軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

待つのではなく、選ぶために

王宮法務局の窓から見える空は、よく晴れていた。

春の光が白い壁を照らし、書類の端を淡く染めている。 机の上には、今日もいくつもの記録が積まれていた。

婚約契約の確認書。 持参金返還手続きの進捗。 王族婚姻調整室からの改定案。 そして、王宮法務局が新たに作成した貴族間婚約契約の標準規定。

私は、その最後の書類に目を通していた。

貴族間婚約契約に関する標準規定案

一、一定額以上の持参金を伴う婚約契約については、当事者双方への個別説明を義務づける。

二、婚約契約書への署名前に、当事者双方へ十分な確認期間を設ける。

三、婚約解消時の財産返還に関する条項は、著しく一方に不利な内容であってはならない。

四、婚約者本人の意思確認を経ない契約、または家名のみを理由に本人へ不利益を負わせる契約については、王宮法務局への申し立てを認める。

五、婚約契約に関する相談者の名誉を守るため、虚偽の噂、報復的な社交上の排斥についても調査対象とする。

私は最後まで読み、静かに頷いた。

完璧ではない。 これですべての不正がなくなるわけでもない。

けれど、何もなかった時よりはずっといい。

クラリッサ嬢が声を上げた。 マーガレット夫人とセシリア嬢も記録を残した。 私自身も、過去を記録の中で終わらせた。

その積み重ねが、一つの規定案になっている。

誰かの涙が、次の誰かを守る紙になる。

私は、この仕事を続けたいと思った。

強く、はっきりと。

「エリス補佐官」

記録係が、扉の前で一礼した。

「王太子殿下がお見えです」

「ユリウス殿下が?」

「はい。法務卿も同席をとのことです」

「分かりました」

私は書類を整え、応接室へ向かった。

応接室には、ユリウス殿下と法務卿がいた。 法務卿はいつも通り厳しい顔をしているが、どこか少しだけ疲れているようにも見える。

ユリウス殿下は、私を見ると立ち上がった。

「お忙しいところ、すみません」

「いえ。何かありましたか」

「王宮会議で、正式に決まりました」

私は息を止める。

「標準規定案のことですか」

「はい」

ユリウス殿下は、机の上に一枚の通達を置いた。

王宮会議決定通知

王宮法務局提出の「貴族間婚約契約に関する標準規定案」について、王宮会議はこれを正式に採択する。

本規定は、貴族間婚約における当事者本人の意思確認、財産保護、虚偽の噂による名誉侵害防止を目的とする。

本規定の整備にあたり、王宮法務局特別補佐官エリス・フォン・アシュベルト嬢の記録、調査、提言を高く評価する。

今後、王宮法務局は本規定の運用を担うものとする。

私は、その文面を何度も目で追った。

正式に採択する。

その一文が、胸の奥に静かに響いた。

「……通ったのですね」

「はい」

ユリウス殿下は頷いた。

「あなたの仕事です」

「私一人ではありません」

「もちろんです。ですが、あなたがいなければ始まりませんでした」

その言葉を、以前の私なら素直に受け取れなかったかもしれない。

必要とされることが怖かったから。 褒められれば、その分もっと我慢しなければならないと思っていたから。

けれど今は、少し違う。

「ありがとうございます」

私は、まっすぐ答えた。

「この仕事を評価していただけたことを、嬉しく思います」

法務卿が小さく頷いた。

「ようやく素直に受け取れるようになったな」

「法務卿」

「成長だ」

「褒めてくださっているのですか」

「そう聞こえなかったか」

「少し厳しく聞こえました」

「いつものことだ」

ユリウス殿下が、かすかに笑った。

その笑みを見て、私も少しだけ笑う。

王宮法務局の空気は、私が最初に来た時よりもずっと馴染んだものになっていた。

ここは、もう仮の居場所ではない。 私が自分で選んだ場所だ。

法務卿は書類を一つ置き、立ち上がった。

「では、私は先に戻る。王太子殿下、話は長くなさらぬように」

「法務卿」

「長くなる顔をしておられる」

法務卿はそう言い残し、応接室を出ていった。

扉が閉まる。

部屋には、私とユリウス殿下が残された。

もちろん、王宮内の応接室であり、扉の外には護衛もいる。 けれど、先ほどまでよりずっと静かだった。

「エリス嬢」

「はい」

「今日は、もう一つ話があります」

私は、自然と背筋を伸ばした。

ユリウス殿下の声は、王太子としてのものではなかった。 もっと個人的で、けれど真剣だった。

「王宮会議で、私の婚姻についても話が出ました」

胸が小さく鳴る。

「そうですか」

「候補者名簿は差し戻されました。あなたの意思確認なしに名前を扱うことも禁じられました。ですが、王太子である以上、いずれ婚姻の話は避けられません」

「はい」

「だから、先に私自身の意思を記録しておきたいと思いました」

「記録、ですか」

「はい」

ユリウス殿下は、まっすぐ私を見た。

「私は、エリス・フォン・アシュベルト嬢を尊敬しています。王宮法務局特別補佐官としての能力も、人としての誠実さも」

息が詰まりそうになる。

けれど、目を逸らさなかった。

「私は、あなたを大切に思っています。あなたに隣に立ってほしいと願っています」

以前、庭園で聞いた言葉に似ていた。

だが、今日の言葉はさらに明確だった。

「ただし、それは王家のためにあなたを利用したいという意味ではありません。あなたに仕事を捨ててほしいという意味でもありません」

彼は静かに続ける。

「あなたが王宮法務局の仕事を続けたいなら、続けてください。あなたが私の隣に立たない道を選ぶなら、それも尊重します」

「殿下」

「ですが、もし」

ユリウス殿下の声が、少しだけ柔らかくなった。

「もし、あなたが私の隣に立つことを選んでくださるなら、私はあなたを王太子妃としてだけでなく、エリス・フォン・アシュベルトという一人の人として大切にします」

胸の奥が熱くなった。

私は、しばらく言葉を探した。

王太子妃。

その言葉は、ずっと怖かった。

かつて私を縛った未来。 失った未来。 誰かの隣に立つために、自分を後回しにする役目。

けれど、今のユリウス殿下の言葉は違う。

自分を捨てて来いとは言わない。 役目に合わせて変われとも言わない。 私が私であることを、そのまま隣へ持ってきてよいと言ってくれている。

「私は……」

声が少し震えた。

「王太子妃という言葉が、今も少し怖いです」

「はい」

「誰かの隣に立つことも、まだ怖いです」

「はい」

「けれど、殿下の隣に立つことを考える時、怖いだけではありません」

ユリウス殿下は、黙って聞いてくれている。

「私は、王宮法務局の仕事を続けたいです。誰かの声を記録し、理不尽な契約を正し、黙らされる人を減らしたい」

「はい」

「それを手放さなくていいのなら」

私は、胸に手を当てた。

「私が私のままでよいのなら」

ユリウス殿下の瞳が揺れた。

「私は、殿下の隣に立つ未来を、選びたいと思います」

言った。

言葉にした。

その瞬間、胸の奥で何かがほどけた。

誰かに言わされたのではない。 書類に名前を載せられたのでもない。 家のためでも、王家のためだけでもない。

私が選んだ。

ユリウス殿下は、しばらく動かなかった。

そして、ゆっくり息を吐く。

「ありがとうございます」

その声は、少しだけ震えていた。

「本当に、ありがとうございます」

「まだ、正式な婚約を今すぐという意味ではありません」

「もちろんです」

「王宮会議、王妃陛下、私の家、法務局の職務。確認すべきことは山ほどあります」

「はい」

「ですが」

私は、まっすぐ彼を見る。

「私は、逃げません」

ユリウス殿下は、静かに微笑んだ。

「私もです」

その時、応接室の外から控えめな咳払いが聞こえた。

法務卿だろう。

どこまで聞こえていたのかは分からない。 いや、おそらくかなり聞こえていた。

私は少しだけ顔が熱くなる。

ユリウス殿下も、珍しく気まずそうに視線を逸らした。

扉の向こうから、法務卿の声がした。

「確認事項が多いなら、まず書面にまとめていただきたい」

「法務卿」

「王宮法務局では、重要事項は記録に残す」

私は思わず笑ってしまった。

ユリウス殿下も、堪えきれないように小さく笑う。

記録に残す。

それは私たちらしい始まりなのかもしれない。

かつて私は、婚約式をひとりで終わらせるために記録を使った。

今度は、誰かの隣に立つ未来を、自分の意思で始めるために記録を使う。

待つのではなく、選ぶために。

私は静かに頷いた。

「では、記録しましょう」

ユリウス殿下が、私に手を差し出す。

まだ正式な婚約ではない。 けれど、確かな約束の前に差し出された手。

私はその手を取った。

もう、誰かに置き去りにされるためではない。

自分で選んだ未来へ進むために。