軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

6章9話 サン・フルーヴの神術使いたち

大神官ピウスを失った神聖国の神殿上層部は、混迷を深めていた。

大神官が死去した際には、神聖国では国葬となり、国中が半年間の喪に服すとされている。

鎹の歯車から遺体を回収できないと知った枢機神官たちは、来るべき時に備えて準備していたピウスの身代り人形を棺へ納めた。

身代わりとは手回しがよいことだが、どのみち融解陣を負っていたピウスが死去する際には遺体は残らないはずだったと枢機神官たちは答える。

地上に戻り、大神官の館へ女帝とともに同行したファルマは、女帝を休憩室で休ませつつ、鎹の歯車の中で聞いた声以外の情報を包み隠さず枢機神官らに話し、ピウスは助けられなかったと弁明した。

客観的事実として女帝は命をとりとめ、ピウスは助からなかった。

故意ではなかったとは立証のしようがなく、嫌疑を晴らすこともできないまま事情聴取はそれで終わった。

「ピウス聖下のことは、いかんともできませんでした」

ファルマがそう言うと、神官の一人はファルマに共感の言葉を寄せる。

「仕方がありません。私どもも、まさか鎹の歯車の蓋が開くとは予想できませんでした」

それを皮切りに、場を取り仕切っていた枢機神官たちが重い口を開いた。

「あなたが咄嗟に蓋を閉じてくださらなければ、神聖国はあのまま瓦解し消え去っていたでしょう」「我々はあなたに助命されました、ありがとうございます」

とはいえ、予定外のタイミングでピウスを失ったのは痛手だったのだろう。彼らは茫洋としていた。

「葬儀のかたわら、次の融解陣を負ったものを探し出さねばなりません。次の大神官を選出しなければならないのです。表向きには大神官は選挙で決まるとされていますが、実情はさきほどピウス聖下がお話しした通りです」

「それって……全て元通りってことですか」

「そうです。それ以外に、やりようがないのです。鎹の歯車のことなど、誰も知らないのですから。守護神様でさえも――」

生贄をうけ継いでゆく悪夢の連鎖は続くのだとファルマは静かに理解した。

対外的に大神官は、大神官選挙と呼ばれる選出過程を経て推挙されるということになり、大神官選挙が終わるまで、大神官の座は空席となるようだ。

「融解陣を負った者は、そう遠くにはいないと思うのですが。新たに見出されるまで、神聖国の国境を閉鎖します」

通例では、融解陣を負う者は神聖国の人間にしか現れず、枢機神官の中に現れることが多いとのことだ。その日のうちに枢機神官たちが強制的に集められ、一人ずつ背に融解陣がないかを検めた。

だが、該当する者はなく、枢機神官たちの間に動揺が広がりはじめた。

「こんなことは異例だ。枢機神官の中に見当たらないなど……この場合、どうなってしまうんだ」

「融解陣はもう、継承されなくなったのでは」

「いやそんなはずはない、どこかに現れているはずだ」

などと話し合っているので、ファルマはちらりと女帝の背に目をやり、診眼で現状を確認する。

(そりゃ見つからないだろう。融解陣を請け負ったのは女帝陛下だからな……でもここで言うのはナシだ。融解陣が枢機神官の中にしか現れないっていう先入観があって助かった)

ファルマは息をひそめ成り行きを見守った後、「陛下もお疲れですので、私たちは部屋で待機しています」、と控室へと退散した。

暫くするとサロモンとジュリアナらが部屋に入ってきて、部屋に施錠した。そしてサロモンがファルマに話しかける。

「陛下におかれましては、気を抜けない情況になりましたな……枢機神官は、血眼になって融解陣の担い手を探すでしょうし」

「でしょうね。サロモンさん、ジュリアナさん。念のためお尋ねしますが、次の闇日食の日って、いつですか?」

「はい、それを調べてきたのですが……判明しました」

二人は顔を見合わせ、ジュリアナのほうからファルマに伝える。

「来年の8月です。現在12月ですので、9か月しかありません」

「厳しいな……陛下を鎹の歯車に近づけないようにすればいいのか」

「はい。その時期に皇帝陛下が神聖国に滞在しておられるのは危険です。枢機神官たちに知られていない今の間に、帝都に戻るのがよろしいかと」

(来年の8月まで持たないパターンもあるな)

ファルマはぼんやりしてはいられないと思い知り、少し時間をあけてクララを控室に呼んでもらった。クララはファルマの顔を見るなり、安心したのか半泣きになってしまった。

「薬師様! ご無事でしたか! 大神官様がお亡くなりになったと聞きました……。すみません、お力になれなくて」

クララは悔しそうに俯いた。

犠牲者が出るのを止められなかったことを、悔いているのだろう。クララが死者を見分けられるという能力は、旅の結果亡くなる人間に対してであって、ピウスは神聖国から動いていないので、見分けられなかったのだという。

「大神官様はこのたび旅人でないので、私には命運が見えなかったみたいですん……」

「いや、ありがとう。自分を責めないでくれ。君の予言があったから気を抜かずにずっと警戒していてよかったよ。もっと犠牲者が出たかもしれないからね」

「そ、そうですかぁ。最悪は脱しましたが、まだ胸騒ぎがするのですん……ここではなく、どこか遠くのほうで」

「それは帝都のほうで?」

「はい……そんな気配もしますん。ここにいる皆さんは、無事に帝都に戻れますん」

「そうか。ピウスさんが亡くなってまた潮目が変わったのか。早く帝都に帰った方がいいな。ところでクララ、君の目から見て、陛下はどう見える?」

「……陛下は、陛下のままですん」

(融解陣の影響が見えていないのか? それとも9か月先が見えないだけなのか)

ファルマはクララの言葉に疑問をいだきつつ、ベッドで眠り続ける女帝の容体を見守る。

(例えば、融解陣を破綻させられないか? 皮膚を一部切除すれば、陣は崩れるし)

ファルマは以前、火神紋が一部欠けているために守護神が宿らなかったという話を女帝から聞いたことを思い出した。神術のあるこの世界では、神術陣の形態は重要な意味を持つらしい。

それでは融解陣の一部を欠けさせれば、死を免れられるのではというアイデアは、やってみる価値はあると考えられた。

そういえばとファルマはベッドに横たえられた女帝の掛布をめくり、ふくらはぎの火神紋を確認する。火神紋に変化はみられなかった。

火神紋は相変わらず不完全で、そのうえさらに融解陣が彼女の背に刻まれたらしい。

(もしくは、融解陣を書き足して意味をなさない紋様にしてしまうのが正解か……? でも、そうするとまた、融解陣は誰かに乗り移るんだろうか。ん? そもそもこの融解陣って何でできているんだ?)

根本的な問題を見逃していた。

ファルマはこれまで、女帝に宿った融解陣やファルマの肩に宿る薬神紋と呼ばれるもの、いわゆる聖紋に類するものが一体何なのか、調べたことがなかった。ただの火傷痕だと理解していたのだが、時折発光したりもするので、その解釈にも無理がある。

女帝の背中を診眼で見て光って見えたということは、火傷だというばかりでなく、何かの病変であるという可能性も排除できない。

ファルマはすみやかに診眼に問うた。

「熱傷。肥厚性瘢痕。ケロイド」

(違う……)

「感染症」

(光が薄くなった)

なんとなく言ってみたのだが、正直想定外のことだった。

「細菌感染、ウイルス感染、寄生虫感染」

絞り込みをかけようとするが、反応はそれ以上変わらない。

基本的に、ファルマの診眼の能力は手あたり次第に病名や症状を言っていけばいつかは当たるものなので、病名のマージンを広くとってから絞り込んでいるのだが、どうも特定に一筋縄ではいかないようだ。それに、病名を知らなければ、永遠に特定できないというトラップに陥る。

診眼は参考にすべき程度で、絶対的に依存してはいけない。

(何の感染症なんだ!? 帝都に戻って詳しく検査をしてみるか……診眼が使えないとなると)

彼は未知の疾患にも視野を広げる。先入観を取り払ってみれば、病態が潜んでいるかもしれない。ファルマが診眼を閉じ深呼吸をした時、女帝が目覚め小さく欠伸をした。

ファルマは目をこする女帝の傍に、つとめて平静を装いつつ彼女を窺う。

「陛下。お目覚めですか。お加減はいかがですか」

「背中が熱いのだが……何がどうなった。思い出そうにも、殆ど記憶にないのだ」

女帝は背に違和感があるらしく手を背面に伸ばしたので、ファルマはその手を取る。

「陛下は先ほど、鎹の歯車の蓋が崩壊し落下した際に背中に負傷なさいましたので、私が応急に処置を行いました。炎症を起こしますので、ご自身では掻いたり触れたりしないようにお気を付けください。こちらの鎮痛薬と炎症をおさえる薬をお飲みください。私が経過を観察してまいります」

「そなたが処置をしたのか。ならば不満はない。私はそなたに全幅の信頼を置いておるからな」

しかし、そう言う女帝の語気には力がない。

「私は陛下の主治薬師ですから、当然のことです」

ファルマは融解陣の正体が掴めないことをもどかしく思いながら、女帝にいたわりの言葉をかける。

女帝は何かをファルマに訊きかけたが、思い直したように首を振り、さっぱりとした様子で笑みをこしらえた。ピウスと同じ融解陣を負ったと、悟ったのだろうか。

ファルマが目にするその笑顔は、どこか諦念を含んだ痛々しいものだった。

女帝は腹部をぽんぽんとやって、おどけたように、「さて、余は小腹がすいたぞ」と言ってみせた。

「食欲がおありになるのは結構でございます。神聖国に食事を用意してもらいましょう。ただ、陛下、食事の席ではお背中の負傷のことは伏せておかれたほうがよいかと存じます」

これはファルマはどうしても釘を刺しておきたい部分だった。

女帝が融解陣を負ったと、誰にも知られるわけにはいかない。女帝自ら、背に違和感があるなどと口走られては、場所が場所であるだけに、神聖国側に背をあらためられるに決まっている。

「うむ。一国の皇帝たるもの、不調を他国に知られるわけにはいかん。そうであろう」

「御意のままに」

(物分かりがいいな、陛下。助かるよほんと)

女帝らは正餐の席で祈りとともにピウスの死を悼み、帝国へ戻る旨を神聖国側へ伝えた。

ピウスの葬儀までにはまだ期日があったし、政務に戻らなければならないとの意向を示したところ、神聖国側はそれをすんなりと了承した。

「服喪の期間に入るとなれば、私も自国の国務へ戻らねばならぬのだが、帰郷してもよろしいか」

「は……道中お気をつけて。神聖国の騎士団に送らせましょう」

「心配には及ばぬ、自分の身は自分で守る」

女帝が淡々と断ったので、枢機神官は余計な気を回したかというように肩をすくめた。

「大変無礼を申し上げました。ですが、神官長のコームをサン・フルーヴ帝都に帰任させますので、お供をさせましょう。帝都神殿の秘宝が、何者かによって盗まれたとのことです。早急に秘宝を持って帰らせねばなりません。秘宝を盗まれた神殿は、脆弱になります。ただでさえ帝都神殿は人員が不足している折ですから」

「何者かに盗まれた? 神殿は警備が手薄になっているのではないか。それはそうと、帰国する前に新たな大神官選出の動向を知りたいものだが」

「それが、まだ候補者を発見することができません。追ってご報告申し上げます」

食事をしながら傍で聞いていたファルマは、彼らが女帝が適格者だと知らない態度をとったのでひとまず安堵した。ちなみにもう、ファルマの食事に異物は混入していなかった。ファルマはふるまわれた料理を美味しく感じた。

「では後継問題が解消したら、報告をよこしてくれ。あらためて就任祝賀の使節を遣わせる」

女帝はそう言って席を立った。女帝が去ったあとファルマが、神聖国の今後の動向をあらためて尋ねる。何か協力できることがあれば、声をかけてほしい旨を伝えた。

枢機神官が話すには、大神官の後継が見つからなければ、神聖国は大神官空位のまま組織を大幅改編しなければならないとのこと。

「暫くの間、神聖国大神官が空位になるのは、行政上は構わないのですが、大神官の執り行っていた非常に重要な神術儀式ができなくなりますので、深刻な影響が懸念されます」

「深刻な影響というのは」

「神聖国を中心に各地に展開されていた神術陣が破綻し、鎮められていた各地の悪霊たちがさまよい出てくると予想されます」

「その儀式というのは、例えば私には代行できないものですか?」

ファルマの申し出に、枢機神官はよほど意外だったのか顔を見合わせた。

「融解陣を負った、たった一人にしかできません。他の誰でもはできず、長い修練を積んだ者にしかできないことです」

(融解陣を負った者は、自分の命と引き換えに、悪霊を退ける地鎮のようなことができるってことか……)

ファルマは予想外の影響に戸惑いながらも、女帝とともに帰途につく準備をはじめた。

…━━…━━…━━…

悪霊に噛まれ、そのまま意識を失ってしまったロッテは、ド・メディシス家に戻された。

彼女の肌は時間を経るごとに青白くなり、体温も低下しはじめていた。

エレンとパッレが様々な神術や解呪薬の処置を施しても、いっこうに目覚めようとはしない。

翌朝、一晩中働き通しで疲労困憊といった様子の帝都の神官がやってきて浄化神術で解呪を試みたが、同じだった。

時間をかけて呪いを分析すれば解呪の糸口もつかめるかもしれないが、帝都中に悪霊が発生して人々に害を成しているらしく、ロッテだけのために特別な対応は難しいとのことだった。

「神官様、シャルロットはどうなってしまうのでしょうか」

「私には手のほどこしようがありません」

「そんな……何でもしますから。助けてやってくださいまし」

「平民の子供ですから……悪霊に弱いのです。運が悪かったと思ってください。しかしタチのわるい悪霊です。これほどまでに神術が効かなかったことはない……守護神様のご加護のあらんことを」

神官は術が効かなかったので形ばかり同情をするそぶりを見せつつ、体裁悪そうに屋敷を去って行った。

「そんな、この子は……本当に助からないの?」

神官が帰ったあと、母のカトリーヌはロッテが助からないと思い込み、ロッテの手を握りしめさめざめと泣いている。ブランシュも、仲の良かったロッテの急変を受け入れられないようで、ロッテに抱きつくようにしがみついていた。

エレンは、古文書を調べながらロッテの容体を見守り、そしてことごとく解呪のための神術や解呪薬を試したパッレは、腑に落ちないといったように部屋の中を歩き回っていた。

「パッレ君、わるいけど気が散るからじっとしていてくれる?」

「エレオノール、お前は変だと思わないか」

パッレは出窓に腰を下ろし、脚を組んでふんぞりかえる。

エレンも困ったようにベッドサイドで両手を合わせた。

「ええ……これはただの悪霊ではないと思うわ。浄化神術も効かないってよっぽどよ。こんなときに、ファルマ君がいたら……いいえ、やめましょう、いないのだから」

旅程から考えると、ファルマはどんなに早くてもあと数日は戻らないのだ。伝書鳩を神聖国へ飛ばしたとしても、数日はかかる。この場にいる者だけで、何とかするほかなかった。

「父上にお願いすれば、ロッテの呪い解けるよね?」

ブランシュが涙目でうったえる。

「それはどうだろうな。父上の使う術は病の治療には効くが、悪霊退治にかけて神殿の浄化神術を上回ることはないからな」

「大きい兄上のばか! 父上は悪霊になんて負けないもん!」

そんなやり取りをしているときだった。窓際に腰かけていたパッレは、背筋をぞくりとさせ、窓の外を見おろす。

メディシス家の裏庭のよく整えられた芝生が、とある一点から急に拡大し、あたかも生の気配を食い破るかのように見る間に枯れてゆく。

「待て……何か出やがったぞ」

そしてしばらくすると、地面から悪霊と思しき影がふわりと漂い、獣のように四つん這いで這いまわりはじめた。悪霊は人霊や動物霊などが多く、古戦場や墓地だった場所などからは特に出現する確率が高い。

神術陣の敷かれているド・メディシス家の敷地内で、悪霊が発生したのは初めてといっていい。

「は? ……ここにも湧いて来たのか?」

いち早く異変を見つけたパッレは、杖を抜いて制御装置を解除した。

彼は無防備なファルマとは違い、肌身離さず杖を帯びている。

「どうしたの?」

「悪霊だ」

「悪霊⁉ メディシス家に⁉ そんな馬鹿な! 退治しなきゃ」

「なあに、俺一人でいい。ノバルートではよく見たもんだが、久しぶりだな」

彼は窓を開け放ち、四階から躊躇なく窓から飛び降り、落下しながら杖を振る。

発動詠唱を与え、空中で上位神技を発動した。

「”――実戦時制限解除 下限 水の巨神”」

「ちょっ! パッレ君⁉ 制限解除って何⁉ 何、その神技⁉」

エレンが窓から身を乗り出し面食らっている間に、パッレは神力を爆発させ、神術で水の巨人を創り出し軽やかにその背に乗った。世界各地に伝わる神術を研究しつくしたノバルート仕込みの神術体系は、革新系神術と呼ばれ、帝国のそれとはまったく異なると言われている。一つずつの神技の消費神力が莫大であるがゆえに、神術の術式から術者を守るため、出力に制限を設けるのもノバルート式だ。

そんな神術をおさめていたパッレだったが、普段はその片鱗を見せることもなかった。

身をもたげる巨人は、腕を拡げてはじめてその威容が分かる。

この系統の神技としてはエレンも見たことのないほど巨大で、メディシス家の屋敷の背丈を越えている。

「どうやって制御しているの、あんな水の量……」

流麗な動作と的確な操作は、パッレが続けてきたたゆまぬ訓練のたまものだ。

パッレの瞳は、普段は見せない残酷な輝きを宿していた。

「”巨神の断罪”」

パッレは杖で軽く指示を与えると、巨人の振り下ろした氷の拳に圧潰され、悪霊たちはさらに巨神の体内に取り込まれ、一体も残らず消滅した。

パッレは水の巨人を消さず、そのまま氷の巨人にし、メディシス家の敷地を見渡し、さらなる異変がないか目を凝らす。中庭に一か所黒い染みを見つけたパッレは、悪霊が湧いて出ると同時に根絶させた。

「これで終わりとは思えねえなあ……暫くは気を抜かない方がいいぞ」

「パッレくん! ――が――になってるわ――!」

エレンが四階の窓から、声を張って叫んでいる。

パッレはエレンの声が聞きとれなかったため、巨神に乗ったままエレンのいる窓に近づいてきた。

「ああ? お前、何言ってるか聞こえねーぞ」

「見て! あそこ!」

エレンが窓から半身を乗り出し、帝都の中心部を指差している。

そこは半径数百メートルにわたって、不自然に黒い霧が立ち込めていた。

「あの霧……あそこだけ立ち込めて、真っ黒。普通じゃないわよね……あっ、向こうでも新しい霧が発生したわ。どうなってしまうの?」

「帝国薬学校のある方向だな」

「大変……! お師匠様に知らせなきゃ」

「わかったぞ、神殿の秘宝が盗まれ、帝都全体の守護神の加護が弱まっているから、悪霊の力も増しているんだ……つまり、守護神の加護が戻ればシャルロットの呪いも解ける。帝都中で発生している黒い霧を払えばいい」

「どうやって霧を祓うのよ! 風属性の神術使いを呼ぶしかないわ、私たち水属性では霧に対してはどうしようもないわ」

二人がそんなやり取りをしている間にも、メディシス家の庭に黒い霧が立ち込め始めたように見える。

「そうでもないぜ。こっちも神力をたっぷり含んだ霧を使えばいい」

「ええっ!?」

「”濃霧の壁!”」

パッレは霧の壁を神術で現出させ、黒い霧にぶつけた。すると、パッレの霧が衝突した部分は相殺されるように霧が消えて闇が振り払われてゆく。あっという間に黒霧はかき消えてしまった。

「この戦術は効くらしいな。ならばあの霧のところへ行ってくる、直接な」

「パッレ君、さっきから神力を使い過ぎだわ! 出力過剰に気を付けて!」

「それを俺に言うなよ。エレオノール、お前はシャルロットを見ていろ。なあに、短時間でカタをつけてやる」

エレンがパッレに注意を促すが、パッレは聞き流す。

エレンが心配しているのは、パッレはよく、神力を一気に使いすぎて昏倒してしまうことがあるとファルマに聞いたからだ。

(どうしよう……今はまだ悪霊の発生が少なくてパッレ君は楽観的に考えているけれど、悪霊はどんどん湧いてくるわ。……帝都の中に、死者と因縁のない場所なんてないもの。この悪霊の大発生がファルマ君がいなくなった反動だとして、守護神の加護もなくなったなら)

神術使いの神力が尽きるまで悪霊が湧いてきて、帝都は闇の都になってしまう……とエレンは危惧する。

そんなエレンの気も知らず、パッレは巨人を変形させて薬学校へ向けて氷のスロープを創り、その上を滑走しはじめた。現場まで最短距離で駆け付けるつもりのようだ。

「ひゃーーっはー!! 有事だ有事だーーっ! 天変地異だぞー!」

「なんて楽しそうなの。あの人、めちゃくちゃだわ……」

仮想敵とばかり相手をしていたものだから、いざ実戦となると嬉しくて仕方がないのだろうなとエレンは推察する。しかし、パッレの強気な姿勢はエレンを多少なりとも勇気づけた。

(しっかりするのよ)

エレンは自らの頬を打って、気弱になりそうな心を奮い立せた。

ド・メディシス家の神術使いの聖騎士たちは、ブリュノの警護や薬草園の見回りに出かけていて、屋敷に残っているのは家族と財産を守るわずかな聖騎士と、武装しているとはいえ平民の騎士しかいない。

ブリュノは薬学校へ、パッレも黒霧を払うために飛び出していった今、メディシス家に近づく悪霊と対峙できるのは、実質的にエレンしかいないのだ。

ロッテを見守りながら、悪霊を駆逐する。これが彼女に課せられた任務だ。

エレンは杖をしっかりと構えて腰を落とし重心を下げ、どこへ悪霊が現れるものか目を凝らしていた。

すると真後ろから神力を伴った風圧が生じ、彼女は爆風でにわかに吹き飛ばされた。

「っ――!」

風を受けた方向を見ると、風が地面を穿ち、庭園を抉り込んでいた。

エレンの目の前を黒い霧がさらさらと流れ、風にさらわれてゆく。悪霊が消滅したばかりのようだ。

「悪霊があなたに襲い掛かろうとしていました。背中がすっかりお留守でしたよ」

エレンが振り向くと、メディシス家当主の妻、ベアトリス・ド・メディシスが庭園に姿を見せた。

ベアトリスは貴婦人のドレスを脱ぎ捨て、華奢な甲冑に身を包み、瀟洒な宝杖を一振りする。

杖マニアのエレンも初めて見る、ベアトリスの生家であるダンハウザー家の宝杖。ベアトリスが普段携行していないものである。

家紋の三首の神鳥をあしらった杖をその手に携え、彼女は戦闘態勢に入っていた。

ベアトリスの登場に面食らっていたエレンは、我に返って叫んだ。

「奥様。危険ですから、お屋敷の中に入っておいでください!」

ベアトリスの身に何かあったら、ブリュノやファルマたちに申し訳が立たない、とエレンは彼女を案じる。

しかしベアトリスは毅然として首を左右に振った。ベアトリスを追って平民の使用人たちも外に出てきた。

「奥様!」

「危険? ふふ、冗談。当主の妻が、安全な場所でのうのうとしていられますか。ここは、わが屋敷です。何者の侵入も許しません」

高潔な佇まいの中にも、どこか余裕のようなものが見え隠れして、エレンは彼女の意外な一面に圧倒される。

ベアトリスの神術の腕は、未知数。ブランシュが時々相手をしてもらっていたとは言っていたが……。そんなエレンの疑念をあざ笑うかのように、優雅な動作でベアトリスは宝杖を抱えた。

「”聖竜巻”」

立ち込めてくる黒霧を、ベアトリスの神術が弾き飛ばす。その神技は端麗で、よく磨き上げられたものであった。通常の神技とは違い虹色の光跡を持つ竜巻に、エレンはすっかり魅了される。

「お見事です、奥様」

「ふふ、杖のおかげだわ」

エレンはベアトリスの勇気に敬意を表した。

「とはいえ、悪霊の発生を待ってそれを各個駆逐してゆくのは非常に非効率的です」

「はい……ではどのように」

「あなたは賢いのだからもっと頭を使いなさい、”破邪狂飆の大神陣”をご存じ?」

ベアトリスはにこっと、上品な笑顔をエレンに向ける。

エレンの実力に全幅の信頼を置いている、といった具合に。

エレンはベアトリスの言葉にはっとさせられたように息を飲む。水属性と風属性、二人いれば共鳴神技ならびに、共鳴神術陣が使えるのだ。

そして彼女は冷や汗をかきながらも、強気な微笑みを浮かべた。

「はい奥様! お師匠様に御教示いただきましたわ」

「そう、よかった。いくわよ」

エレンとベアトリスは杖を逆手に取り、一斉に逆方向に走り出した。

広大な敷地面積を誇るメディシス家の周囲に沿って駆け抜けながら、長詠唱とともに空中に踊るように陣を描く。神力を少しずつ解放しながら神術陣の領域を閉じるまで駆け続けるこの神技は、体力と神力の消耗が著しい。だが、エレンもベアトリスもへたれはしなかった。

詠唱を続けると杖が重く感じ、息が上がってくる。

しかしエレンが薬草園の曲がり角をターンすると、遠くから猛然と疾走してくるベアトリスと目があった。その姿は気高く、エレンの目を通しては後光すら差して見えた。

「陣を閉じるわよ! しくじらないで」

「はいっ!」

神術陣を敷設しながら周回し、再会したエレンとベアトリス。

彼女らは手を伸ばし、発動詠唱とともに杖と杖を合わせフィニッシュを決める。

「"水神と風神の名において命ずる、あしきものは畏れわきまえ、聖域にはたちいるべからず"」

「"いとたかきところにます神々の 世々に続く威光を示さん"」

その瞬間、二人の神力が融合する。

「”破邪狂飆の大神陣”!」

二つの杖が合わさったそばから陣が閉じ、空中に青白い神術陣の発光が現れ、作用場が確立する。

敷地内に張り巡らされた神術陣の陣形が空中に固定され、同心円状に暴風雨をもたらし、メディシス家は竜巻の中に守られる。

完成したのは、陣の中心を聖域とし一定領域を風雨で浄化し続ける神術陣だ。

その暴風雨は、見た目の派手さとは裏腹に人間には殆ど悪影響せず、悪霊に覿面に効くものだ。これで、家の周囲で悪霊が発生したとしても、接近を許さない。

エレンが神力計で神力消費量を確認すると、その日に一度に放出できる神力の95%を消費した。

だが、もはや悪霊は侵入できない筈だ。理論上は。ベアトリスは杖を下ろしながら、エレンに笑いかけた。

「さすがだわ。この私の神力と釣り合うとはね」

「ありがとうございます、奥様」

エレンが帝都の中心部に再び目を向けると、帝国医薬大のあたりに存在していた黒い霧が水の壁によって打ち消され、ちょうど二つ消えたところだった。

「お師匠様が上位神技を使われたのだわ」

エレンは無意識のうちに、ファルマの帰還を切に願っていた。

彼が帝都にいたなら、そもそもこんなことは起こらなかったのではないか、そんな予感がしてならないのだ。

(ファルマ君だったら何をしろというかしら。ロッテちゃんのこと……そして帝都全体の異変に、彼なら何をしようとする?)

エレンはファルマのこれまでの行動を一つ一つ思い起こす。彼は熱くなったように見える時でも、客観的な視点を忘れなかった。ときどき向こう見ずだったりもしたが、それは彼なりの行動原理のもとに判断を下していたのだろう。

(現象の観察をするわね)

有事には情報を的確に収集しなければならない。

エレンは頭を冷やさなければと自らに言い聞かせた。