軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第23話:帝都の茶室と、白頭鷲への施し

大正六(一九一七)年、夏。

容赦のない南国の陽光が、瑞長財団本部の執務室に濃い影を落としている。

紫檀(したん) の机の上に高く積まれているのは、 台湾総督府(たいわんそうとくふ) の認可印を待つばかりとなった分厚い書類の束であった。法人税の納付先変更、そして代表たる新城和也個人の籍と財を、海を隔てた帝都・東京府へ移すための法的な手続きの数々である。

「来年の六月。 貴族院(きぞくいん) の 多額納税者(たがくのうぜいしゃ) 議員選挙ですね」

康政は、墨の匂いが立ち上る書類からゆっくりと視線を上げ、窓辺に立つ父の背中を見つめた。

和也は手にした葉巻の煙を細く吐き出し、遠く北の空へと思いを馳せるように目を細めている。

「帝都の山県閥や現内閣が、これ以上国の信義を切り売りするのを黙って見ておくわけにはいかない。政府の暴走を食い止めるには、彼らの喉元に目に見える防波堤を築くほかない。……帝都の戦いは、私が引き受ける。康政、台湾の留守は頼むぞ」

「はい。法的手続きと、必要となる資金の手配は私が引き受けます」

康政が頭を下げると、和也は振り返り、部屋の隅で控える男へ視線を向けた。昨冬の夜会で、康政と共に帝都の財界を直接調べ上げた霧島である。

「霧島。帝都の権力闘争は、台湾以上に底が知れんぞ。道中の護衛は東京支部の者たちに任せるが、法の裏をかく計画はお前の腕にかかっている」

「ご案じなく。若様が引かれた盤面を、確実に実行に移すのが私の仕事にございます」

霧島が恭しく頭を下げる。和也は一つ頷き、問いを重ねた。

「お前が抜けた後、台湾の法務と裏の 采配(さいはい) は誰が振るう」

「私のもとで仕込んだ『 劉(リュウ) 』を、若様の傍に置いております。アメリカとの契約も、彼ならば一片の抜け道もなく結び上げるでしょう」

その言葉に満足した和也は、執務室を後にした。

本部の車寄せには、妻の和子と、もうすぐ九歳になる娘の沙絵子が見送りに立っていた。

「お父様、東京へ行ってしまわれるの。ずっと帰ってこないの。」

不安げに見上げる娘と同じ背丈になるようしゃがみ込み、和也は大きな手でその頭を優しく撫でた。

「そんなことはないさ。お父様は東京に住むわけじゃない。向こうで大事な会議がある時だけ出かけて、それが終わればすぐにこの台湾の家へ帰ってくるんだよ」

「……本当に。ずっと会えないわけじゃないの。」

「ああ。お前とお母様がこの温かい島でずっと安心して笑っていられるように、少し遠くでお仕事をしてくるだけだ。船に乗って、何度も帰ってくるさ。だから、お父様が留守の間、お母様を助けてここでいい子に待っていてくれるか。」

「うん……約束よ。気をつけていってらっしゃい」

小さな指と指切りをして微笑む娘と、すべてを察して静かに頷く和子。愛する家族が安全に過ごせる国を作るため、和也は立ち上がり、振り返ることなく歩み出した。

赤煉瓦が 威容(いよう) を誇る台湾総督府。

静寂に包まれた総督執務室で、乃木希典は和也の言葉を黙って聞いていた。軍服に身を包んだ老将の背筋は、一国を預かる者としての威厳に満ちて真っ直ぐに伸びている。

「左様か。新城殿ご自身が、貴族院へ参られると」

「はい。我が財団の根を下ろしたこの台湾、そして大日本帝国の行く末を守るため、帝都の 中枢(ちゅうすう) をいただきに参ります」

乃木はおもむろに立ち上がり、窓辺へと歩み寄った。眼下には、和也たちが切り拓き、命を吹き込んだ台湾の街並みが活気に満ちて広がっている。

現政府の軽はずみな外交方針は、国際社会におけるこの国の威信をひどく傷つける行為に他ならなかった。乃木は振り返り、かつて己の死を止めた実務家の父親を真っ直ぐに見据えた。

「今の政府の振る舞いは、帝国の信義を根底から揺るがしている。新城殿が帝都の防波堤となられるなら、これほど心強いことはない」

乃木の深く皺が刻まれた瞳に、鋭い光が宿る。

「……伊藤公や児玉大将にも伝えてくだされ。『南の守りは、私が引き受ける。貴公らは帝国の信義を死守せよ』と」

迷いのない老英雄の言葉に、和也は深く、黙って一礼した。

和也と霧島が帝都へ向けて出港した、その数日後。

台湾の瑞長財団本部・応接室には、海を越えて訪れた客人たちのもたらす、焦りの入り混じった空気が漂っていた。

革張りの長椅子に腰を下ろしているのは、欧州の戦火に足を踏み入れたばかりのアメリカ陸軍から正規の商談として派遣された調達将校たちである。分厚い軍服の襟元には、台湾の湿気による汗が滲んでいた。

「まさか、これほど容易に図面を譲っていただけるとは」

将校の一人が、手元の青写真を見つめながら信じられないといった様子で呟いた。

康政の口元には、どこまでも温和で人の良い笑みが張り付いている。通訳を介さず流暢な英語で返す彼の前には、四年前に完成した百五十馬力の星型空冷発動機、『 瑞式一五〇型(ずいしきひゃくごじゅうがた) 』の精密な図面が広げられていた。

「同盟国である貴国のお力になれるのであれば、喜んで提供いたしましょう。いま急速な航空機の量産を立ち上げる貴国の工業力において、最も求められているのは頑丈さと作りやすさのはず。実戦で鍛え上げられた一五〇型は、最良の選択となります」

康政の傍らには、柔和な笑みを浮かべた台湾出身の若き俊才、 劉銘哲(リュウ・メイテツ) が控えていた。彼は霧島から直接、法と契約の裏の戦いを叩き込まれた男である。

劉が滑らかな所作で差し出した 製造許諾(せいぞうきょだく) の契約書には、支払いの規定や特許の及ぶ範囲において、アメリカ側が決して財団の優位を崩せないよう、一切の隙もない厳しい条件が幾重にも張り巡らされていた。

実戦に投入できる軍用発動機を持たず切羽詰まっていたアメリカにとって、この図面は喉から手が出るほど欲しかった品である。将校が震える手で署名を行い、途方もない額のドルが記された小切手を差し出した。

康政はうやうやしくそれを受け取りながら、丁寧に一礼した。

絞り上げた巨額の資金は、次なる兵站網の構築や、遥か先の未来を飛ぶ全金属機を支える新たな技術の土台へと回されていく。康政は客人を見送った後、窓の外の青空を見上げながら、遠く帝都へ向かった父の背中へと無言の励ましを送った。

帝都。

蝉時雨が遠く響く、緑深い私邸の奥まった茶室。

畳の上に満ちる静寂を破るのは、鉄瓶の湯がたぎる松風の音だけだった。

和也の正面に座しているのは、伊藤博文。そしてその隣には児玉源太郎。下座には現役の内務大臣たる後藤新平が控えている。

「華族や山県閥の連中は儂が黙らせるとして、問題は東京府の商人どもだ。連中はよそ者を嫌うぞ、和也君」

伊藤が、 皺(しわ) だらけの指で茶碗を撫でながら重々しい声で牽制した。

多額納税者議員の互選は、東京府の頂点に君臨する十五人の大富豪たちがたった一つの議席を身内で奪い合う、極めて閉鎖的な闘争である。

だが、和也は居住まいを正したまま、薄い笑みを浮かべた。

「ご案じには及びません。昨冬の夜会におきまして、康政がすでに帝都の財界の重鎮どもの顔と腹の中を調べ上げております。……誰を金で抱き込み、誰を経済的に干し上げれば票が動くか。手はずはとうに整えております」

和也の背後に控えていた霧島が、懐から一葉の 畳紙(たとうがみ) を取り出し、畳の上へそっと置いた。そこには、霧島自身が足で稼ぎ、数字の裏を掻いて集めた帝都の商人たちの資金繰りや血縁関係の実態が、冷酷なまでに書き込まれている。

和也はゆっくりと視線を動かし、後藤新平へと向き直った。そして、深く頭を下げる。

「息子の集めた盤面の情報。あとはこれを実行するための、行政のお力添えが必要です。……どうかお願いできませんでしょうか、後藤長官。かつて台湾の 土台(どだい) を共に築いたあの時のように、帝都の地ならしにお力をお貸しいただきたい」

かつての部下からの、丁寧でありながらも恐れを知らない要請。

一拍の静寂の後、後藤は腹の底から湧き上がるような豪快な笑い声を上げた。

「はっはっは! 台湾の土台を整えた私の右腕が、今度はその財力で帝都の中枢を買い叩こうというのか。面白い、内務省の権限をもって入念な根回しをしてやろう!」

「……なるほど。 倅(せがれ) の知恵で急所を突き、内務大臣の権力で外堀を埋めるか。だが、商人どもを束ねる『本丸』はどうするつもりだ。」

児玉が、顎を撫でながら鋭い視線を向けてきた。和也はゆっくりと立ち上がり、羽織の紐を直した。

「ええ。これよりその本丸の元へ、ご挨拶に上がります」

帝都・日本橋。

重厚な石造りが目を引く第一国立銀行の頭取室に、渋沢栄一は座していた。

日本資本主義の父と呼ばれるその男の前に、和也は落ち着いて腰を下ろした。机の上に置かれているのは、康政たちが集めた東京府の商人たちの 帳簿(ちょうぼ) と、伊藤や後藤がすでに動いているという政治的包囲網の計画書である。

「山県閥の暴走を止めるため、来年、私が帝都の議席をいただきます。渋沢先生。……どうか、私に帝都の財界をお譲りいただきたい」

和也の真っ直ぐな言葉に、渋沢は目を細め、机上の盤面を見つめた。

上からの政治と行政の圧力。そして、下からの商人の急所を突く切り崩し。逃げ場のない見事な挟み撃ちの陣形であった。

「……かつて君の倅が言っていたな。『バラバラの石を隙間なく積んで、国を守る城壁にする』と」

渋沢の脳裏に、十余年前、五歳だった康政が無邪気に 積み木(つみき) を組み上げていた光景が蘇る。

「あれから十余年。君たちは台湾で富と力を蓄え、ついに帝都の 要(かなめ) そのものを同じ形に揃え、飲み込もうというのだな」

「この小さな島国が、列強という巨大な波に飲まれないための、防波堤にございます」

和也は深く頭を下げたまま、穏やかな声で答えた。

沈黙が落ちた。渋沢は、和也の国を憂う覚悟と、実務家としての冷徹さを天秤にかけ、やがて腹の底から愉快そうな笑い声を漏らした。

「よかろう。その途方もない『論語と算盤』、再び私が買おうではないか。東京府の商人どもには、私から話をつけておく」

第一国立銀行を出た時、日本橋の空は美しい茜色に染まっていた。

帝都の暗がりで、政治の権威と財界の頂点が一つに結びついた瞬間であった。一九一八年の初夏に向けた、情け容赦のない包囲網が、今、ひそかに幕を開けたのである。