軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

39 乾いた土地に

「退役軍人なんて、ろくなものではない。俺がそれを言うのは、イメージや思い込みではなく経験談だ」

一階の空き部屋にニコラスを案内し、体の拭き洗いのために浴用布を渡しつつバーナードは苦い表情でそう言った。

「僕もそう思うよ」

椅子に腰掛けたニコラスは笑顔で応えて、受け取った布を隣の椅子に置いた洗面器の水に浸して、石鹸を使う。「シャツも洗濯したほうがいいだろう」と、バーナードはニコラスの背後に立ってシャツを剥ぎ取った。

裸の背に向けられたバーナードの翠眼が、すっと細められる。

戦地で兵士の治療を続けていたバーナードにとって、ニコラスの背に残る無数の傷痕はよく見慣れた形をしていた。かなり大きなものもあり、この少し浮世離れした「音楽家」が戦地からの帰りであるのは嘘や方便ではないことを知った。

先ほど吹いていた笛は、組み立て式で小さく分かれて箱に収まっている。ろくな持ち物がない彼が胸元に大切に抱えていたもので、今は寝具を敷いていないマットレスだけのベッドの上に置かれていた。箱にも傷があった。

「任地を聞いても?」

楽しい話題になるわけがないと知っていながら、バーナードはニコラスへ尋ねた。

戦地では情報に飢えていたこともあり、入ってきた戦況に関しては聞き覚えるようにしていた。地名を聞けば、聞いた範囲内ではあるものの戦闘の推移も思い出せるのだ。

体を拭きながら、ニコラスはとある地名を口にした。

(ひどい消耗戦のあったところだな)

そのバーナードの心を読んだかのように、ニコラスは飄々とした口ぶりで話しだした。

「僕は音楽が好きだ。音楽を愛している。美しい音色には力があると信じているから、戦地にも笛を持って行った。弦楽器や鍵盤楽器よりも持ち運びやすかったからだ」

「どんな楽器でも扱えると言っていたな」

バーナードの出会った兵士の中に、楽器を持っている者はいなかった。音楽家はいたかもしれないが、どんな人生を送ってそこまで来たのかも知らぬまま見送った者も、何人もいる。

「音楽は荒んだ心を和ませると、僕は素直に思っていたんだ。『戦場ではみんな大変な気持ちになるだろうから、絶対に出番があるはずだ』ってね。実際には、音の出るものの扱いなんて難しいよね、なかなかそんな日はこなかった」

彼の吹いた笛の音量を思い浮かべて、バーナードは頷く。肺活量がかなりありそうだから、音は遠くまで響きそうだった。

「こちらの居場所を知らせるわけにはいかない場面も多いから、仕方ない」

肩越しに振り返り、ニコラスはにこりと笑う。邪気のない表情。浮世離れしているという印象を受けたその顔には戦地から帰った者らしい影がなかった。

それが、無性に胸騒ぎを誘った。

ニコラスは前に向き直ると、布を洗面器に浸し、固く絞って腕を拭きながら何気ない口調のまま話しを続けた。

「冬の寒い日のことだ。戦地で『聖人の日』を迎えたそのときばかりは、一時休戦なのではないかと誰もが考えているようだった。敵軍とこちらの距離が迫っていて、今にも撃ち合いがはじまるかもしれない場面だ。その相手がどこにいるのかも、互いに知っていた。だからもう、位置を特定されるのを怖がる必要はないんじゃないかと思って、僕は笛を吹いたんだ」

バーナードは息を殺して、抑揚無く語られるその声を聞く。

「冷たく凪いだ空気の中で、時々吹く乾いた風が笛の音を彼らに届けるのも知っていた。それでも僕は笛を吹いた。誰も止めなかった。そのうちに、敵軍がいると思しき場所から歌声が聞こえ始めた。異国の言葉だったけど『聖人の日』に歌う曲のことは当然彼らも知っているからね。僕の吹くメロディに合わせて、彼らは歌っていた。そのとき強く感じたよ。言葉は違ったとしても、音楽を愛する心は同じなのだと。僕はその日、両軍の真ん中で笛を吹き続けながら、戦争の終わりを思った」

変えられない過去の出来事としてバーナードはその地名を記憶していた。

両軍が激突し、ともに壊滅したのは「聖人の日」の翌日という覚えやすい日付であった。

生き残った人数は、死者の数と比べるとぞっとするほど少なかった。

死地となる荒野の只中で、必ず来るであろう終わりの日に向けてひとり笛を吹くニコラスの姿を思い浮かべると、胸が潰れそうなほど痛んだ。

そのときニコラスが描いた未来は、彼の音楽を耳にした人々が笑顔になり、それぞれの国の言葉でその曲を歌う姿なのかもしれない。

体を拭いた布をニコラスが洗面器で洗うたび、水は濁っていく。

バーナードは無言のまま近づくと、洗面器を持ち上げた。

「水を替える」

「ありがとう」

窓の外へ捨ててから、用意してあった水差しで水を注いで元の場所へ置いた。

ニコラスは悠然とした様子で首筋から胸を拭き、ふと遠くへと視線を投げかけるようにして呟いた。

「この世界にはもう美しいものなんて何もない。僕は美しいものを信じられる人間には戻れない。どれほど美しいものを目の当たりにしても、楽器を奏でるたびに思い出す光景がすべてを塗り潰す。もうお前はそちら側にはいけないのだと。僕もそう思う」

彼に向ける適切な言葉を、バーナードは知らない。怪我には治療法があり完治までの道筋は見えるが、心は一筋縄ではない。

すべての人間に効果のある魔法の言葉なんて存在しないのだ。

だから、効果を期待しない、その意味においては無意味な会話をする。戦地に赴いた者同士の匙加減で。

「もしあなたがその場で死んでいたら、俺はあの戦争にそんな日があったことも知らないままだっただろうな」

「そんな日?」

「音楽の日。俺のいた場所にはなかった。笛を持っている兵士と同じ部隊になったことはない」

バーナードがそう言うと、何が面白かったのかニコラスはくすっと笑った。

「たしかに知らない顔だ。もっとも、知っている顔はすでにほとんど全員が死者だ」

「祖国と名誉のために」

月並みな決まり文句をバーナードが口にすると、ニコラスは笑いをほんのりと苦いものに変えて続けた。

「名誉はまだ僕の友人としてすぐ側にいてくれている、かろうじて。ただし一度も話したことがない。これでは僕の人生に寄り添ってくれているとは言えないよ。『お前のためにすべてを失ったんだ、せめて僕にあたたかい食事でも作ってくれないか』と文句を言いたい」

「言えばいい」

「返事がないんだ。もしかしてもう死んでいるのかもしれない」

「名誉」を人間にたとえたニコラスは、そう言って肩をすくめた。

バーナードは小さく吐息する。

「医学の心得があったことで、戦地では最終的に死亡診断書のような書類作成もしていた。俺は死の判定人としては、これで結構数をこなしている。あなたの『名誉』についても一応診断はくだせそうだ。どうやらまだ生きている。食事を作る気はないらしいが」

おっと、とわざとらしくニコラスは目を見開いた。

「『そんな役立たずで怠け者の友人はいらないので、どこかへ行ってくれ』と伝えてくれないか。いまの僕には『名誉』より『食事』が必要なんだ、切実に」

バーナードは真面目くさった顔で頷いた。

「わかった。伝えておく。あいつには俺も言いたいことがあったんだ。『何もしないくせに友人面でそこにいられても迷惑だ、お前のために俺は何人の友人を見送ったと思う?』と」

「違いない。そのうちあいつの化けの皮を剥いでやる。『名誉なるものは無能で怠惰だ。友人として盲信するのは考えものだ、目を覚ませ』と、世間に言いふらしてやるとも」

気の向くままに言い合ったあとで、バーナードは「しかしだな」と付け加えた。

「あいつを信じて死んでいった者の墓の前で言うのはやめておこう。『名誉』はいまも君とともにあると言うのが最大の慰めとなる場面もある」

たとえ肉体は戦地で朽ち果て、墓の中にそのひとはいなくとも。

「『名誉』め。美味しいところばかりもっていきやがる。何様だ」

憎まれ口を叩きつつも、ニコラスはそこで「名誉」の悪口をやめることにしたようであった。

一緒になって放言したバーナードは、軽く咳払いをしてからニコラスに手を差し伸べる。

不思議そうに見上げてきたニコラスに対し、慎重に言葉を選んで告げた。

「積年の友人である『名誉』に代わることはできないが、食事の用意くらいは俺でもなんとかできそうだ。朝食にはちょうど良い時間だよ」

ゆっくりと笑みを広げ、ニコラスはバーナードの手を取り固く握手を交わす。

(……しかし飄々としている。心の在り処がよくわからない)

手を握り合っても、温度感の読めない相手であった。

美しいものを信じられなくなり、「名誉」にも冷たくされた彼は、今になってなぜ「音楽」を取り戻したのだろう。

聞く者を唖然とさせるほどの力量で楽器を奏でる力は、どこからきたのか。

「子どもに楽器を教えるというのは面白そうだ。足が治るまでという期限付きだけど、仕事はするよ」

顔をほころばせるニコラスに対し、バーナードは湧き上がってきた疑問を投げかける。

「それで結局のところ、どこへ行こうとしていたんだ? つまり足を痛めなければ」

その質問に対して、ニコラスは金色がかった瞳を輝かせて笑顔で応えた。

「あなたの部隊に笛吹きはいなかったかもしれないが、実は僕以外にも戦場に音楽を持ち込んだひとがいると聞いて、興味が湧いて探している。そのひとに会ったら自分の人生に何か意味を取り戻せそうな気がして少し元気が出たんだ」

強い予感にとらわれて口をつぐんだバーナードの様子に気づかぬように、ニコラスは話を続けた。

「歌姫を探す旅の途中だったんだ」