作品タイトル不明
第7話:キティホークの風、奇跡の雫
明治三十六年(一九〇三年)の師走。
大稲埕(だいとうてい) にある瑞長商会の帳場では、 黄翠玲(ホアンスイレイ) さんが弾く算盤の音が、小気味良いリズムを刻んでいた。
「康政様。先月の勘定がまとまりました。……凄まじい数字です」
分厚い帳簿から顔を上げた翠玲さんの声には、商人としての深い興奮が滲んでいた。
「廃糖蜜から抽出した高純度の 酒精(アルコール) ですが、医療用や工業用だけでなく、飲料用の原料として現地の酒造業者に卸した分が爆発的に売れています。不純物がないため、水で割るだけで極めて良質な酒の土台になるからです」
「予想通りですね。で、財務の状況は?」
「はい。瑞昌丸の購入費や無線機材の導入といった莫大な初期投資分は、台湾銀行への返済を済ませても、年内には完全に回収できます。来月からは、売上の大半がそのまま商会の純利益として蔵に積み上がっていく計算です」
僕は静かに頷き、手元の茶を啜った。
商売の基本は、確実な現金収入の確保だ。タダ同然の産業廃棄物から、利益率が極めて高い酒の原料を無尽蔵に作り出す仕組み。この強固な黒字基盤がある限り、僕の次の「準備」に資金をつぎ込んでも商会が傾くことはないと思う。
「坊ちゃん。瑞昌丸の通信手から、米国の外電の写しが届きました」
商会の副代表である 阿長(あちょう) が、一枚の紙片を持って帳場に入ってきた。
海軍と同じ通信網と定期航路を手に入れたことで、今の瑞長商会には海外の最新情報がいち早く集まるようになっている。僕はその短い英語の一文を読み、わずかに目を丸くした。
翌日の台北尋常小学校。
放課後の教室で、僕は昨日の電報を翻訳したメモを、 御子柴烈(みこしばれつ) の机に滑らせた。
『――十二月十七日。米国ノースカロライナ州にて。自転車屋のライト兄弟が、発動機付きの機械による有人飛行に成功す』
「空を、飛んだ……? ガス袋で浮かぶ気球や飛行船じゃない。自らの動力で飛ぶ機械だ……鉄と布の塊が、本当に空を飛んだのか!」
かつて紙飛行機を握りしめ、「空飛ぶ船」の夢を語っていた少年の目が、猛烈な熱を帯びて紙片に釘付けになっていた。
すでに欧州などでは飛行船が空を飛んでいるが、それはあくまで空気より軽いガスで浮かんでいるに過ぎない。自らの動力で揚力を生み出し、重力に逆らって空を制する『重航空機』の誕生という決定的な事実。
「御子柴くん」
「俺はやるぞ、康政。絶対にやってやる。いつかあんな機械を独自に作って、泥の上の道になんか頼らない、空から荷物も兵隊も運べる軍隊を作ってやる!」
まだ何者でもない六歳の少年の口から出た途方もない宣言。だが、彼がこの時代に誰よりも早く「航空機」の真の軍事的価値を直感した事実は、確実に彼自身の運命の歯車を回していた。
同日、夕刻。商会の奥にある煉瓦棟の実験室。
「康政様、ついに不純物の分離が完了しました」
瑞月(みずき) 姉さんが、震える手で小さなガラス瓶を掲げた。
青カビの培養液に、蒸留塔で精製した極めて純度の高いエタノールを掛け合わせ、幾度もの濾過を経て抽出された、わずかばかりの琥珀色の液体。
(できた。ペニシリンだ)
僕は内心で静かに安堵した。現代の基準から見れば粗悪かもしれないが、この時代においては間違いなく世界初の、細菌の増殖を物理的に食い止める「抗生物質」だった。
その時、外から怒声と悲鳴が上がった。
血相を変えた阿長が、脚から大量の血を流している若い現地の見習い職人を背負って飛び込んできた。
「坊ちゃん、申し訳ありません! 荷崩れで鉄骨がこの者の脚に……!」
作業場に急いで呼ばれた町医者が、錆びた鉄材で深く抉られ、泥水がべったりと付着した傷口を見て、青ざめた顔で首を振った。
「駄目です。傷が深すぎるうえに泥が入り込んでいる。このままでは確実に破傷風か敗血症を引き起こす。命を助けるには、すぐに脚を切断するしかありません」
「そんな……! 彼はまだ若いのです、脚を失えば職を失い生きていけません!」
阿長は町医者の言葉を遮ると、血走った目で僕の方を振り向き、すがりつくように頭を下げた。
「坊ちゃん! さきほど抽出が完了したばかりのあの『新薬』を..! 軍に納めるための貴重な品だと分かってはいますが、あれなら、あの近衛師団との演習の時のように、確実に傷の腐敗を止められるはずです。どうか、こいつに使ってやってはくれませんか!」
過去の演習でペニシリンの絶大な威力を目の当たりにし、その精製工程のすべてを僕と共有している阿長は、あの小瓶の中身だけがこの絶望的な状況を覆せることを知っていた。
(もちろんだ。そのために作ったんだから)
僕は騒然とする大人たちを横目に、手元にある琥珀色の小瓶を見つめた。
薬の効果自体は過去の演習ですでに実証済みだ。だが、この小瓶に入っているのは、以前の粗悪な試作品とは違う。連珠蒸留塔の高純度エタノールを使って精製を重ねた「量産型」だ。
(だが、このペニシリンは今の濾過設備では僕の知る未来の抗生物質に比べ不純物が残っている。これを直接血管に注射すれば、過敏な反応を引き起こしてショック死する可能性が高い。だから敗血症に移行する前に、傷口へ直接大量に塗布して局所的に細菌を叩き潰すしかない)
僕は実験室から持ち出した琥珀色の小瓶と、高純度の消毒用エタノールを手に、町医者の前へ進み出た。
「先生。脚を切断する前に、この薬を試してください」
「坊ちゃん、素人が医療に口出しするものではありません。そんな得体の知れない水で傷が治るわけが……それに、今日切断せずに手遅れになれば、私の責任問題になります」
「もし悪化して彼が命を落とすことになっても、一切の責任は瑞長商会が負います。先生の正しい診断を、素人の私が無理矢理引き延ばしたという一筆を今ここで書きましょう。先生の医者としての名声には決して傷をつけません」
僕は冷徹な事実として、医者の『保身』を突く取引を持ちかけた。
「まずこの高純度の 消毒液(エタノール) で傷口の泥を徹底的に洗い流し、それからこの抽出液を患部に直接塗布してください。……脚の切断は、明日になってもできるはずです」
商会の副代表である阿長も「先生、どうか坊ちゃんの言う通りに頼みます!」と深く頭を下げる。
医者は商会の者たちの気迫と、僕の提示した念書の条件に押され、渋々といった様子で頷いた。
医者の手によって、指示通りの入念な傷口の洗浄と、新薬の塗布が行われる。僕はただ黙って、その様子と投与量を懐中時計を見ながら手帳に記録し続けた。
年が明け、明治三十七年(一九〇四年)の一月。
日露の国交断絶がいよいよ秒読みとなり、新聞が連日のように開戦の熱狂を煽る中。
見習い職人の右脚は、切り落とされることなく繋がっていた。
数日間続いた高熱は嘘のように引き、腐敗しかけていた傷口は赤みを取り戻して完全に塞がり始めている。
「奇跡だ……! この私が直接処置したからこそ分かる。あれは魔法の薬としか言いようがない!」
自身の常識を覆された町医者が驚愕の声を上げ、阿長が涙を流して若者の肩を抱く中、僕は実験室で一人、淡々と次の作業を進めていた。
(品質の最終確認は完了した。化膿止めとしての効果は絶大だ)
僕は量産した 琥珀色の小瓶(ペニシリン) を、丁寧に緩衝材で包み、鋼鉄製の規格箱の中へ敷き詰めていく。高純度のエタノール瓶と、煮沸消毒された清潔な包帯。
これこそが、僕の組み上げた最高の合理性。『医療用SSコンテナ』の第一陣だ。
薬は完成し、それを最速で運ぶ箱も揃った。
あとはこれをどうやって、間もなく始まる巨大な泥沼の戦場へ送り込むかだ。
「さて、取引の時間だ」
僕は木箱の蓋を閉じ、総督府で待つ後藤新平長官の元へと向かう準備を始めた。