軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第8話:総督府の密約と、見えない防衛線

明治三十七年(一九〇四年)二月。

日露両国の間で国交が断絶し、ついに宣戦布告の号砲が鳴り響いた。台湾の街にも号外が舞い、大人たちは誰もが興奮と緊張の入り混じった顔で北の海を見つめていた。

開戦の喧騒が総督府の分厚い壁をもすり抜けてくるような昼下がり。

僕と 翠玲(スイレイ) さん、 瑞月(みづき) 姉さん、そして 大稲埕(だいとうてい) の町医者は、台湾総督府の民政長官室に立っていた。

執務机の向こうで、持ち込んだ分厚い書類と『 医療用規格箱(コンテナ) 』の目録に目を通しているのは、後藤新平長官だ。彼は多忙の極みにありながらも、翠玲さんが提示した「ある数字」から目を離せずにいた。

「戦死者の大半は、敵の弾だけではなく、不衛生による化膿と敗血症(病死)である。この新薬と高純度の 消毒液(エタノール) を用いた徹底的な消毒を行えば、軍の兵力損耗率を数学的に引き下げることができる、か」

後藤長官は書類から顔を上げ、鋭い眼光でこちらを射抜いた。

「商人の理屈としては面白い。だが、いくら私に薬局長(公衆衛生の長)の経験があるとはいえ、陸軍の軍医部が民間の未承認薬など受け入れるはずがない。彼らは自分たちの定めた衛生規定しか信じないからな」

それは、官僚組織の壁を知り尽くした政治家としての、極めて真っ当な指摘だった。

どんなに画期的なシステムも、現場の人間が説明書通りに動かなければただの鉄の箱と色水に過ぎない。だからこそ、僕たちは「人」を用意していた。

「長官の懸念はごもっともです。だからこそ、現場でこの薬を運用するための『実行役』を、長官の権限で軍内部から一人、選んでいただきたいのです」

翠玲さんが淀みなく答えると、隣に立つ町医者が一歩前へ出た。

「長官閣下。私はこの手で、助かるはずのない泥まみれの深い裂傷に、この薬を塗布しました。傷の腐敗は完全に止まり、患者の脚は今も繋がっております。この臨床記録に、医師としての命を懸けます。……どうか、話の分かる軍医殿を一人、呼んではいただけませんか」

町医者の気迫と、完璧に揃えられた治癒記録。元医師である後藤長官は、しばらく思案するように顎を撫でていたが、やがて傍らの副官に短く命じた。

「軍医部の 高柳(たかやなぎ) 中尉を呼べ」

数十分後、長官室に現れたのは、まだ三十代半ばほどの、神経質そうだが理知的な瞳を持った若手軍医だった。

「高柳中尉。今から彼らが君に、ある『実験』の講義を行う。真面目に聞きたまえ」

長官の言葉に、高柳軍医は訝しげな表情を浮かべた。町医者と瑞月姉さんが広げた新薬の資料と、ペニシリンの実物を見るうちに、その眉間の皺はさらに深く刻まれていく。

「信じがたい。青カビから抽出した液が、細菌の増殖を止めるというのか」

正規の医学教育を受けた軍医からすれば、民間商会が持ち込んだ得体の知れない色の水など、いかがわしい民間療法の域を出ない。高柳中尉は明らかな不信感を露わにしていた。

「事実です、中尉殿。ですが、不純物が多いため決して血管には入れず、大量の消毒液で泥を洗い流した後に、傷口へ直接塗布せねばなりません」

町医者が現場での処置を懸命に語り、翠玲さんがそれに続く。

「中尉殿には、数名の衛生兵からなる『特設衛生班』を率いていただきたいのです。鋼鉄の巨大な規格箱は、港の後方拠点に『動かない無菌の薬局』として据え置きます。そして箱の中には、前線の悪路でも馬で運べるよう、最初から軍の規定寸法に合わせた『小箱』が詰まっています。中尉殿の班は、後方拠点から前線へと、この小箱を正確な手順で送り出す管理を担うのです」

巨大なコンテナで港まで運び、そこから先は陸軍のインフラ(馬と人)に合わせた小箱で末端まで流す。兵站の計算は理にかなっているが、肝心の「中身」が本物かどうか。高柳中尉はなおも半信半疑の目を向けていた。

その沈黙を破ったのは、後藤長官だった。

「高柳。貴様が疑うのも無理はない。だが、戦場で弾薬が尽きるより恐ろしいのは、兵が傷口から腐って死んでいくことだ。これは満州へ向かう児玉(源太郎)大将の個人的な預かり物として、港の野戦病院に貴様らの班ごと配置する」

長官は机をトントンと叩き、鋭い眼光で中尉を射抜いた。

「効果が証明されるまでは、あくまで『試験物資』だ。使い物にならなければ捨てて構わん。だが、もしこの町医者の言う通りに化膿を食い止められたなら……貴様の手で、一人でも多くの兵の四肢を繋ぎ止めろ」

絶対の権力者であり、かつての上司でもある後藤の命令。高柳中尉は姿勢を正し、軍人としての義務感から力強く敬礼した。

「はっ! 長官の特命とあらば、この高柳、必ずや現場にて厳格な運用と『実験』を遂行いたします!」

数日後の、 基隆(キールン) 港。

どんよりとした冬空の下、海軍の特命輸送船として契約を結んだ『 瑞昌丸(ずいしょうまる) 』が、慌ただしく出港の準備を進めていた。

甲板には、厳重に固定された 医療用規格箱(コンテナ) が積まれ、その傍らには野戦服に身を包んだ高柳軍医と、彼の率いる数名の特設衛生班の姿があった。

見送りの群衆から少し離れた波止場で、僕は一人、冷たい潮風に吹かれながらその光景を眺めていた。

(僕にできる直接的な『投資』は、とりあえずここまでだ。あとは現場に託すしかない)

僕に、歴史のすべてを見通すような全知全能の力はない。世界を救う救世主になりたいといった、壮大な野望や使命感があるわけでもない。ただ、六歳の子供が持っている未来の知識と、目の前にある商会の力を使って、破綻することが分かっているシステムに対して最も合理的な一手を打っただけだ。

あとは、あの疑い深い高柳軍医が、地獄のような野戦病院で薬の真価に気づき、どれだけ泥水を弾いてくれるか。

汽笛が鳴り響き、瑞昌丸がゆっくりと岸壁を離れていく。

僕は外套のポケットに両手を突っ込み、鉛色の海原へ向かって小さく息を吐いた。

僕たちの蒔いた種が、凄惨な泥沼の戦場でどのような芽を吹くのか。その結果を知るのは、まだ少し先のことになる。