軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

私は、私の名前で立ちます

王宮庭園でユリウス殿下と話した翌日、私は王宮法務局へ戻った。

半日休みを取り、庭園で話し、自分の気持ちを少しだけ言葉にした。

それだけで世界が劇的に変わるわけではない。

机の上には相変わらず書類が積まれている。 法務卿は相変わらず厳しい。 記録係は朝から走り回っている。

けれど、私の内側は少しだけ変わっていた。

もう、過去に引き戻されるだけではない。 未来を考えることが、怖いだけではなくなっている。

「エリス補佐官」

記録係が、急ぎ足でやってきた。

「王宮会議より通達です」

「王宮会議から?」

「はい。王太子妃候補者名簿の差し戻しが正式に決定しました」

私は受け取った通達に目を通す。

王太子妃候補者名簿に関する通達

先日提出された王太子ユリウス殿下婚姻候補者名簿について、候補者本人への意思確認を欠いた記載、および一部候補者に対する不適切な評価が認められたため、当該名簿を差し戻す。

今後、王族婚姻に関する候補者整理を行う場合は、本人の意思、名誉、職務上の立場を不当に損なわぬよう留意すること。

また、王宮法務局特別補佐官エリス・フォン・アシュベルト嬢について、本人の意思確認なく王太子妃候補として扱うことを禁ずる。

私は最後の一文で、少しだけ息を止めた。

本人の意思確認なく王太子妃候補として扱うことを禁ずる。

たった一文。

けれど、その一文は重かった。

私の名前が、誰かの都合で勝手に動かされないよう、正式に止められたのだ。

「……通りましたね」

記録係が嬉しそうに言う。

「はい」

私は頷いた。

「通りました」

法務卿が奥から出てきた。

「当然だ。あれだけ記録を積めば、通らん方がおかしい」

「法務卿」

「ただし、これで終わりではない」

「分かっています」

王太子妃候補の問題は、いったん差し戻された。 だが、ユリウス殿下が王太子である以上、いつかまた婚姻の話は出る。

その時、私の名前が出るかもしれない。 あるいは、別の誰かの名前が出るかもしれない。

けれど、その時は少なくとも、今回のように私の意思を無視して進めることはできない。

それだけでも、大きな一歩だった。

「それと、もう一つ」

法務卿が別の書類を差し出した。

「グランベル侯爵家から、正式な謝罪文が届いた」

「謝罪文ですか」

「あくまで表向きは、誤解を招く表現があったことへの謝罪だ。だが、書面として残る」

私は書面を受け取る。

王宮法務局ならびにエリス・フォン・アシュベルト嬢へ

このたび、当家より提出された参考資料および社交上の発言により、エリス・フォン・アシュベルト嬢ならびに王宮法務局の名誉と信頼に誤解を招く結果となったことを遺憾に思う。

今後、王族婚姻および貴族間契約に関する発言においては、事実確認を怠らず、個人の名誉を損なうことのないよう留意する。

グランベル侯爵家

「遺憾に思う、ですか」

私は読み終えて呟いた。

「謝罪としては弱いですね」

「貴族家の謝罪など、そんなものだ」

法務卿は肩をすくめた。

「だが、十分だ。彼らは自分たちの言葉が誤解を招いたと認めた。次に同じことをすれば、この書面が首を絞める」

「記録は残りますからね」

「そういうことだ」

私は書面を机に置いた。

クラリッサ嬢の持参金事件。 リリア嬢の噂。 グランベル侯爵家の印象操作。 王太子妃候補者名簿。

すべて、記録によって少しずつ形を変えてきた。

黙らされるはずだった人の声が、紙の上に残り、次の誰かを守るための根拠になる。

私は、この仕事が好きだと思った。

責任は重い。 疲れる。 傷つくこともある。

けれど、それでも。

私はここで、自分の名前で立っている。

午後、王宮法務局にクラリッサ嬢が訪ねてきた。

以前より顔色がよく、背筋も伸びている。

「エリス様」

「クラリッサ嬢。持参金返還の手続きは進んでいますか」

「はい。まだ全額ではありませんが、第一回の返還がありました」

「よかったです」

「それと、マーガレット様とセシリア様にも返還手続きが始まったそうです」

「そうですか」

私は心から安堵した。

完全な回復ではない。 失った時間は戻らない。

それでも、なかったことにはされなかった。

クラリッサ嬢は、少し照れたように笑った。

「私、婚約はもうこりごりだと思っていました」

「無理に次を考える必要はありません」

「はい。でも、いつかまた誰かを信じたいと思える日が来たら、その時は契約書をちゃんと読みます」

「それは大切です」

「そして、不安なら王宮法務局へ相談します」

その言葉に、私も笑った。

「お待ちしています」

クラリッサ嬢は、深く頭を下げた。

「エリス様がいてくださって、本当によかったです」

その言葉は、静かに胸へ届いた。

王太子妃候補として必要とされた時とは違う。

便利な補佐役として評価された時とも違う。

私が私としてしたことが、誰かの助けになった。

その実感は、私に新しい力をくれた。

夕方。

仕事を終えて廊下を歩いていると、ユリウス殿下が待っていた。

「お疲れさまです」

「殿下も」

「通達を読みました」

「はい。名簿は差し戻しになりました」

「あなたの意思確認なしに候補者扱いできないことも、明記されました」

「ありがとうございます。殿下が動いてくださったおかげです」

「あなたが記録を積み上げたからです」

ユリウス殿下は、いつものように私の功績を私へ返してくる。

私は少しだけ笑った。

「では、両方ということで」

「ええ。両方にしましょう」

廊下の窓から、夕陽が差し込んでいた。

王宮の白い壁が、淡い金色に染まっている。

「殿下」

「はい」

「私は、王宮法務局の仕事を続けたいです」

「はい」

「誰かの婚約者だからではなく、王太子妃候補だからでもなく、私自身の仕事として」

「もちろんです」

「もし、いつか殿下の隣に立つことを選んだとしても、この仕事を手放したくありません」

言ってから、自分でも驚いた。

もし、いつか。

それは、答えではない。

でも、未来を想像した言葉だった。

ユリウス殿下は、私を見つめていた。

その表情は、とても穏やかだった。

「私は、あなたに何かを捨てて隣に立ってほしいとは思いません」

「殿下」

「あなたが法務局の仕事を大切にしていることを知っています。ならば、そのあなたごと大切にしたい」

胸の奥が、また熱くなる。

私は視線を落としそうになって、でも落とさなかった。

「ずるいです」

「何がでしょう」

「そういうことを、まっすぐ言うところです」

「曲げた方がよいですか」

「いいえ」

私は首を横に振った。

「そのままでいてください」

ユリウス殿下は、少しだけ目を見開き、それから柔らかく微笑んだ。

「努力します」

「完了でお願いします」

私がそう返すと、殿下は小さく笑った。

その笑い声を聞きながら、私は思った。

まだ答えは出していない。

けれど、もう答えから逃げてはいない。

私は私の名前で立つ。 私の仕事を持ち、私の意思で選ぶ。

そしていつか、誰かの隣に立つなら。

それは、待った末ではなく。

選んだ先でありたい。