軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

38 笛の音が導く

朝は一番早くに起きて、働き始めなければならない。

誰に言われたわけでもないのに、チェリーはいつの頃からかずっとそう思い込んでいた。

だからその日も、本当は仮眠程度ですぐに起きるつもりだったのだ。

それだけに、しっかりと夜が明けた時間に目を覚ましたとき、はじめは何が起きたのか理解が追いつかなかった。

いつもより、部屋の中が明るい。

「お日様が……! 寝過ごしちゃった!」

慌ててベッドから飛び起きて窓に走り寄り、開いてみる。

さあっと光が差し込む瞬間、眩しさに目を細めたチェリーの前を、天使が過ぎったような感覚があった。

幻を見たのかと周囲を見回す。

耳に届くのは梢のさやめき、鳥の声。

視界を彩るのはきらきらとした朝の日差し。

いつもと変わらぬ光景――そこに紛れ込む「天使」の輪郭を、不意に耳がとらえた。

青い空へと高く突き抜けて降り注ぐ音の連なりが、耳を通して胸の中いっぱいに鳴り響く。

「ピアノ……じゃない。笛かな……? 誰が吹いているんだろう」

屋敷のピアノを弾くキャロライナの姿や、並んで座って教わりながら楽しそうに弾くノエルの姿が頭に浮かぶものの、すぐに違うと思い直す。

これは手習い程度の腕前ではなく、かなりの上級者が奏でる音だ。

(ラモーナ姉さまのように、人前で披露することに慣れた奏者だと思う。迷いがなくて、自信があって、周囲の期待に応える自分を信じている音)

人間だからうまくいかないときもある、たとえ音を外してもそういった言い訳をしない。

むしろ絶対に失敗せず、常に狙った音を奏でる実力の持ち主だ。

聞いているだけで、胸騒ぎがする。

もっと聞きたい。

できれば遮蔽物のないところで、この音を頭から浴びたい。

そわそわとしながらチェリーは顔を洗い、髪を束ねて身支度を整えて部屋を後にする。

廊下に出ると、音が強くなった。

幻の天使に導かれるように階下へと向かえば、玄関ホールいっぱいに清らかな音色が響き渡っていた。

その場にはすでに、キャロライナとノエルがいた。バーナードもいる。チェリーに気づいたキャロライナが、嬉しそうに微笑みかけてきた。

椅子に腰掛けて銀色の横笛を吹いているのは、昨晩落馬で足の骨にひびを入れていた青年ニコラスであった。

藁のような色合いの髪を背に流し、長いまつげを伏せて頬にうっすらと泥の汚れをつけたまま笛を吹き続けている。

光沢のあるリボンのように華やかで美しい調べが、するりと目の前を流れていった。

(この曲……知っている。姉さまが歌っているのを聞いたことがある)

その光景が、鮮明に蘇ってきた。

耳の奥でラモーナの歌声が響いている。

――私と一緒に歌いましょう。チェリーもお歌好きでしょう?

まるでラモーナが、すぐ隣に立っているような気がした。

戦争は始まっていない。ラモーナが死んだのも、父や母が死んだのもすべて夜寝ている間に見た悪夢で、朝が来てベッドから抜け出せば、食卓を囲む家族が「お寝坊さん」と迎えてくれる。

急いで顔を洗って席につくと、母がすでに食事を用意してくれているのだ。

(違う。もう私の家族は誰もいない。でも大丈夫。ノエルがいて、アストン家の家族がいてくれるから。過去を思い出している場合ではないわ、食事は私が用意するのよ)

笑っていなければ。そう思うのに、あっという間に目に涙が盛り上がってきて溢れ出した。

「チェリーさん?」

心配した様子で、キャロライナが歩み寄って来る。「チェリー」と、低い位置でノエルが声を上げた。

「なんでもないの。大丈夫です。笛の音がきれいだっただけ」

ラモーナの声が聞こえる。歌いましょうと誘ってくる。

固く閉ざされたチェリーの喉をこじ開けて、 詞(ことば) を溢れさせようとする。

その衝動に、チェリーは蓋をした。涙をごしごしと乱暴に擦り、心配した様子で横に立ったバーナードを見上げて笑いかける。

「寝坊しちゃいました。今から食事の支度をしますね」

バーナードは今にも何か言いそうに口を開きかけていたが、チェリーが「目にゴミが」と言うと唇を引き結んだ。

それから「もう大丈夫?」と軽く身をかがめてチェリーの瞳を覗き込み、優しい声で話し始める。

「昨日はバタバタして遅くなってしまったからね、よく寝られたなら良かった。朝食は俺が用意できていれば良かったんだけど、俺もさっき目を覚ましたところなんだ。あの男は起きるなり、一宿一飯の恩だからと言っていきなり笛を吹き始めるし、キャリーやノエルも音につられてここまで来てしまったから、動くに動けなくて」

たとえ相手が足を引きずるような怪我をしていても、女性や子どもしかいない家の中で見知らぬ男から目を離すことができなかったということらしい。チェリーは「わかります」と目で伝えて肯いてみせた。

それまで響いていた笛の音が、不意にぴたりとやんだ。

目を伏せて吹いていたニコラスは、髪を揺らして顔を上げる。

「おはようございます、皆さん。昨日は親切にも屋敷に招き入れてくださりありがとうございました。朝のお仕事をなさる際に、私の動向が気になるようでしたら、ここでこのまま笛を吹いていますよ。もし私がどこかへ移動しても、すぐにわかるでしょう?」

けろっとした顔で言い放ちつつ、添え木をあてられた足に手を置いて「この足ですが」と笑う。

バーナードは、軽く眉をしかめて答えた。

「足が痛むかと思いましたが、元気なら何よりです。『笛吹き男』と言えば子どもをさらう言い伝えがたくさんあるので、少々心配になってしまいます。ノエル、ついていくなよ」

冗談めかした言い方であったが、しっかりと牽制していた。

ニコラスはそれを感じ取った様子で微苦笑をしていたが、笛の余韻に目を輝かせたノエルには、バーナードの声は届いていないようだった。

「すごく素敵なメロディだったよ! もっと聞きたい!」

こら、というバーナードの制止も聞かずにニコラスの元へ駆け寄って行こうとする。素早く腕を掴んだのはキャロライナであったが、その目もきらきらとしていてニコラスへの抑えきれない憧れが滲み出ていた。

ふっと、ニコラスは笑みをもらした。

「二人とも音楽が好きなんだね。それと、お姉さんも」

確信をもった様子で視線を向けられて、チェリーは軽く目を瞠った。

(……あっ、キャロライナさんやノエルと一緒にいると、私は「お姉さん」に見えるのよね)

実際に当たらずとも遠からずなので、あえて否定するようなことではない。

一方、バーナードはその呼び方が気になったようで、チェリーの肩に手をおいて軽く自分の方に引き寄せながらきっぱりと言い切った。

「妻だ」

ああ、とニコラスは大きく目を見開いてから相好を崩した。

「てっきり、そこも兄妹かと。ということは、このお屋敷の当主様と奥様ですか。昨夜はお邪魔をしてしまいましたか」

「もうすっかり、大丈夫そうですね。どこか目的地があるなら、早々に荷物をまとめて出て行くといいです。その足だと何かと不自由でしょうから、迎えを呼ぶというのなら電報を打ちます」

「それには及びません。と、言いますか、私には目的地も連絡するような相手もいないんです。あてもなく馬を走らせていたらこの怪我で……これからどうしようかな」

軽い口ぶりであっさりと言われて、バーナードは警戒する顔つきになった。

「どうと言われても、この屋敷に滞在させるわけにはいきません」

「部屋を用意してくださいなんて、そこまでは言いませんよ。この玄関の床は最高の寝心地でした! 塹壕とは雲泥の差です。固くて乾いていて清潔で」

ぐ、とバーナードが言葉を飲み込んだ。

(バーナードさんは、お屋敷をあけることも多いから自分がいないときのことを気になさっているんですよね。でも……行き場のない帰還兵と聞いて、怪我を診てもいるのに追い出すのも……)

心情的には「ひと一人くらいなら少しの間滞在頂いても」と言いたいチェリーであったが、バーナードの心配もわかるだけに迂闊に口を挟めない。

ニコラスは、まるでそれを見透かしたように笑顔で言った。

「それでは、こういうのはどうでしょう。私は笛だけではなく、たいていの楽器は扱えます。もし足の怪我が良くなるまでこのお屋敷に置いて頂いているのでしたら、ピアノでもヴァイオリンでも教えてあげることができます。そこのノエルくんやお嬢さんは音楽が好きみたいですが」

そう言いながら、ニコラスはノエルでも家長のバーナードでもなく、チェリーに視線を向けてきた。

ドキッとしたものの「お嬢さん」に自分は含まれないはずと即座に可能性を否定する。

音楽を教えると言われたのは自分ではない、と。

バーナードは、難しい顔で考え込んでいる。

それまで黙っていたキャロライナが「兄様」と声を上げた。

「ノエルには私がピアノを教えていますが、私もそれほどきちんと教わったことがあるわけではありません。以前は寝込みがちでしたし、戦争の間に教師の方も田舎へお帰りになって……。この先ノエルに教養として音楽を身につけさせようとお考えなら、先生は必要だと思います」

笛を聞いた後だ。ニコラスが相当の実力者であるというのは、すでにこの場の誰もが認めるところである。

それでも、バーナードは迷った様子で決断を下せないでいた。

ニコラスが「それでは」と言いながら椅子から立ち上がる。

「家長として、見ず知らずの男を家族に近づけることに不安があるようでしたら、こうしましょう。この足を徹底的に壊してしまえば」

「何をするっ」

ヒビの入った足に力を入れようとしているのを見て、バーナードは弾かれたように駆け寄った。

片足が浮くほどに腕を引かれて体を支えられたニコラスは、触れ合うことで顔の近づいたバーナードの目を見てにこりと笑った。

「音楽を教えるのに、足は必要ない。手があればたいていの楽器は弾けます。あなたは私が、この屋敷の中を自由に歩き回るのを警戒しているのでしょう? であればこの足は切り落としても構わない」

「その足を治療したのは俺だ。切り落とす必要はない。俺があなたに望むのは、その足が不自由ないくらいに良くなって、早くこの家を出て行ってくれることだ。怪我の治りが長引くようなことはするな」

睨むような強いまなざしで、バーナードはニコラスと対峙する。

すると、ニコラスはぱっと表情を明るく輝かせた。

「つまり、足が良くなるまではいて良いということですか! ありがとうございます! 僕は生活力はからきしですけど、音楽だけは自信があるんです。任せてください!」

もう許可を得たと言わんばかりのニコラスに、バーナードは厳しい声で告げる。

「俺は『言質を取って押し切ったら勝ち』という交渉を認めるつもりはない。音楽教師として働くというのであれば、給金は用意する。あなたはそこから家賃や食費をこの家に収めるように。貸し借りなく厳密に取り決めよう」

押し切らせるつもりはないと言いつつも、折り合う点を示すことで、バーナードは実質的には滞在を認める判断をしたようであった。

ニコラスはにこにことした笑顔で「よろしくお願いします!」と言い、親しげにバーナードの肩を抱く。

バーナードはしかめっ面のまま、その手を掴んで外して「傷に響くから座っているように」と椅子を勧めた。