女は続けた。

「私は、あなたの真実の愛の支払い係ではありません」

その言葉に、審問室の空気が動いた。

マーガレット夫人が小さく頷く。

セシリア令嬢は、涙を浮かべながら顔を上げていた。

私は、胸の奥が熱くなるのを感じた。

彼女は立っている。

自分の言葉で。

法務卿が判定を告げた。

「王宮法務局は、本件を不公正契約および資金詐取の疑いがある重大案件として正式処理する」

ラングレー子爵が何か言おうとしたが、法務卿は止まらない。

「クラリッサ・エインズワース嬢への持参金は、全額返還対象とする。すでにカストナー家へ移動された資金についても、不当受益として保全し、返還手続きに組み込む」

カストナー男爵が蒼白になる。

「さらに、マーガレット夫人、セシリア嬢の二件についても再審査を開始する。該当資金の返還または相当額賠償を求める」

「そんな昔のことまで!」

ラングレー子爵が叫ぶ。

法務卿は冷たく答えた。

「昔のことだからといって、不正が正当化されるわけではありません」

ユリウス殿下が静かに続ける。

「王家としても、貴族間婚約契約における不公正条項の監査制度を整えます」

その言葉に、室内の全員が王太子を見る。

「今後、一定額以上の持参金を伴う婚約契約には、第三者による法務確認を義務づける方向で検討します」

私は驚いてユリウス殿下を見た。

そこまで考えていたのか。

彼は、私の視線に気づいて、ほんの少しだけ頷いた。

事件を一つ裁くだけではなく、次を防ぐ。

王太子として、当然の視点なのかもしれない。

けれど、その当然を本当に実行しようとする王族を、私は初めて見た。

審問が終わった後、クラリッサ嬢は私の前に立った。

「エリス様」

「はい」

「ありがとうございました」

「あなたが証言したからです」

「それでも、エリス様がいなければ、私はきっと黙っていました」

「もう、黙らなくて大丈夫です」

彼女は涙を浮かべながら笑った。

「はい」

マーガレット夫人とセシリア嬢も、私に礼を言って去っていった。

長く閉じられていた記録が、ようやく開かれた。

すべてが元通りになるわけではない。

失われた時間も、傷ついた名誉も、完全には戻らない。

けれど、それでも。

何もなかったことにされるよりは、ずっといい。

夕方。

法務局の執務室で、私は最終報告書を書いていた。

初めて担当した事件は、まだ手続きこそ残っているが、大きな山を越えた。

クラリッサ嬢の持参金は返還される見込み。

ラングレー家には処分が下る。

カストナー家も不当受益の返還対象になる。

過去二件も再審査へ進む。

私はペンを置き、小さく息を吐いた。

「お疲れさまでした」

ユリウス殿下が紅茶を持ってきた。

また自ら。

「殿下、官吏に任せてください」

「今日は私が持ってきたかったのです」

「理由を伺っても?」

「あなたの初仕事が一区切りしましたから」

カップが机に置かれる。

温かな香りが立ち上った。

「見事でした」

「一人で成し遂げたわけではありません」

「もちろんです。ですが、あなたがいなければ、クラリッサ嬢はあの言葉を言えなかった」

「私はきっかけにすぎません」

「きっかけは、大切です」

ユリウス殿下は静かに言った。

「人は、立ち上がる理由を待っていることがあります」

私は紅茶に視線を落とした。

「私も、そうだったのかもしれません」

「婚約式の日ですか」

「はい」

あの日、王太子殿下が来なかった。

それが、私のきっかけだった。

悲しいきっかけだった。

けれど、今は思う。

あの日がなければ、私はまだ待っていたかもしれない。

ずっと、誰かの都合を。

「エリス嬢」

「はい」

「あなたは、捨てられたのではありません」

私は顔を上げた。

ユリウス殿下は、まっすぐ私を見ている。

「あなたが、自分の意思で終わらせたのです」

胸の奥が、強く震えた。

その言葉は、私が自分に何度も言い聞かせてきたものだった。

けれど誰かに言ってもらうと、こんなにも違う。

「……ありがとうございます」

「事実を述べただけです」

そう言って、彼は少しだけ微笑んだ。

その言い方が私に似ていて、思わず笑ってしまう。

穏やかな時間だった。

だが、穏やかさはまたしても長くは続かなかった。

扉が叩かれ、記録係が顔を出す。

「エリス補佐官。王都で妙な噂が流れています」

「噂?」

「はい」

記録係は困ったように言った。

「“エリス・フォン・アシュベルトは、婚約破棄された令嬢たちを集めて、王都の婚約を次々破壊している”と」

私は瞬いた。

ユリウス殿下は、紅茶のカップを持ったまま静かに眉を上げた。

「随分と雑な噂ですね」

「ええ」

私はため息をついた。

婚約を破壊している。

なるほど。

約束を破った側から見れば、約束を守らせることは破壊に見えるのかもしれない。

「発信源は分かりますか」

「まだ確認中です。ただ、社交界の一部で急速に広がっています」

「分かりました」

私は報告書を閉じる。

「明日、確認しましょう」

ユリウス殿下が私を見る。

「休まないのですか」

「今日は休みます」

私は紅茶を手に取った。

「明日、確認します」

ユリウス殿下は満足そうに頷いた。

「よろしい」

その夜、私は屋敷に戻ってから、引き出しに入れていたレオンハルト殿下の手紙を開いた。

短い手紙だった。

エリスへ。

君が王宮法務局で働いていると聞いた。

君は昔から優秀だった。

きっと、皆に頼りにされているのだろう。

だが、無理はしていないか。

君はいつも、自分のことを後回しにする。

あの日のことを、今も考えている。

君に謝りたい。

一度、話がしたい。

レオンハルト

私は、手紙を静かに机に置いた。

謝りたい。

話がしたい。

かつての私なら、胸が揺れただろう。

けれど今は、ただ思う。

謝罪は、相手の都合で差し出すものではない。

受け取るかどうかは、傷つけられた側が決めるものだ。

私はペンを取らなかった。

返事は、まだ書かない。

窓の外では、王都の灯りが揺れている。

私の知らないところで、また新しい噂が歩き出している。

ならば、明日からまた記録しよう。

誰が、何を、何のために流したのか。

噂もまた、辿れば必ず足跡を残す。

私はランプの火を落とした。

最初の事件は終わった。

けれど、王宮法務局特別補佐官としての私の物語は、まだ始まったばかりだった。