軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

36 来訪者

草むらでは、虫が鳴いていた。

月明かりがあるために空気は薄青く、辺りは真っ暗闇ではなくて光と影がある。

バーナードは体に染み付いた動作として足音は立てず、呼吸すらも静かに木陰に身を潜めながら前進した。

明るい場所を進めば的にされるかもしれず、暗い場所には敵兵が伏せているかもしれない。

戦場から遠く離れた場にあっても、当たり前のように頭の一部でそう考えている。

それでも、足が止まることはない。

背後に屋敷があり、家族がいる。

敷地内で何が起きているかを確認するのは、他の誰でもなく自分の役割なのだった。

表門の見える位置取りを確保すべく、柔らかい草を踏みしめて木陰から木陰に移動したとき、その声が耳に届いた。

「……いててて。はぁ~……痛い」

痛がっている。若い男の声だ。

馬の息遣いも聞こえた。もぞもぞごそごそと、およそ緊張感のない物音も聞こえる。少なくとも、相手はそこに自分がいることを隠す意図はないらしいことが知れた。

「折れたよ、これ。絶対折れた。ねえロビン、僕を落としたことは怒らないから誰か呼んできてよ。僕はもうここから一歩も歩けない。ほら、目の前のお屋敷に誰かいるはずだからさ。ドアの前で哀れっぽい声で一鳴きしたら、誰か出てきてくれるよ。ねっ? お願いだよ~」

状況から察するに、馬に懇願している。

バーナードが身を乗り出して様子を窺うと、馬はつんとそっぽを向いていた。無視されているようだ。月明かりに浮かぶ馬の意志の強そうな横顔を見る限り、説得するのは難しそうだ。

「うっ……痛い。立てない。ねえ、ちょっとだけ手を貸してくれないかな……」

馬の足元でもごもごと蠢いている人物は、まさに哀れっぽく馬にすがりつこうとしていた。

ちらり、と馬が足元を見る。「ねっお願い」という声が続いた。

いかにも「うるさい」と言わんばかりの態度で馬が足を持ち上げるのを見て、バーナードは咄嗟に飛び出して、その場へ駆け込んだ。

間一髪、馬に踏み潰されかけていた人物を抱えて、地面を転がりながら離脱する。

「いででででで……!」

腕の中に抱え込んだ相手が、悲鳴を上げた。

体格はバーナードとさほど変わらない。素早く身を起こして体を離して立ち上がり、相手の顔を確認する。いかにも貴族的な、すました面差しの青年であった。

切羽詰まった涙目でバーナードを見上げてきて、訴えかけてくる。

「痛い」

「落馬したんですか」

「たぶん足が折れている。どなたか存じ上げませんが、あのお屋敷に助けを呼びに行ってもらえないだろうか」

馬に頼んでいたことと、同じことを言い始めた。

バーナードは返事をせずに、相手の顔をじっと見た。相手は「どうしてお願いしているのに聞いてくれないんだろう?」という表情で見返してきた。

全身から「世間知らず」という空気が漂っている。

少なくとも、押しかけ強盗の類ではなさそうだった。馬に落とされ、馬に懇願し、馬に踏み潰されかけるような、見た目通り間抜けなところのある青年のようだった。

「怪我の治療に関しては経験があります。動くのが辛いようでしたら、このまま診ますよ」

「ここで!? せめて屋根のあるところへ連れて行ってもらえないかな……。ほら、あそこのお屋敷に誰かいるんじゃないかと思うんだ。ちょっとここまで誰か呼んできてもらって」

「『誰か』って誰のことですか?」

真顔でバーナードが問いかけると、相手はきょとんとした様子で目を瞬く。

たっぷり五秒ほど置いてから、ハッと息を呑んだ。目が大きく見開かれる。

「もしかしてお屋敷のひとですか!?」

バーナードは体についた土埃を軽くはたき落としながら「この状況であれば、そう考えるのが妥当でしょうね」と答えて、再び相手の顔を見た。

「もしここで俺が屋敷の人間じゃなかったら、その方が怖いですよ。空き巣の下見をしている泥棒だとでも思いましたか」

「えっ、君は泥棒なのかい? お屋敷のひとは大丈夫なのかな。心配だ」

ゆっくりと、バーナードは瞬きをした。

会話は成立していないが、少なくとも本人は自分自身を不審人物だとは思っていないことはわかった。

(戦時中どこでどう生きていたのか、よくわからないタイプだな)

服装は少しくたびれてはいるものの、仕立ての良さそうな乗馬服にジャケットを身に着け、乗馬用のブーツを履いている。

この先の時代、やがて絶滅に向かう「貴族の若様」そのものといった見た目であった。

「俺は泥棒ではないです。それで、あなたは何者ですか」

「ああ、そうなのか。疑って悪かったね。僕も、名乗らないで悪かった。僕は……あっ、痛……!」

立ち上がって名乗ろうとした様子であったが、どうもその一瞬見事に足の痛みを忘れていたらしい。立つなり、痛そうに顔をしかめてバランスを崩す。バーナードもまた、迂闊が招いた痛みを想像して思わず顔をしかめつつ、腕を伸ばしてその体を支えた。

「まずは足を診ましょう。屋敷の住人はもう寝ている時間帯ですから、静かに」

「中に入れてくれるの? いやあ、親切だなぁ。ありがとう。ついでにお茶の一杯でももらえたら嬉しいんだけどね。もう三日も何も食べてなくてふらふらさ」

「馬もですか。空腹で凶暴化している?」

この男に危険はないかもしれないが馬はどうだろう、とバーナードは実際的なことに頭をめぐらせる。

相手はなぜか妙に得意げな顔で「それは大丈夫だよ!」と胸を張って答えた。

「僕は食べなくても、ロビンを飢えさせるなんてことはない。ここまで、しっかり草を食べさせてきた。主人として当然のことをしたまでさ」

ちらっと、バーナードは馬のロビンを見た。もふっと鼻息で応えられた。

無言で敬礼をしてから、主人よりは話が通じることを期待して話しかける。

「今からこのひとを屋敷に運んで、怪我を確認する。それまで遠くに行かずに待っていてもらえるだろうか。食べ物も水もすぐに用意するよ」

もっふー、とロビンは鼻息を吐き出した。なんとなく通じている。目と目でわかりあえている。なぜか、主人もそこにまざりたくなったらしく、馬に向かって良い笑顔で言い放った。

「僕のことは心配しなくていいからね、ロビン。きっとこのお屋敷のひとたちは親切だよ。君にも僕にもよくしてくれるさ」

心を許した様子で、バーナードの肩に手を回してくる。

怪我人なので投げ出すことはできず、バーナードは横を向き、小さく息を吐き出した。

そのとき、木陰で気配を殺して立っているチェリーの姿が視界に入り込んできた。手に鍬を持っている。目で「必要ですか?」と聞いていた。

(畑を耕すのとは別の用途で持ってきているよな)

明らかに、侵入者対策だ。バーナードがいない間、アストン家を守ってきた若奥様らしい行動だ。頼もしいが、これからはその役目は自分に任せて欲しいと切に願う。

緊張して顔を強張らせているチェリーを刺激しないよう、バーナードは深呼吸をして告げた。

「屋敷に戻っていて大丈夫だよ。怪我人は俺が診るから。馬は気が立っているかもしれないから、近づかないように。逃げたら逃げたで仕方ない」

途端、バーナードに体を預けていた青年がぱっと顔を上げた。チェリーを見ると明らかにほっとした様子で早口にまくしたてる。

「これはこれは、お屋敷の方ですね。こんな夜分遅くにすみません。実は道に迷った上に落馬して怪我をしてしまって自分の世話もままならない状況になってしまったんですがそれはさておきお茶の一杯でも」

無言のまま、バーナードはぐいっと青年を引きずって歩き出した。「痛っ」と悲鳴が上がったが無視をする。

「俺も『お屋敷の方』だって言いましたよね。話は俺が聞きますので、家族に気安く話しかけないでください」

「え、だってあなたより、あちらの女性のほうが話しかけやすい顔をしていますよ?」

鏡見たことあります? と邪気の無い様子で言われて、バーナードの脳裏には「やっぱり鍬いるかもな」という考えが過ったが、ぎりぎり口にしないで堪えた。怪我人を診る前に怪我を増やしている場合ではない。

「屋敷の女性に気安く話しかけるような男は、中に入れてもらえると思わないことです。納屋にお通ししても良いんですよ。屋根がありますから。それが嫌なら少し黙りましょうか」

圧を加えて青年を黙らせ、屋敷に向かって歩き出す。

騒ぎの気配に気づいたのか、屋敷の中ではアンドリューズが高らかに鳴き声を上げていた。