軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

40 “Miss”

「屋敷の中を歩き回られると落ち着かないだろ。ずっとピアノ室でピアノを弾いてようか? 音が途切れない限り、僕がそこから動いていないってわかるよ」

朝食の席でニコラスはそう提案し、バーナードも「それは良い案だ」と頷いた。

キャロライナが、うずうずと期待している様子でニコラスとバーナードを見る。

「笛で聞いた曲が本当に素晴らしくて……! このご時世で長らく音楽会というのもありませんでしたし、ピアノの先生がいなくなってから、ひとの演奏を聞く機会がなかったんです。ノエルにもきちんと教えてあげられているか自信がなくて。ニコラスさんのピアノを聞かせていただけるの、すごく楽しみです!」

弾んだ声から、楽しい様子が伝わるのだろう。ノエルもまたそわそわと落ち着かない様子で、ニコラスをきらきらとした上目遣いで見ている。

視線に気づいたニコラスは、にこりと感じ良く笑いかけていた。

(ニコラスさんの、あんなにすごい笛の音色を聞いたら、目の色が変わるよね。ノエルはキャロライナさんのピアノは聞いたことがあっても、それ以外は音楽には縁がなく育ってきて……本物の「音楽」に、今日初めて触れたんだもの)

ラモーナが生きていれば、そんなことはなかっただろう。

姉が死んでから、チェリーなりにノエルを必死に育ててきたつもりだった。だが、こういった時に「自分にはもっと出来たことがあったのではないか」と、背筋がひやりとするのだ。

いまはヘンリエットやキャロライナがノエルの当主教育を買って出てくれていて、文字の読み書きから計算まで教えてくれている。チェリーには満足に教えられないことなので、とてもありがたい。

その一方で、チェリーは「自分にも出来たかもしれないのにやらなかったこと」について、戦時下だったからという言い訳もできないほど、はっきり身に覚えがある。

姉の代わりに、姉のようにノエルに歌を歌って聞かせること。

迷い、悩み、いつも先延ばしにきた。

理由は、キャロライナが「きちんと教えてあげられているか自信がなくて」と口にしていたのと似ている。

チェリーには、姉のように歌える自信がなかったから。

ノエルに間違えた「音楽」を教えたくなかったから。

そうして避け続けてきた「音楽」に、今日チェリー自身が久しぶりに出会った。

今も、耳の奥で胸の中でニコラスの笛の音が響き渡っている。

ノエルに優しい笑みを向けていたニコラスが、ふと顔を上げてチェリーへ視線を向けてきた。

金色がかった琥珀色の瞳が、チェリーが意識せぬまま彼へ向けていた視線を絡み取る。かすかに、ニコラスの唇が動いた。

声もなく何かを言った。

その瞬間、口を挟まずに静かにお茶を飲んでいたヘンリエットが立ち上がった。ちらりとバーナードに目を向け「今日は」と予定を尋ねる。

「こちらの客人を乗せてきた馬の世話や、家でできる仕事をいくつか」

速やかにバーナードが答え、ヘンリエットは「わかりました」と頷き、食堂を出て行った。

ニコラスの視線に呪縛されたように動きを止めていたチェリーは、慌ててお茶を飲む。そして、二人の会話を頭の中でさらって「あら?」と軽く目を瞠った。

(バーナードさんは、今日は外出するはず。予定が変わった? いつの間に?)

不思議に思いつつも、バーナードがニコラスとともに席を立ったので、チェリーもつられて立ち上がった。

バーナードはニコラスに腕を貸して支えながら「松葉杖を作るよ。それまでは、何か杖になるものでもあったほうがいいな」と話し、食堂に残った面々を見回した。

「ピアノ室に案内してくる。キャリーとノエルは、今日は他の勉強をしていなさい。母上様にみてもらって」

でも、とキャロライナが口答えをしかけたが、バーナードは「ピアノの先生をお願いすると言ったけど、細かい給金の取り決めもまだなんだ。勝手なことはしないように」と落ち着いた声で答えた。

二人が話す間、チェリーは待っていた。バーナードは、目を合わせて「少し話がある。すぐに戻る」と素早く言うと、ニコラスと食堂を出て行った。

パタン、とドアが閉まったところで、キャロライナがふーっと息を吐き出す。

「なんだか緊張しちゃった。お兄様、ピリピリしていたわね。私とノエルがお客様のところに入り浸りになるのを警戒しているのかしら。あ、チェリーさん、片付けは私がします!」

お茶のカップを集め始めていたチェリーの元へと、慌てて駆け寄ってくる。「ありがとう」とお礼を口にしつつ、チェリーはキャロライナへ尋ねた。

「ぴりぴりしているって、キャロライナさんも思った?」

「ええ! お母様にお勉強見てもらいなさいってわざわざ言うことなんて、そうそうないもの。ノエル、頑張ってお勉強早く終えて、先生のピアノ聞きに行こうね!」

「うん!」

やる気を出している二人を見ながら、チェリーは胸がざわつくような違和感を覚える。

バーナードがキャロライナとノエルに、ヘンリエットに勉強を見てもらいなさいと言っているのは「大人の側を離れるな」という意味だ。

その警告に気づいていないらしいキャロライナは、無邪気に「早くお片付けしよ!」とノエルに声をかけていた。

(バーナードさんは、見ず知らずの男の人がこの家にいることをすごく警戒している……。私も少し怖い。「詐欺師は詐欺師の顔をしていない」と言うのよね。「いい人に見えた」なんて、あてにならないのだから。……それにあの目)

金色がかった目、何か言いかけた唇。

脳裏に思い描いた瞬間、ぞくとりした寒気を感じて、チェリーは思わず右手で左腕を抱くようにした。

慌てて首を振って、その感覚を振り払う。

「キャロライナさん、私は少し済ませておきたいことがあって。朝食の後片付けをノエルと二人にお願いしても大丈夫? マリアさんもいるはずだから」

「わかったわ!」

嫌そうな顔ひとつせず、キャロライナとノエルはぱたぱたと部屋を出て行った。チェリーもその後から、廊下へと足を踏み出す。

(話があるって、バーナードさん言ってた。ニコラスさんのことよね?)

普段なら、手が空けばすぐに畑を見に行くのだが、どうにもそんな気になれない。

どこでバーナードを待とうと考えてチェリーは廊下をうろうろと歩く。

いくらもしないうちに、張り詰めた神経に触れる音があった。

一階のピアノ室から、澄んだ打鍵の音が響き溢れ出す。

ニコラスの指が、音楽を奏で始めたのだ。

* * *

「今日の動きが変わったわけではないんだ。予定通り、行政府の医療担当局に顔を出しに行く。『戦地での経験を生かして軍事顧問に』という話は断ったけど『医学部の出身として、現場で生かした経験から医療技官に』という話は受けるつもりだから、その打ち合わせに。日中、俺が屋敷を空けることをニコラスの前で大っぴらに言うわけにはいかないから、母上様は敢えてあの場で俺の予定を聞いてきたんだろう」

出かける準備を終えたバーナードは、チェリーと共に玄関を出て早口でそう説明してくれた。

「では、ヘンリエット様はバーナードさんが実際には屋敷にいないことを把握しているということですか?」

あの確認にはそんな意味が、とチェリーは目を見開いた。

「うん。母上様のあの口ぶりからすると、通じていると思う。チェリーさんには申し訳ないけどロビンの世話を頼めるかな。なるべく早く出て、早く戻るようにしたい」

「わかりました! お任せください!」

必要最小限の会話を交わし、チェリーは笑顔でバーナードを送り出そうとする。しかし、急いていたはずのバーナードは、不意にその場で足が凍りついたように動きを止めてしまっていた。

「何か忘れ物でも?」

チェリーが「取ってきましょうか」と屋敷の中へ引き返そうとすると、バーナードはためらいながら、とても言いにくそうに切り出してきた。

「君も音楽を習いたいと思っているんじゃないかと。笛だけではなくどんな楽器でも扱えると言っていたが、このピアノを聞く限り彼の腕は確かだ」

「わ、私ですか!? いえいえ、まさかそんな。お気遣いなく! ピアノの先生が必要なのはキャロライナさんとノエルです! 私は毎日の畑仕事で手一杯で」

「それはどうにか都合をつけて……。いや、この話は帰って来てからにしよう。君も、必要以上にニコラスには近づかないように。まだどういう人間かわからない」

当然の忠告をして、バーナードは軽くチェリーを抱き寄せた。額に口づけてから素早く体を離して「いってきます」と背を向けて駆け出す。

唇の触れた額や前髪に指先で触れてから、チェリーは「よし!」と自分に気合を入れるように声を上げた。

耳を澄ませば、ピアノの音は聞こえている。

チェリーは早速、ロビンの世話のために納屋に向かった。

「あなたのご主人様は、どんな方なの?」

世話をしながら世間話として尋ねると、それまで人懐こい様子だったロビンは、まるで「あの男は主人ではない」と言わんばかりの態度で急にチェリーに対して冷たくなった。

機嫌を損ねた気配を感じて、チェリーはロビンに丁寧に謝り、世話を終えた。

それから畑の様子を見に行った。

その間、ピアノはずっと鳴り響いていた。

「持ち運びできる笛と違って、ピアノはピアノ室から動いていないのはわかるから……家の中を歩き回ったりしていないってわかって安心と言えば安心だけど……」

畑仕事を終え、洗濯を終えたマリアと言葉を交わしてお茶をいれる。キャロライナたちが下りて来る様子がないので、ヘンリエットの部屋までお茶を運んだ。

編み物をするヘンリエットの横で、キャロライナとノエルは本を読んだり文字の書き取りをしたりしているようだった。

ヘンリエットの許しが出ないらしく「勉強はまだまだ終わりそうにないの」と珍しくキャロライナが不満げに耳打ちをしてくる。

「この部屋にいても少しだけ音が聞こえてくるの。笛もお上手でしたけれど、ピアノも素敵。窓の外から聞くだけならお兄様も怒らないかしら?」

聞きつけたヘンリエットが「おしゃべりしていると、いつまでも終わりませんよ」と言う。

ノエルも必死に勉強していた。ピアノを聞きに行きたいというのが伝わってきた。

部屋を後にし、チェリーは昼食の準備をする。

(邪魔をしてはいけないと思うけど……。ニコラスさん、ずっと休んでないわ)

思い切ってピアノ室をノックし「昼食です」と声をかけた。

ドアの向こうでは、ニコラスが一瞬だけ手を止めたようだ。「後でいい」と答えがある。同時に、そこに音楽の聞き手がいるのを意識したのか、チェリーが怯むほどに難しそうな曲を弾き始めた。

(部屋から出て来られて、バーナードさんが屋敷にいないことに気づかれたら何かしらごまかさなければと思っていたから、これで良かったのかもしれないけど……)

チェリーは逃げるようにその場から立ち去り、家族で昼食を済ませた。

午後は繕いものなどをして過ごしていた。だが、時間が進むほどに胃が痛くなるほどの緊張を感じてきた。

ピアノはずっと、聞こえている。

いつ休むつもりなのか。

チェリーはいつまでも「動かないでくれて安心」とも言っていられなくなり、ついにピアノ室へと突入を試みた。

音が溢れ出す。

「あの、ニコラスさん! さすがにそろそろお休みした方が良いかと思います!」

負けじと、チェリーは声を張った。思った以上に喉が開き、大きな声が出る。

ニコラスは指を止めぬまま顔だけ向けてきて、口元に笑みを浮かべた。

「まだまだ大丈夫」

音は綺麗だ。澄んでいる。

(指がもつれたりはしないのかしら)

ピアノを弾いたことがないチェリーでも、ニコラスが指を酷使しているであろうことは容易に想像がついた。

「指がぼろぼろになってしまいます。少し休んで、お水を飲んだり何か食べたりしてください」

言いながら、チェリーはいよいよ顔から血の気が引いていくのを感じた。

(あれ……? この人本当に朝から昼過ぎの今まで飲まず食わずなのでは?)

ニコラスはけろっとした様子で、ポロンポロンと鍵盤を叩き続けていた。

「どこまでできるか、やってみたい気分なんだよね」

「あの、足の怪我にも響くのではないですか。指と足は関係していないってニコラスさんは言いそうですけど、体を休ませないと怪我は治らないと思うんです」

言い終えてから、チェリーは失敗を悟って唇を噛みしめる。

(「と、バーナードさんが言っていましたので声をかけにきました」と、あくまで当主が家にいるふりをすれば良かったですね……! 私には、ヘンリエット様のようにさりげなく誤解させる器用さが無いです!)

ひそかに後悔を噛み締めているチェリーをよそに、ニコラスはピアノを弾く手を止めぬままどこでもない場所を見るような目になった。

「以前、僕は……失敗をしているんだ。そう、あれは失敗だ。喉から血が噴き出しても、笛を吹き止むことがあってはならなかった。僕はその手前でやめてしまって、その結果……だから、もしここでやめなければ……やめなくても過去は変わらない、わかっている。それでも、指が折れても弾き続けたら、天使はこの音に気づくだろうか。試さずにはいられない」

「どんな天使がそんな残酷なことを望むんですか」

彼の思い描く光景があまりにも殺伐としたものに感じられて、チェリーは考える前に言い返してしまっていた。

くすっとニコラスは笑みを漏らしてチェリーの顔を見た。

「天使はすべて恐ろしい。それでも僕は求めずにはいられない。取るに足らない人間の音楽に、天使が振り返らざるを得なくなる瞬間を、 君(・) も(・) 見たいと思わないか?」

金色がかった瞳が強い光を放つ。

(怖い)

彼は「音楽」の高みを知っている。

歌うことで聴衆を魅了した「歌姫」ラモーナと同じように、チェリーには見えないものを見ている目だ。

奏でる音色で絶望も希望も描き出す。

天使には届かない、無力な人間の身で。

それでも高らかに奏で、歌い続ける。

「私にはわかりません……。そういうのは、きっと選ばれし者、芸術家のような方の特有の感覚であって」

ニコラスの唇が、言葉を呟いた。食堂のときとは違う動きのように見えたが、このときチェリーにはその低い声がかろうじて聞き取れた。「若いお嬢さん」キャロライナのような未婚女性への呼びかけだった。

バーナードが、はっきりと「妻だ」と紹介したはずなのにとチェリーは眉をひそめてしまう。

早めに訂正した方が良いと思い「違います」と口にした。

「私は当主の妻です。もう『若いお嬢さん』ではありません」

それまで、ポロンポロンと絶え間なく続いていた打鍵の音が、不意に止んだ。

ついに手を止めたニコラスは「おや?」というように口の端を釣り上げて笑い、チェリーの顔を見ておかしそうに言った。

「僕はそうは思わない。だって君は女の顔をしていない。『若いお嬢さん』そのものだ」

うっとチェリーは言葉を詰まらせる。

(「女の顔をしていない」って。女性に見えないってこと? た、たしかに私は畑仕事が第一で、貴族の若奥様には見えないと思いますが……!)

くよくよしかけたそのとき、ふっと影が落ちてきた。

気がついたときには、ニコラスは椅子から立ち上がっていた。高い位置からチェリーを見下ろして、目を細めた笑顔のまま言った。

「形式上の妻とか、何か事情があるのかな。彼の本当の妻ではないなら、僕にもまだ可能性はあるね。僕の元へおいで」

手が伸びてくる。「何を言っているんですか」とはねのけようとしたが、チェリーは気づいてしまった。

ニコラスが指摘した「女の顔をしていない」というのは、おそらく極めてセンシティブなバーナードとチェリーの距離感のことだ。第一印象が、兄妹にしか見えなかったという。

そして、彼が言う「可能性」というのは……。

「わ、私は形式上の妻ではなく、バーナードさんの妻です!」

にこっと、場違いなほど明るくニコラスが笑う。

(私の話を、まったく聞いていない顔!)

このままここにいたらまずいと気づいてチェリーはドアに向かって走り、勢いよく廊下に飛び出した。

バタン、とドアを閉めてから、彼が続けて後から飛び出して来るのではないかとドアを見つめる。もし足を引きずってでも出て来るのであれば、逃げている場合ではない。バーナードが不在の今、家族を守るのはチェリーの役目だ。

心臓がばくばくと鳴っていて、じわっと嫌な汗が滲んできた。

大きく目を見開いたチェリーの睨みつけるドアの向こうから、ピアノの音が響き始めた。

天使を振り向かせようと、ひたむきに奏でられる音。

「……あんなによくわからなくて……怖いひとなのに」

音色はあまりにも美しい。

どうしようもなく胸をかき乱す曲に耳だけではなく心も奪われそうになりながら、チェリーは肩で大きく息を吐き出した。

バーナードの面影を脳裏に描き「早く帰ってきてください」と願う。切実に。

* * *

黒鍵、白鍵。

指が自在に走り、曲を紡ぎ出す。

ピアノを弾きながら、ニコラスはひとり呟いた。

「『声』を聞けば、君が『誰』か僕にはわかるんだよ。秘密になんかできるはずがない」

ゆっくりと部屋を見回す。

首を巡らせる動きを止めて、もう一言。

「この屋敷のどこに誰がいるのかもわかる。音楽家の耳を甘く見ないで欲しいんだよな」

その視線は、開け放たれた窓の外へと向けられていた。