軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第9話:先回りの投資  大連の奇跡

特命輸送船『 瑞昌丸(ずいしょうまる) 』が、高柳中尉と医療用コンテナを乗せて 基隆(キールン) 港を出港した翌日のこと。

僕は 翠玲(スイレイ) さんを伴い、 大稲埕(だいとうてい) にある日本人町医者の診療所を訪れていた。前回の事故で初めて新薬の威力を目の当たりにし、総督府で証人となってくれた 白石(しらいし) 医師の元だ。

「私の診療所に商会の資本を入れ、拡張をする。現地の若い医師を雇い入れて地域の患者はこれまで通り診つつ、私自身は瑞長商会の『医療・衛生顧問』になれ、ですと?」

白石医師は、僕が提示した分厚い契約書と資金援助の額を見て目を丸くした。

「はい。先生には我が商会で働く全従業員の健康診断をお任せしたい。そして何より、昨日出港したあの『 抽出液(ペニシリン) 』の本格的な量産における、医学的な『品質管理の責任者』に就任していただきたいのです」

「いや、お待ちください康政坊ちゃん。あの薬の威力が本物だということは、私が一番よく知っています。しかし、軍での実証実験はまだ始まったばかりでしょう? 結果も出ていない今の段階で、これほどの莫大な資金を投じて量産体制を作るなど、あまりにも博打が過ぎませんか」

常識的な大人であれば当然の反応だ。だが、僕は首を横に振った。

「博打ではありません。あの薬が本物である以上、戦場で使えば必ず結果が出ます。そして結果が出た瞬間、あの頭に血の昇った軍部は『今すぐ数万本単位でありったけ増産して満州へ送れ』と無茶な命令を下してくる。……結果が出てから慌てて設備を作り始めたのでは、間に合わないのです」

軍という巨大な組織が一度動き出せば、その要求(特需)は暴力的なまでの規模になる。システム上のボトルネックになるのは常に「生産力」だ。それを先回りして潰しておくのが、実務家としての最低限の仕事だった。

「工場の生産管理や職人の手配は 阿長(あちょう) がやります。抽出工程の実務は 瑞月(みづき) 姉さんが取り仕切る。ですが、完成した薬が医療用として十分な水準を満たしているか、その医学的な品質の担保は先生にしかできません。軍から『至急送れ』と打電があったその日のうちに、第二陣、第三陣の 規格箱(コンテナ) を即納できるだけの体制を、今この瞬間から構築してください」

僕の冷徹な計算と要求に、白石医師はごくりと喉を鳴らした。

「恐ろしい子供だ。軍部の動きすら、すでに盤上の駒というわけですか。分かりました。現場の地域医療を守らせていただけるのなら、喜んでこの身を捧げ、品質の保証を引き受けましょう」

こうして瑞長商会は、開戦と同時に白石医師という確かな専門家を顧問に迎え入れ、巨大な医療インフラ企業への足場を固め始めたのである。

それから数ヶ月後。明治三十七年(一九〇四年)の夏。

日本軍の巨大な兵站・医療拠点となった、満州の 大連(だいれん) 。

「おい高柳。貴様の班は、今日もあの『色水』を兵に塗っているのか」

野戦病院の天幕で、古参の軍医少佐が鼻で笑うように声をかけてきた。

絶え間なく前線から運ばれてくる負傷兵の悲鳴と、血と泥、そして腐敗臭が充満する地獄のような空間。その一角で、高柳中尉と彼の率いる『特設衛生班』は、黙々と治療に当たっていた。

「はっ。後藤長官からの特命物資であり、試験運用を命じられておりますので」

高柳は感情を殺し、軍人としての義務感だけで短く答えた。

「ふん。素人の商人が作った薬など、いかがわしい民間療法に過ぎん。帝国陸軍の軍医部が定めた衛生規定こそが絶対だ。そんな泥まみれの傷、さっさと脚ごと切り落としてしまえ。それが一番確実な治療法だ」

少佐が吐き捨てるように言い残して去っていく。

高柳自身、最初はあの薬を半信半疑で見ていた。正規の医学教育を受けた自分が、なぜ台湾の商人の言う通りに動かねばならないのかという葛藤もあった。

だが、野戦病院の庭に鎮座する『鋼鉄の 規格箱(コンテナ) 』に記された分厚い 手順書(マニュアル) は、一切の妥協を許さなかった。

『――傷口の泥は、高純度の 清酒(アルコール) を惜しみなく使い、徹底的に洗い流すこと。その後、抽出液を患部に直接塗布せよ』

「中尉殿! 次の患者です、砲弾の破片で右腕に深い裂傷を!」

「酒精を持て! 泥を完全に洗い流せ、少しでも残すな!」

高柳は衛生兵に怒鳴り、自らも血と泥にまみれながら治療を続けた。台湾から持ち込まれた高純度のエタノールで傷口を徹底的に消毒し、その上から琥珀色の 抽出液(ペニシリン) を塗り込む。そして、コンテナの中で無菌状態に保たれていた清潔な包帯で固く巻く。

来る日も来る日も、高柳はその手順を機械のように繰り返した。

変化が数字として明確に表れ始めたのは、大連に上陸してから数週間が経過した頃だった。

「中尉殿。今週の、我が班の担当病棟の記録です」

衛生兵から渡された報告書を見た高柳の腕が、小刻みに震え始めた。

古参の軍医少佐たちが担当する病棟では、傷口が化膿し、毎日のように四肢の切断手術が行われ、それでも敗血症を引き起こして次々と兵が死んでいく。

だが、高柳の担当病棟だけは違った。

深く肉を抉られたはずの兵士たちの傷は、赤みを取り戻して塞がり始めていた。四肢の切断率は他病棟の数分の一にまで激減し、破傷風や敗血症による死亡者に至っては、数えるほどしか出ていない。

「奇跡だ。いや、違う」

高柳は、手に持った琥珀色の小瓶を見つめた。

これが民間療法などではないことを、他ならぬ自分自身が一番よく分かっている。これは、細菌という目に見えない敵を物理的に叩き潰すための、極めて論理的で暴力的なまでの『科学』だ。

高柳は天幕の外へ出た。

夏の陽射しに照らされた野戦病院の庭には、台湾から運ばれてきたあの巨大な『 医療用規格箱(コンテナ) 』が、ただの鉄の箱ではなく、命を繋ぎ止める無言の巨塔のように鎮座していた。箱の中には、前線へ運ぶための馬載用の小箱が、計算し尽くされた寸法で整然と詰まっている。

(あの台湾の商会は……あの子供は、この地獄を最初からすべて見通していたというのか)

高柳は背筋に冷たい汗が伝うのを感じた。

半信半疑だった己の浅はかさを恥じると共に、この箱を作った者たちの底知れぬ実務能力に、深い戦慄と畏怖を覚えずにはいられなかった。

「小箱の補充を急げ。この事実を前線へ……旅順の最前線へ届けるぞ!」

高柳のその咆哮は、彼が完全に『コンテナと新薬の信奉者』へと変わった。