軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

私は、私の意思であなたの隣に立ちます

王宮の小さな会議室に、静かな緊張が満ちていた。

出席者は多くない。

国王陛下。 王妃陛下。 王太子ユリウス殿下。 アシュベルト公爵である父。 法務卿。 そして私。

豪奢な謁見の間ではなく、会議室であることに、私は少し安心していた。

ここは飾る場所ではない。 確認する場所だ。

そして、今日確認されるのは、私とユリウス殿下の未来だった。

机の上には、一通の申請書が置かれている。

王太子ユリウス殿下およびエリス・フォン・アシュベルト嬢に関する婚約協議開始申請

一、本申請は、王太子ユリウス殿下本人およびエリス・フォン・アシュベルト嬢本人の意思に基づくものである。

二、本申請は、派閥融和、名誉回復、過去の婚約解消に関する補填を目的としない。

三、エリス・フォン・アシュベルト嬢が王宮法務局特別補佐官としての職務を継続する意向を有することを確認する。

四、今後の協議においては、本人の意思、職務、名誉を尊重し、政治的都合のみによって進行しないものとする。

五、本申請は正式婚約ではなく、婚約協議開始の確認である。

私はその文面を、自分で何度も確認した。

本人の意思に基づく。

その一文が、何より大切だった。

かつて私の婚約は、家と王家の都合で進んだ。 もちろん、そこに私の了承がなかったわけではない。 だが、あの頃の私は、了承することが自分の役目だと思っていた。

今回は違う。

私は選んだ。

その事実が、最初に書かれている。

国王陛下が、静かに口を開いた。

「エリス・フォン・アシュベルト嬢」

「はい」

「この申請は、あなた自身の意思で間違いないか」

「はい」

私は顔を上げた。

「私自身の意思です」

王妃陛下が、私を見つめる。

その瞳には、以前とは違う柔らかさがあった。

「王太子妃となる道は、決して楽なものではありません」

「存じております」

「あなたは一度、その道で深く傷つきました」

「はい」

「それでも、もう一度その可能性に向き合うのですか」

私は、ゆっくり息を吸った。

怖くないと言えば、嘘になる。

王太子妃。 王家。 社交界。 責務。

その言葉たちは、今も私の中で重さを持っている。

けれど、私はもう、その重さに潰されるだけの私ではない。

「私は、王太子妃という役目だけを選ぶのではありません」

私は言った。

「ユリウス殿下の隣に立つことを選びます。そして、その道の中で私にできることを確認し、必要な責任を引き受けたいと考えています」

王妃陛下は、静かに頷いた。

「王宮法務局の仕事は?」

「続けたいです」

私は迷わず答えた。

「婚約協議が進んだとしても、私は王宮法務局での職務を手放したくありません。貴族間契約、婚約、持参金、名誉侵害。今回の一連の件で、声を上げられない方が多くいることを知りました」

私は机上の申請書へ視線を落とす。

「私は、その声を記録する仕事を続けたいです」

法務卿が、腕を組んだまま小さく頷いた。

「法務局としては、手放す気はありません」

父が少しだけ苦笑した。

「娘を王宮へ取られたと思っていたが、今度は法務局にも取られるのか」

「お父様」

「冗談だ」

父は私を見て、穏やかに言った。

「エリス。お前が自分で選んだのなら、私は支持する」

胸が熱くなった。

五年前の婚約の時も、父は私を支えてくれた。 そして婚約式の日、私が終わらせると決めた時も、父は問うてくれた。

後悔はないか、と。

今なら、また答えられる。

後悔はしないように、自分で選びます。

「ありがとうございます、お父様」

国王陛下は、次にユリウス殿下を見た。

「ユリウス」

「はい」

「あなたの意思は変わらないか」

「変わりません」

ユリウス殿下の声は、はっきりしていた。

「私は、エリス・フォン・アシュベルト嬢を尊敬しています。彼女の仕事も、彼女自身の意思も、共に大切にしたいと考えています」

王妃陛下が静かに尋ねる。

「王太子妃が法務局で職務を続けることに、反発は出るでしょう」

「出るでしょう」

「それでも?」

「必要な制度を整えます」

ユリウス殿下は迷わなかった。

「王太子妃が何もかもを捨てて王宮に入ることだけが、国のためとは限りません。彼女が積み上げた記録と仕事は、王国に必要です」

私は、思わず彼を見る。

彼は私を見返し、少しだけ微笑んだ。

「それに、彼女から仕事を奪えば、私は一生恨まれる気がします」

「殿下」

「違いますか?」

「……否定はしません」

会議室に、小さな笑いが生まれた。

張り詰めていた空気が、少しだけほどける。

王妃陛下も、かすかに微笑んだ。

「ならば、協議を始めましょう」

国王陛下がそう告げた。

「ただし、正式婚約までには段階を踏む。社交界への説明、法務局での職務整理、王太子妃としての権限と職務の調整。すべて丁寧に進める」

「承知しております」

ユリウス殿下と私は、同時に答えた。

その声が重なったことに気づき、私は少しだけ笑ってしまった。

会議の最後に、私は申請書へ署名した。

エリス・フォン・アシュベルト。

かつて婚約無効確認の書類に書いた名前。

その時、その名前は終わりを選んだ。

今、同じ名前で始まりを選ぶ。

書き終えた後、ユリウス殿下も署名した。

ユリウス・フォン・アルヴァルト。

二つの名前が並ぶ。

それは、まだ正式な婚約ではない。

けれど、私たち自身の意思で始めた協議の記録だった。

会議が終わった後、私は王宮の回廊をユリウス殿下と歩いた。

窓の外には、青い空が広がっている。 遠くで鐘が鳴っていた。

神殿の鐘とは違う。 けれど、私はあの日のことを思い出した。

婚約式に、婚約者はいなかった。 私はひとりで婚約を終わらせた。

あの日、私は失ったのだと思っていた。 未来も、役目も、居場所も。

けれど本当は、取り戻していたのだ。

自分で選ぶ権利を。

「エリス嬢」

ユリウス殿下が、隣で声をかけた。

「はい」

「今、何を考えていましたか」

「鐘のことを」

「鐘?」

「以前、神殿で鐘を聞きました。あの時は、終わりの音だと思っていました」

「今は?」

私は窓の外を見る。

王都の空は、明るかった。

「始まりの音に聞こえます」

ユリウス殿下は、少しだけ目を細めた。

「それは、よかった」

「殿下」

「はい」

「私は、まだ完璧ではありません」

「知っています」

「怖くなることもあると思います」

「その時は、言ってください」

「仕事を優先することもあります」

「食事と睡眠を忘れない範囲なら」

「殿下」

「重要です」

私は笑ってしまった。

こんなふうに笑える未来を、少し前の私は知らなかった。

「私も、殿下に言います」

「何をですか」

「無理をなさらないでください、と」

ユリウス殿下が、少し驚いた顔をした。

「私に?」

「はい。殿下も、一人で立っているわけではないのでしょう」

以前、馬車の中で彼が言った言葉だ。

ユリウス殿下は、静かに笑った。

「覚えていたのですね」

「記録は得意です」

「では、私のことも記録されてしまいますね」

「必要があれば」

「慎重に生きます」

「そうしてください」

私たちは並んで歩いた。

前でもなく、後ろでもなく。

隣に。

その距離が、今の私にはとても心地よかった。

しばらく歩いた後、ユリウス殿下が立ち止まった。

「エリス嬢」

「はい」

「改めて、言わせてください」

彼は、私に手を差し出した。

「私の隣に立つ未来を、共に考えてくださいますか」

その手を見つめる。

かつて差し出された手は、私に役目を求めるものだった。 待つことを求めるものだった。 我慢することを当然にするものだった。

でも、今差し出された手は違う。

私の意思を待っている手だ。

だから私は、自分で選んだ。

「はい」

私はその手を取った。

「私は、私の意思であなたの隣に立ちます」

ユリウス殿下の手が、そっと私の手を包む。

強すぎず、弱すぎず。

支配ではなく、約束のように。

その日、私は王太子妃になったわけではない。

婚約が正式に成立したわけでもない。

けれど、私の中では確かに一つの物語が終わり、新しい物語が始まった。

待つだけだった令嬢は、もういない。

誰かに選ばれるのを待つのではなく。 誰かの都合を待つのでもなく。 誰かの不在を埋めるのでもなく。

私は、私の名前で立つ。

私の仕事を持ち、私の言葉を持ち、私の意思で選ぶ。

あの日、婚約式をひとりで終わらせたことを、もう悲しいだけの記録にはしない。

あれは終わりだった。

そして同時に、始まりだった。

王宮の鐘が、もう一度鳴った。

私はユリウス殿下の隣で、その音を聞いた。

今度は待つためではない。

選んだ未来へ歩き出すために。