作品タイトル不明
37 自覚する瞬間
迷い込んできた青年は、ニコラス・ソーヤーと名乗った。
「いやあ、薄いお茶が美味しい。胃に優しい感じですね。ビスケットもありがとうございます、お腹が空いていたんですよ。ものすごくシンプルな粉の味が美味しいなぁ。いくらでも食べられそうです」
よく喋る。
先回りして屋敷に戻っていたチェリーは、玄関の鍵を開け、椅子やランプを用意してニコラスを迎え入れた。さらにお茶を淹れて作り置きのビスケットを持って戻ってくると、ニコラスは嬉しそうにぺろりと平らげる。
バーナードがニコラスのブーツを脱がせ、ズボンをまくりあげて紫色に腫れ上がった足の状態を調べている間は、患部が見えやすいようにランプを掲げていた。「ありがとう、助かるよ」とチェリーにお礼を言いつつ、バーナードはニコラスに対して淡々と告げた。
「折れてはいないが、ヒビが入っている。不用意に力を入れるとヒビが広がって治りが遅くなるだろう。しばらくこちらの足には体重をかけないように、移動の際には特に気をつけること。いまは応急処置として添え木をして固定しておく。不自由だろうけど、杖を使えば歩けないこともないかな」
ありあわせの道具で、手際よくてきぱきと処置をする。おかわりしたお茶を飲み干したニコラスは、感心した様子でバーナードの手元を見て言った。
「お医者さんだったんですね。これは最高のめぐり合わせだ。私は良いところへ迷い込んだみたいです。こう見えて運はなかなか良いんです」
深夜に見知らぬ家の敷地に侵入し、落馬して足の骨にヒビを入れたばかりだというのに、胸を張って誇らしげに言う。
バーナードは広げていた道具をカバンにしまいながら答えた。
「戦争に行く前は大学で医学を学んでいたんです。戦地では怪我人が後を絶たないので、ずいぶんと実践経験も積みました。こういう怪我はよく診ましたが、戦場では『致命傷』ですよ。歩けないわけですから」
さてどうしたものか、と思案顔になっている。チェリーもその悩みはよくわかった。
(ひとりで馬に乗り降りもできないでしょうし、ここから徒歩でどこかへ向かうことも無理ですよね。今晩はもう遅いですし……)
この家には、キャロライナやノエルといったか弱い娘や子どもがいる。怪我人に親切にしたいと思っても、見知らぬ男性を招き入れるのは抵抗があるのだった。
それはバーナードが、一番気にしていることだろう。
「とりあえず、今晩のところは君のロビンと納屋で休んでもらえるかな。連絡すれば、迎えに来てくれるひとはいるのだろうか。こちらとしても、手は尽くすが」
言葉を選びながら、ニコラスにそう話しかけている。返事はなかった。「えっ」とバーナードが小さく声を上げ、チェリーはランプを掲げた。
ニコラスは、すやっと寝息を立ててすでに寝ていた。
「……疲れていらしたんですね。あまり動かさないほうが良いようでしたら、毛布を持ってきましょうか」
どっと疲れを感じた様子で、バーナードも頷いた。
「そうだな。このまま椅子から下ろして床に寝させておこう。朝まで俺がついているから、チェリーさんは部屋でゆっくり休んで」
「その前に、馬のロビンさんを納屋につないできますね」
「大丈夫、それも俺がやる。すぐ戻って来るから心配しないで。この男の怪我は本物だ。もし起き出して不審な行動をとっても、焦らず対処すれば逃げられるよ。簡単に二階へ行くこともできないだろうし」
役割分担を決めながら、バーナードはニコラスからジャケットを剥ぎ取った。何かに気づいた様子で、無言のまま内ポケットを探る。箱らしきものを取り出して、開けて中を見てからほっと息を吐き出して、元の位置に戻した。
「銃器のような物騒なものなら確認しておくべきかと思ったけど、これは違うな。寝る前にせめて、名前以外にもう少し身元やこの時間帯にうろついていた理由を聞けたら良かったけど、それは明日以降ということで」
そこからは、二人で手分けして作業を終えた。バーナードは部屋に戻らずニコラスの横で毛布をかぶって座ったまま寝るとのことだった。
「アンドリューズが勘違いして騒いでいるけど、朝まではまだ時間がある。チェリーさんも、少しでも横になったほうがいい。ここは俺に任せて、休めるときに休まないと」
「バーナードさんは、横にならないつもりみたいですが……」
「大丈夫。このくらい全然平気だよ。慣れてるから」
にこりと笑うと、バーナードはチェリーの肩に軽く手を置き、額に口づけてきた。
「おやすみ。また明日」
優しい声で囁かれて、チェリーはドキドキとしながら何度か瞬きをした。何か言いたい思いはあるのだが、胸がいっぱいで言葉にならない。
勇気を出してバーナードのシャツを指先で掴んで、なんとか感謝の言葉を伝える。
「バーナードさんがいてくれて良かったです。おやすみなさい」
顔を伏せたまま、返事も聞かずにその場を立ち去った。
(ふ、普通にお礼を言っただけなのになんだか恥ずかしい! バーナードさんが私のことをものすごく大切にしてくれているのがわかって……どうしたら良いかわからない!)
チェリーは、これまでこの家で何か異変があれば、すべて自分が対処しなければならないと覚悟を決めて生きてきたのだ。
しかし、深夜に男性の侵入者に対応すること、その怪我を診ること、家に置いても大丈夫だと判断し、その挙動を見守ること。この夜の出来事は、バーナードがいなければまったく手も足も出ないことばかりであった。
バーナードは、危険がありそうな場所へは真っ先に出て行き、終始チェリーを気にかけて背にかばい、何か出来ることはないかとささやかな手伝いをしただけで丁寧に労ってお礼を言ってくれた。
そういった一連の行動から、彼は恐ろしく頼りがいのある旦那様であり、自分は彼に守られる存在であるとチェリーは実感してしまったのだ。
部屋に駆け込むなりドアを背にしたままチェリーはその場に崩れ落ちる。
バーナードは「家族として当然のことをしたまで」という顔でいるが、チェリーからすれば彼は父や兄といった血縁ではなく、まったくの他人から旦那様となった大人の男性なのだ。
実際、チェリーは求婚を受け入れているし、これから「夫婦」として長い時間一緒に歩んでいく心構えはある。
それでも「おやすみ」という低い声を思い出しただけで、顔に血が上ってきてしまう。
寝て起きて朝が来れば、彼は「おはよう」と笑顔で言ってくれるのだろう。
「朝が来るのが、少し怖い……」
胸がざわざわとして落ち着かず、バーナードと今まで通り話せるか自信がなくなってきている。
もしこれが他の誰かから相談事として打ち明けられたら、チェリーとしては「素直に受け止めればいいのに」と笑って言う。自分以外の誰かの身に起きた出来事であれば、心から祝福できるのだ。しかし、いざそれが自分の身に降りかかると、猛烈に動揺するのだと知った。
(家族なのにドキドキするって大丈夫なのかな……。ううん、朝が来れば意外と平気になっているかも。やることもたくさんあるし、ニコラスさんをどうするのかの話し合いもあることだし)
浮ついている場合ではない、と言い聞かせてチェリーは立ち上がった。
数歩進んでベッドにたどりつくと、またへなへなと体から力が抜けて突っ伏してしまった。
まさか今になって、すでに一緒に暮らしている相手をこれほど意識することになるとは思わなかったが、気づいてしまったものはどうしようもない。
甘く締め付けられるような胸の痛みに、チェリーはため息をついた。