作品タイトル不明
王太子殿下は、私を便利な道具にはしない
カストナー男爵家から届いた書状は、見事なまでに美しかった。
上質な羊皮紙。
香りづけされた封蝋。
流れるような筆跡。
そして、中身はほとんど空だった。
真実の愛に基づく贈与である。
第三者が口を挟むべきではない。
ミレーヌ・カストナーは何も知らず、ただ愛する者から贈り物を受け取っただけである。
要約すると、そういう内容だ。
私は王宮法務局の執務室で、その書状を三度読み返した。
三度読んでも、やはり結論は変わらない。
「随分と都合のよい真実の愛ですね」
思わず呟くと、向かいの席で資料を読んでいたユリウス殿下が顔を上げた。
「その言い方、気に入っていませんね」
「はい」
「珍しくはっきりしています」
「殿下」
「はい」
「人の持参金を別の令嬢の婚礼準備金に変える愛を、私はどう評価すればよいのでしょう」
「少なくとも、美談ではありません」
「同感です」
私は書状を机に置く。
現在、王宮法務局ではラングレー家、カストナー家、そして過去二件の婚約解消について同時に調査を進めている。
クラリッサ嬢の持参金は、金貨三万枚相当。
そのうち二万枚相当がカストナー男爵家へ移されていた。
残り一万枚相当については、ラングレー家が別の借入金返済に充てた疑いがある。
つまり、事業投資など最初から存在しない可能性が高い。
さらに、過去に婚約解消となった二人の令嬢についても、似たような構図が見え始めていた。
婚約成立。
持参金の早期移転。
不自然な契約条項。
婚約破棄。
返還拒否。
家の名誉を理由に沈黙。
繰り返しだ。
それは失敗ではない。
手口である。
「エリス嬢」
「はい」
「休憩を取りませんか」
「今ですか?」
「今です」
ユリウス殿下は真面目な顔で頷いた。
「朝からずっと書類を読んでいます」
「まだ午前です」
「午前のうちに目が疲れている人は、午後にはもっと疲れます」
「合理的ではありますが」
「では、合理的に休みましょう」
私は少し困った。
ユリウス殿下は、私に仕事を任せてくださる。
けれど、同時に止めもする。
それがまだ、うまく受け止められない。
以前の私は、止められなかった。
王太子妃候補なのだから。
君ならできるだろう。
君は強いから。
そう言われるたびに、私は限界の少し先まで進むのが当然だと思っていた。
「殿下」
「はい」
「私は、仕事を任せていただけることをありがたく思っています」
「はい」
「ですから、多少の無理は」
「不要です」
即答だった。
私は言葉を失う。
ユリウス殿下は、静かに私を見ていた。
「あなたに無理をさせるために、法務局へ招いたわけではありません」
「ですが、私は――」
「あなたは有能です」
その言葉は、穏やかだった。
「だからこそ、便利な道具のように扱ってはいけない」
胸の奥が、不意に詰まった。
便利な道具。
かつての私は、そうだったのかもしれない。
王太子殿下が不在の式典を代わりに整える。
外交会議の資料をまとめる。
幼なじみのリリア嬢のことで王太子殿下が抜けても、後始末をする。
そして最後には、婚約式にさえ一人で立った。
私は、必要とされていたのではない。
都合よく使われていた。
その違いを、今になってようやく理解している。
「エリス嬢」
ユリウス殿下の声が、少し柔らかくなった。
「すみません。言い方が強かったでしょうか」
「いいえ」
私は首を横に振る。
「少し、驚いただけです」
「あなたを責めたわけではありません」
「分かっています」
分かっている。
分かっているのに、胸が痛い。
過去の傷は、治ったように見えて、ふとした言葉で存在を知らせてくる。
それでも。
私はもう、その痛みをなかったことにはしない。
「休憩を取ります」
私が言うと、ユリウス殿下は安心したように頷いた。
「では、お茶を用意させます」
「殿下がそこまでなさらなくても」
「したいのです」
その一言に、また困る。
命令でもない。
義務でもない。
ただ、したい。
私はまだ、そういう好意への返し方を知らない。
「ありがとうございます」
結局、それだけを答えた。
ユリウス殿下は満足そうに頷いた。
休憩といっても、王宮法務局の休憩は静かだった。
小さな応接机に、紅茶と焼き菓子が並ぶ。
窓の外には、王宮庭園の若葉が揺れていた。
私は焼き菓子を一つ手に取る。
「甘いものは、お嫌いではありませんか」
「嫌いではありません」
「よかった」
「殿下はお好きなのですか」
「はい。北方にいた頃は、甘いものが貴重でしたので」
「北方騎士団の監察官をされていたのですよね」
「ええ。書類より雪の方が多い場所でした」
「それは大変そうです」
「ですが、雪は嘘をつきません」
私は思わず顔を上げた。
ユリウス殿下は、少しだけ笑っている。
「足跡が残りますから」
「記録に似ていますね」
「だから、あなたの仕事に親しみを感じるのかもしれません」
その言葉に、自然と口元が緩んだ。
穏やかな時間だった。
けれど、その穏やかさは長く続かなかった。
扉が叩かれ、法務局の官吏が入ってくる。
「失礼します。カストナー男爵家より、ミレーヌ嬢と男爵が到着されました」
私はカップを置いた。
「予定より早いですね」
「はい。向こうは、早期に誤解を解きたいと」
誤解。
その言葉ほど、事実を隠すのに便利なものもない。
「分かりました。すぐに向かいます」
立ち上がろうとした私を、ユリウス殿下が見た。
「エリス嬢」
「はい」
「焼き菓子をもう一つ」
「今ですか?」
「今です」
「殿下」
「休憩は、最後まで休憩です」
私は一瞬だけ迷い、それから焼き菓子をもう一つ口にした。
甘い。
少しだけ、力が戻る。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
審問室には、カストナー男爵とミレーヌ・カストナー男爵令嬢が待っていた。
ミレーヌ嬢は、薄桃色のドレスに身を包んでいた。
繊細な刺繍の入った美しいドレスだ。
その胸元には、見覚えのある宝石が輝いている。
クラリッサ嬢が、以前婚約披露のために用意したと証言していた首飾りとよく似ていた。
私はそれを、表情に出さず記憶に留める。
「王宮法務局の皆様。このたびは、大きな誤解があるようで」
カストナー男爵が口を開いた。
声は穏やかだが、目は笑っていない。
「娘は何も知りません。オスカー君から贈り物を受け取っただけです」
ミレーヌ嬢が目を伏せる。
「私、本当に何も知りませんでした。オスカー様が私を愛してくださっていると、それだけで……」
彼女の声は震えていた。
だが、涙は出ていない。
私は静かに尋ねる。
「ミレーヌ嬢。ラングレー家から金貨二万枚相当の送金があったことはご存じでしたか」
「父から、婚礼準備のためだと聞きました」
「婚礼準備」
「はい。オスカー様は、クラリッサ様との婚約を解消して、私と結婚すると」
「それはいつ聞きましたか」
「……一月ほど前です」
私は手元の資料に目を落とす。
クラリッサ嬢が婚約破棄を告げられたのは、十日前。
「一月前」
私はゆっくり繰り返した。
「クラリッサ嬢が正式に婚約破棄を告げられるより前ですね」
ミレーヌ嬢の肩が揺れた。
カストナー男爵が口を挟む。
「若い者同士の心の問題です。時期が多少前後することも」
「多少、ではありません」
私は資料を閉じた。
「婚約が継続している相手がいる男性から、一月前に結婚の約束を受け、十日前にはその男性の婚約者の持参金由来と疑われる資金を婚礼準備金として受け取っている」
「疑われる、でしょう」
男爵が強く言う。
「証明されたわけではない」
「証明するために確認しています」
「娘を罪人のように扱うのはやめていただきたい」
「では、罪のないことを記録で示してください」
私はミレーヌ嬢を見る。
「ミレーヌ嬢。オスカー令息から贈られた品を、すべて申告してください」
「すべて……?」
「はい。宝石、ドレス、金銭、手紙、婚礼準備品。すべてです」
「そんな、私物まで」
「他者の持参金から購入された可能性があるためです」
ミレーヌ嬢は、胸元の首飾りに手を当てた。
その動きだけで、答えは半分出ている。
「その首飾りも、申告対象です」
「これは、オスカー様から愛の証としていただいたものです!」
「購入記録を確認します」
「どうしてそこまで!」
彼女の声が高くなる。
「私は愛されただけです! クラリッサ様が愛されなかったからといって、私が責められるのはおかしいです!」
その瞬間、室内の空気が止まった。
カストナー男爵が顔をしかめる。
ミレーヌ嬢自身も、自分の言葉に気づいたように唇を押さえた。
私は記録係に目を向ける。
「今の発言を記録してください」
「承知しました」
「ま、待ってください。今のは」
ミレーヌ嬢が慌てる。
「言い間違いです」
「どの部分が?」
「その、クラリッサ様が愛されなかったというのは」
「つまり、あなたはクラリッサ嬢が婚約者であることを知っていた」
ミレーヌ嬢は黙り込んだ。
記録係のペンが走る音だけが響く。
私は静かに続けた。
「知っていたうえで、婚礼準備金を受け取った」
「私は……オスカー様がすぐに解消すると」
「解消前ですね」
「でも、愛し合っていたのです」
「愛し合っていれば、他人の契約を無視してよいのですか」
「そういう意味では」
「愛し合っていれば、他人の財産を使ってよいのですか」
「違います!」
「では、返還に協力していただけますね」
ミレーヌ嬢の顔色が変わった。
「返還……?」
「はい。ラングレー家から受け取った金銭、贈答品、婚礼準備品のうち、クラリッサ嬢の持参金に由来すると確認されたものは、返還または相当額の弁済対象となります」
「そんな……もう使ってしまったものも」
「使用済みであれば、相当額を弁済していただくことになります」
カストナー男爵が立ち上がった。
「横暴だ!」
「いいえ」
今度はユリウス殿下が口を開いた。
「当然の確認です」
「殿下まで……!」
「カストナー男爵。あなた方が受け取ったものが正当な贈与であると主張するなら、その原資が不正に得られたものではないと示す必要があります」
男爵は言葉を詰まらせた。
ユリウス殿下は淡々と続ける。
「真実の愛を主張するのは自由です。ですが、王国法は、愛を理由に財産権を消しません」
私はその横顔を見た。
穏やかで、冷静で、揺るがない。
私を前に出させてくれる。
けれど必要な時は、隣に立ってくれる。
その距離感が、ありがたかった。
「ミレーヌ嬢」
私はもう一度、彼女に問いかける。
「あなたに確認します。クラリッサ嬢が正式な婚約者であると知っていましたか」
「……はい」
「オスカー令息から、婚約解消前に結婚の約束を受けましたか」
「はい」
「ラングレー家から婚礼準備金を受け取りましたか」
「……はい」
「その金の出所について、確認しましたか」
「していません」
「分かりました」
私は記録係に頷く。
これで十分だ。
少なくとも、ミレーヌ嬢が完全な善意の第三者であるという主張は崩れた。
知らなかった。
ただ愛されただけ。
その言葉は、もう記録の前では通らない。
審問後、ミレーヌ嬢は泣き崩れるように退室していった。
カストナー男爵も、最後まで不満を隠さなかった。
だが、彼らの主張はほとんど失われた。
残る問題は、資産の回収と、ラングレー家の過去の被害者たちだ。
廊下に出ると、私は少しだけ息を吐いた。
「疲れましたか」
ユリウス殿下が尋ねる。
「少し」
今度は、正直に答えた。
すると、ユリウス殿下は満足そうに頷いた。
「正直でよろしい」
「殿下に褒められる基準が分からなくなってきました」
「無理を隠さなかったので」
「それは褒めることなのですか」
「はい。少なくとも、私にとっては」
私は何も言えなくなった。
以前の私なら、疲れたと言うだけで負けたような気がした。
けれど今は違うのかもしれない。
疲れたと言っても、役に立たないとは言われない。
休んでも、見捨てられない。
「エリス嬢」
「はい」
「あなたは、便利な道具ではありません」
ユリウス殿下は、静かに言った。
「だから、必要な時は疲れたと言ってください」
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
困る。
本当に、困る。
そんなふうに大切に扱われることに、私はまだ慣れていない。
「……努力します」
「完了でお願いします」
また返された。
今度は少しだけ、笑ってしまった。
その日の夕刻。
法務局に、過去の婚約解消相手だった二人の令嬢から返答が届いた。
一人は、すでに別の領地へ嫁いでいた。
もう一人は、婚約破棄の噂で社交界から遠ざかっていた。
二人とも、証言に応じるという。
私はその返答を読み、静かに頷いた。
沈黙していた記録が、動き始めている。
事件は明日、決着に向かう。
そして私は、もう一つ気づいていた。
王宮法務局には、同じような声にならない訴えが、きっとまだ山ほど眠っている。
私はそれを、見過ごしたくない。
その夜、執務机に向かう私のもとへ、一通の手紙が届けられた。
差出人の名を見て、私は手を止める。
レオンハルト。
元王太子、レオンハルト殿下からだった。