軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第22話:中部の巨竜と、黄金の平原

台湾南部・ 高雄(たかお) 。南国の焼け付くような日差しを照り返す巨大な工業地帯には、今日も腹の底を震わせる金属音と、むせ返るような機械油の匂いが満ちていた。

工廠(こうしょう) の試運転建屋からは、空気を切り裂くような甲高い排気音が絶え間なく 轟(とどろ) いている。フランスと日本陸軍に向けて次々と送り出される航空機用発動機『瑞式一五〇型』の、厳格な出荷前検査の激しい 轟音(ごうおん) だ。

港湾部には無数の 起重機(きじゅうき) が林立し、労働者たちは流れるような連携で物資を運び、次なる船の竜骨を組み上げている。執務室の窓辺から眼下の熱気を見下ろしていた康政は、手元の 工程表(こうていひょう) へ静かに視線を落とした。航空発動機の生産は昼夜を問わぬ稼働に入り、造船所も順調に漆黒の船体を吐き出し始めている。

だが、それら巨大基盤を一から築き上げるための土木工事そのものは、数ヶ月の内に大きな節目を迎える。

今は休む間もなく立ち働く数万の土木作業員たちも、建屋と岸壁が完成すれば、やがて握るべき 鶴嘴(つるはし) を失う。彼らの手が止まる前に、次の土を用意し、この島の底力をさらに引き上げるための次の一手を打つ。それが実務家の仕事であった。

振り返った康政の視線の先には、客椅子に深く腰を下ろす二人の男がいる。一人は、台湾中部の名士であり、莫大な資産と人望を持つ 林献堂(りん けんどう) 。もう一人は、南部の 烏山頭(うさんとう) に巨大な 堰堤(ダム) を築き上げた若き天才技師、 八田與一(はった よいち) である。

「林先生。そして八田先生。お集まりいただいたのは他でもありません」

康政は長机の上に、台湾中部の広大な地形図を広げた。彼の指先が、深い山脈に抱かれた中部の湖と、その眼下に広がる『 彰化平原(しょうかへいげん) 』をなぞる。

「この湖の水を、すべて彰化の荒野へ引き込みます」

八田が身を乗り出し、地形図の等高線を食い入るように追った。技師の目が、紙の上の線から実際の風景を瞬時に立ち上がらせる。

「水源は 濁水渓(だくすいけい) か。名が示す通り、おびただしい土砂を含んで山を削り落とす暴れ川だ。しかも、彰化に至るまでの落差が凄まじい。これほどの水量を一気に落とせば、途方もない電力が生まれますな」

「ええ。いずれ 超(ちょう) ジュラルミンの大量生産が始まれば、その電力が必要になります。ですから、発電の基礎と水門は組み込んでいただきますが……」

康政は八田の顔を見据え、言葉を継いだ。

「今の財団に、そこまでの大電力は要りません。今この島に最も必要なのは、膨れ上がる人口を食わせるための『米』です」

椅子に背を預けていた林献堂が、微かに杖を握る手に力を込めた。

「高雄の工事を終えた数万の労働者を、この水路建設に投入します。そして水が通り、荒野が田畑に変わった暁には、彼らをそのまま農民として入植させる。日雇いの労働者としてではなく、己の土地を持つ 百姓(ひゃくしょう) の主として、です」

康政の言葉に、部屋の空気が微かに震えた。林はゆっくりと目を閉じ、胸の奥でその 算盤(そろばん) の重みを噛み締めた。 台湾総督府(たいわんそうとくふ) の役人たちは、この島をただの砂糖と米の供給地としか見ていない。

彼らが引く線引きは常に搾取のためのものであり、台湾の民は安い賃金で酷使される歯車に過ぎなかった。だが、目の前の若き総帥は違う。彰化を台湾最大の穀倉地帯に変え、工業の土台の上に、枯れることのない食糧と雇用を創り出す。

民を豊かにし、自立させることこそが、財団の地盤を永遠のものとする。それは、総督府の小役人には到底描けない、壮大な計画であった。

「一人の血も流させはしません」

目を開いた林の瞳に、郷土を愛する名士としての熱い覚悟が宿っていた。

「中部の水利権と、複雑に入り組んだ土地の整理……すべて私にお任せいただきたい。我が郷土が黄金の稲穂で覆われる未来のためならば、中部の全地主を説き伏せ、我が全財産を投げ打っても惜しくはない」

「八田先生、あなたに見ていただきたいものがある。我々の技術が産み落とした、新しい手足です」

会談の後、康政は二人を伴って工廠の裏手に広がる演習場へと足を運んだ。むせ返るような土の匂いの中、異様な駆動音が響いている。出迎えたのは、設計図面を小脇に抱えた二人の技術者であった。工廠の技術主任である 二階堂(にかいどう) と、彼のもとで図面を直感的に読み解き、生まれ持った才能を開花させつつある台湾出身の若き技術者、 呉明輝(ウー・ミンフイ) である。

「八田先生。アメリカから輸入した旧式の蒸気機械は、重量対出力比が悪く地形の起伏に追従しきれません。我々が構築したのは、純粋な内燃機関による重機です」

二階堂が冷静な口調で解説しながら、背後の巨大な塊を指さした。八田は足を踏み入れた瞬間、目の前の光景に息を呑んだ。蒸気機関特有の黒煙を一切上げない。腹の底を打つような、内燃機関特有の重低音を唸らせる鋼鉄の獣が、そこにあった。車輪ではなく『 無限軌道(むげんきどう) 』を履いたその車体は、 悪路(あくろ) をものともせずに突き進み、前方に備えられた分厚い 排土板(はいどばん) が、大人が見上げるほどの巨大な岩と土砂を押し退けていく。

「信じられん。土木機械で、これほど力強く動くとは。だが、航空機用の発動機を積んだわけではあるまい」

八田の鋭い問いに、明輝が一歩前に出た。若いが、その目つきは論理を組み立てる純粋な技術者のそれであった。

「ご推察の通りです。航空機用の発動機では、悪路を這い進むための低速での牽引力に欠けます。この車体の中枢は、将来的に世界中の道を走るであろう『自動車』への供給を見据え、一から設計した汎用の 揮発油(ガソリン) 機関を採用しています」

明輝は図面の一部を開き、動力伝達の構造を指でなぞった。

「図面上の最大の課題は、高回転の出力をいかにして土を削る力に変換するか、でした。高回転のままでは 履帯(りたい) が空転するだけです。ゆえに、機関と履帯の間に極厚の鋳鉄で構成された多段 減速機(げんそくき) を噛み込ませました。回転数を落とす代わりに、凄まじい 粘り(トルク) へと変換する機構です」

ただ穴を掘るためだけに無骨な機械を造るのではない。未来の産業の中枢を、今の土木作業に転用する合理的な設計の極み。そして何より、まずは「土を押し退ける」という最も過酷な機能に特化して車体をまとめ上げた、現場を知り尽くす者ならではの堅実な設計思想。

八田の瞳の奥で、技術者としての狂気じみた炎が燃え上がった。烏山頭堰堤を完成させ、もはやこの島で自分の成すべき大仕事は終わったのだと、どこかで冷めかけていた心が熱く沸騰していくのを感じる。濁水渓の暴れ川も、この重機と数万の労働力があればねじ伏せられる。

「……康政君。これほどの牙と手足を、私の好きに使っていいのだな。」

「ええ。存分に」

八田は土に塗れた排土車の装甲を叩き、少年のように笑った。

「ならば、あの山で暴れる竜に、私が首輪をつけてみせよう」

数日後。 朝靄(あさもや) の残る高雄の労働者宿舎に、凄まじい歓声が沸き上がっていた。夜明けとともに配られた『極東公論』の号外。インクの匂いが真新しいその紙面を、字の読める 年嵩(としかさ) の親方が、震える声で読み上げている。

『中部の荒野を、東洋最大の穀倉へ! 新たなる大事業、中部水利開発ついに始動!』

『完工の暁には、従事者全員に彰化平原の農地を付与す! 自らの手で、自らの豊かな領地を拓け!』

親方の周りを囲む男たちの顔には、数日前までごく一部で囁かれていた「工事が終われば仕事がなくなる」という暗い不安など微塵もない。

「おい、聞いたか……! 俺たちの土地だ! 日雇いの土方じゃねえ、自分の畑が持てるんだ!」

「東洋一の黄金郷を、俺たちの手で創るんだ!」

地響きのような雄叫びが、宿舎群を揺らした。ただ金のために土を掘るのではない。自分たちが新しい歴史を作り、未来の己の領地を切り 拓(ひら) くのだという熱狂の炎が、数万の男たちの心に燃え広がっていた。彼らは次々と荷物をまとめ、使い慣れた鶴嘴を肩に担ぎ直した。その顔には誇り高き開拓者としての決意に満ちた光が宿っている。

やがて、高雄の街角を、膨大な数の男たちが北を目指して歩き出した。彼らの列に付き従うように、無限軌道を履いた鋼鉄の排土車が、油の匂いと内燃機関の重低音を響かせながら進んでいく。南部を熱く焼き上げた工業の熱気は、新たな国力の源となる中部へ向けて、確かな地響きとともに力強く広がっていった。