軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第24話:交差する道と白銀の盾

大正六(一九一七)年、初冬。

鉛色の雲が垂れ込める東京湾に、身を切るような海風が吹き付けていた。

かつては漁場や遠浅の 干潟(ひがた) が広がっていた羽田の海沿いは、今や黒々とした土が剥き出しの広大な 埋立地(うめたてち) へと姿を変えている。数台の巨大な蒸気式 輾圧機(てんあつき) が、耳を 劈(つんざ) くような轟音と黒煙を上げながら、延々と続く直線の地盤を踏み固めていた。

海風にはためく幾つもの 幟旗(のぼりばた) には、『瑞長財団 東京飛行場建設予定地』の文字が墨黒々と躍っている。

「基礎工事は、予定表の通りに進んでおります。年明けには舗装に入り、春の終わりにはあの飛行場の指揮所にも屋根が乗るでしょう」

仕立ての良い 外套(がいとう) の襟を立てた霧島が、図面から顔を上げて隣の男に声をかけた。

和也は、冷たい潮風に目を細めることもなく、遥か南の空へと一直線に伸びていく土の道を見据えている。

「海底に敷いた電信線のおかげで、遠く欧州や台湾の数字も、瞬きする間に手元へ届くようになった。……だが、商人は数字の羅列だけでは首を縦に振らない」

和也の声は、唸りを上げる重機の音に掻き消されることなく、低く冷たい響きを帯びて霧島の耳に届いた。

「どれほど先んじて情報を得ようと、最後に奴らを平伏させるのは、実印が押された契約書であり、莫大な額面が記された手形の『現物』だ。船と汽車を乗り継ぐ一週間の空白が、帝都の狸どもに言い逃れや裏工作の余地を与えてきた」

「その猶予を、この道が削り取るのですね」

「ああ」

和也は革手袋に包まれた手で、目の前の巨大な滑走路を指し示した。

「台湾で康政が叩き出した数字を、遅くとも三日で紙の束として帝都へ叩きつける。物理的な距離という 枷(かせ) が外れた時、初めてあの男の描く緻密な計画は、帝都の商人どもを確実に追い詰める強力な武器となる」

海鳥が鋭い鳴き声を上げて、鉛色の空を横切っていく。

来たる大正七年の貴族院議員選挙。和也が帝都の 怪物(ばけもの) たちの首根っこを掴み、自分たちの 票田(ひょうでん) に取り込むための計画が、白日の下で着々と進められていた。

羽田に吹き付ける寒風とは打って変わり、台湾・台北の瑞長財団本部は、柔らかな冬の陽光に包まれていた。

新設されたばかりの、南窓から明るい光が差し込む広い研究区画。そこには、真新しい黒板と、山のように積まれた洋書、そして旋盤や 半田(はんだ) の匂いが立ち込めている。

部屋の中央に置かれた長机の上には、むき出しの真鍮の 歯車(はぐるま) と、複雑に絡み合った配線からなる、不格好な箱型の機械が鎮座していた。

「……申し訳ありません、理事」

白衣を羽織った初老の数学者が、手拭いで額の汗を拭いながら深々と頭を下げた。

「文字盤を打ち込む際の電流の切り替えは理論通りなのですが、三つ目の回転盤がどうしても物理的に 噛(か) み合わず、計算が途絶えてしまいます」

康政は、気落ちする学者たちの前に歩み出ると、机上の機械式暗号機の『試作機』にそっと手を伸ばした。冷たい金属の感触を確かめるように、滑らかな指先で真鍮の歯車を撫でる。

「謝る必要はありませんよ、先生方。最初の試作段階で、電流が第二の回転盤まで正確に変換されたのです。見事な成果です」

康政の顔には、いつもの笑みが浮かんでいた。その声音には、目の前の学者たちへの深い敬意と期待が込められている。

「理事のお言葉、痛み入ります。ですが……」

「我々の財団は今、世界の海を這うように海底電信線を敷設しています。それが欧州と北米を繋ぎ、真に世界を網羅した時…… 列強(れっきょう) の諜報機関は、必ずや我々の情報網に耳を押し当て、すべての通信を盗み聞きしようとするでしょう」

康政の落ち着いた声に、部屋に集められた言語学者や数学者たちが息を呑む。

手旗や単語の置き換えといった古い時代の暗号は、もはや国家規模の組織の前では赤子も同然だ。康政が彼らに求めているのは、機械の歯車が文字を打つたびに無数の組み合わせで変換を繰り返す、いかなる暗号帳を用いても紐解けぬ『盾』であった。

「この機械は、将来の瑞長財団を守る命綱となります。どうか、焦らず、しかし一日でも早く……貴方たちの頭脳で、この箱に命を吹き込んでいただきたい」

康政が深く頭を下げると、学者たちの背筋が伸び、その目に確かな使命感の炎が灯った。

「予算も、必要な機材も、人員も。劉に言っていただければ即座に手配します。……頼みますよ」

背後に控えていた劉が、優雅な所作で一礼して見せる。

列強の暗号を丸裸にし、己の言葉は誰にも 覗(のぞ) かせない。情報という見えざる戦場を支配するための頭脳の城が、台湾の地で着実にその歩みを進めていた。

空を震わせる双発の発動機音が、南九州・宮崎の沿岸部に響き渡っていた。

海岸線に沿って切り拓かれ、幾度も重輾圧機で踏み固められただけの、全長八百メートルの土の滑走路。

吹き荒れる横風の中、銀色に輝く単葉機『瑞式一型イ号』が、大きく機体を傾けながら進入してくる。接地の間際、熟練の操縦士が絶妙な当て舵を切り、前輪が土埃を激しく巻き上げながら地面を捉えた。

「右発動機の第三気筒、温度上昇の 兆(きざ) しあり。油圧は規定値内だが、点火栓の 煤(すす) を点検しろ」

「了解。燃料補給の前に濾過器の清掃に入ります」

作業着に油を滲ませた整備士たちが、駆け足で機体に群がっていく。操縦席から降り立った者たちの顔に浮かんでいるのは、長時間の飛行に対する純粋な疲労のみであった。

彼らにとって、台湾から沖縄、鹿児島の電波を拾い、この宮崎まで飛んでくることは、日常の業務である。羽田の飛行場が開港するその日に向け、悪天候での着陸や、積載量の限界を見極める地道な反復が、来る日も来る日も続けられている。

機体の胴体横、貨物扉が開かれる。

整備士の一人が中から引きずり出したのは、幾重にも封印の施された分厚い 革嚢(かわぶくろ) であった。

「台湾からの郵便、確かに受け取った」

待機していた現地の責任者が、懐中時計で時刻を確認し、帳簿へ受領の印を押す。

その革嚢の中には、数時間前に台湾で受け取られた書類が詰まっている。責任者はそれを即座に背負うと、傍らに停められた発動機付きの二輪車に跨り、帝都へと向かう急行列車の停車場へ向けて走り去っていった。

土埃と排煙の匂いの中、空の道を通ってきた確かな質量が、次なる陸路へと機械的に引き継がれていく。

「北米へ向けたアリューシャン列島経由の海底電信線。冬の海難事故で若干の遅れはありますが、来年の秋には西海岸の陸揚げ地に到達する見通しです」

台北の理事執務室。

劉の報告に、康政は満足げに頷いた。壁一面の世界地図に、指先で一本の細い弧を描く。

そこへ、淹れたての台湾茶の香りと共に、瑞月が音もなく入室してきた。その後ろには、財団の帳簿を一手に握る翠玲が、感情の読めない涼やかな表情で控えている。

「海底電信線に、暗号機。そして空を飛ぶ機械ですか……。康政様は、ずいぶんと贅沢な鎖をお造りになるのですね」

瑞月が茶器を卓に置きながら、艶やかな、しかし鋭い光を帯びた瞳で地図を眺めた。

「帝都の商人たちを縛り上げるには、これくらい頑丈な鎖でなければ。父上の選挙戦に、金銭の憂いはさせられませんから」

康政が微笑むと、それまで沈黙を守っていた翠玲が、手元の手帳を閉じながら淡々と口を開いた。

「海底線でニューヨークの相場を掴み、『一型』でその日のうちに現物の手形を東京へ叩きつける。……商取引の回転速度が従来の倍を超えれば、内地の財閥は自分がなぜ赤字を出しているのかすら理解できないまま、市場から退場することになります。……効率的ですね」

翠玲の言葉は、金庫番らしい冷徹な響きを帯びていた。瑞月はふふっと笑い、康政の視線に己のそれを重ねる。

「通信の速さで相手を出し抜き、飛行機で運んだ本物の書類を突きつける。……帝都の狸どもは、心地よい夢を見ている間に、瑞長財団の檻の中に閉じ込められるというわけですわ」

康政は、手元の白紙の契約書の束にゆっくりと視線を落とした。

南国の柔らかな風が、執務室の窓を揺らしている。そこから生み出された冷徹な計画は、海を越え、すでに帝都の喉元に冷たい刃を突き立てようとしていた。