軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

6章10話 禁術系列

ファルマは神聖国を去る前日、そういえばと思い出して、Wi-Fiを利用してありったけの情報をスマホへとコピー、ダウンロードした。鎹の歯車のWi-Fiの電波状況は変化なかったので、これ幸いと収集しつくした。

(今度は大容量ストレージを用意してこないとな)

今後は定期的に神聖国へ立ち寄る理由ができた、情報のためだ。

ファルマが記憶できていなかった情報、覚えられなかった薬剤、遺伝子配列情報、バイオインフォマティクスを、前世とほぼ変わらない方法で入手できるのはこの上ない強みだ。

生命科学情報は新たな薬剤を生み出す生命線となる。

女帝の融解紋を癒すために必要と思しき情報は特に念入りに収集した。

プリントアウトができないのが寂しいが、スマホのストレージがパンパンになるまで詰めた。

翌日、女帝一行は出発の前、喪に服した神聖国から簡単な送別のセレモニーを受けた。

渦中の人である女帝は、背中の融解紋を気にする様子もなく、堂々としたふるまいで式典に参加した。

神聖国に対しては、大神官の不在によって予想される混乱を気遣う殊勝な態度を貫いた。

「では、皇帝陛下。息災をお祈りしております」

「うむ、帝国からも使節を送ろう」

「それから、サロモンの処遇は、陛下のご随意に」

新任の枢機神官長が、女帝に意味ありげに目配せをして述べた。それを聞いた女帝は怪訝な顔をしたが、すぐに気づいて豪快に笑う。

「ははは、お見通しだったというわけか。あの者は余がもらい受けてよいのだな!」

「破戒神官にはいずれ、身をもって罪を償わせるつもりではあります。逃亡者ジュリアナも含めてです。それまでは、しばし陛下にお預けしておきましょう」

「その方らも食わせ物よのう」

サロモンとジュリアナが随行していることは、すっかり見破られていたようだ。

女帝は豪快に笑いながらゆったりと顔を扇子であおぐ。神聖国の神官と聖騎士たちが整列し、女帝の馬車列の周囲に並ぶ。

彼らに見送られ、女帝とファルマたちを乗せた馬車列は神聖国の門をくぐった。

帝都神殿へ戻るコームら五名の神官も、女帝らの一団とともに帰国の途につく。

(やっと帰れそうだ……問題は山積みだけれど)

神官と大きなもめごともなく帰国の運びとなったが、ファルマの気がかりは女帝のことだ。

女帝を伴って神聖国に行かなかったとして、彼女は災禍を回避できただろうか。

ファルマはそうは思わない。

(融解紋の治療法はない、発動すれば100%死ぬ。でも、感染症である限り、何としてでも治療法を見つけてみせる)

帝国への帰路となるカシーア大街道は、神聖国によって敷設された舗装路のひとつで、周辺国家の主要都市間をつなぐ人と物流の大動脈でもあった。

行商や民間人の人通りも多く、神聖国から数十キロ圏内は街道に沿って宿場町が存在する。

神聖国へ各国の国王、貴賓、高官などが神聖国を訪問する際には、貴賓館という神聖国の公的施設を利用することができる。

ファルマは、神聖国からほど近い神聖国の隣国のエルヴェティア王国の二つ目の貴賓館で女帝一行と昼食休憩を終え、川辺の木陰のベンチに腰掛け、貴賓館に面する商店街の人々の往来を眺めながら、融解陣を治癒するための思索に暮れていた。

「ファルマ様、ここにいらしたのですね。お飲み物をお持ちしました」

ジュリアナがファルマに、温かいハーブティーのカップを持ってきてベンチの隣に座る。

「ありがとう、ジュリアナさん」

「陛下のことを考えておられますか?」

「ん……そうだね。今は一人で色々考えたいんだ。ごめん」

「そうですか、お邪魔をしました。侍従長より伝言です。馬を休めたら、午後すぐに出発だそうです。出立の時間をお知らせにまいりますね」

「ありがとう」

ファルマがハーブティーを飲み干しながらぼんやりとしていると、商店街の片隅で小競り合いの声が聞こえてきた。中年の男店主と、客と思しき少女の悲鳴の混じった声が耳に入る。

「どうしてもその神術の水と聖別薬草が必要なんです。売ってください! 母がそれを待っているんです」

「だめだだめだ。悪霊が現れる噂が広がって聖別薬草が品薄になってる、それっぽっちの金じゃ貴重な神術薬を売るわけにいかねえ。とっとと帰ってくれ」

取り合ってもらえず、銀貨を握りしめ茫然自失としながら、あてどなく商店の路地を歩いてこちらへやってくる、十代前半と思しき平民の少女に、ファルマの視線は固定された。

その直後、彼女に目をつけていた物盗りが背後から荷物を強引にひったくって少女を突き飛ばすと、雑踏の中を風のように走り去って行った。

一部始終を見てしまったファルマはハーブティーを飲み干してベンチから腰を上げ、精魂尽き果て路傍にへたりこんだ彼女に近づく。

そして、優しく見下ろすと、助けの手を差し伸べたのだった。

「大丈夫?」

ファルマの整った身なりを見た少女は、助け起こされて慌てるばかりで、礼をすることもできずただ萎縮し硬直していた。ファルマは彼女の、穴だらけの上着についていた泥をぽんぽんと手で払いのけた。彼女の革の靴の先は破れ、足の親指がのぞいている。

「ああ、ありがとうございます。なっ、何とお礼を申し上げてよいか」

「災難だったね」

「差し出がましいかもしれないけど、さっきあなたが買おうとしていたものを買わせてもらえる? お母さんが薬を待っていると聞こえたよ。何が必要なの?」

温かい言葉をかけられたからか、少女の両目から大粒の涙がほろほろと零れた。

「アルブール。それを、この店で売っているって?」

「この薬店にしか置いてないんです。でも、また追い返されるかもしれません」

頷く少女とともに先ほど冷たくあしらわれた薬店の前にやってきて、薬店の入口の営業許可証を見たファルマは首を横に振った。

「ここでは買わない方がいい。店主は平民薬師なのに、神術薬を売っていると言ったの?」

「貴族の薬師様から、えーっと、調合の材料を買って調合をしたのだそうです」

少女は神術薬に何の疑いもないらしく、たどたどしく説明をした。

「たとえ材料を買いつけたとしても、平民薬師には神術薬は調合できないんだ。調合されたものは偽物だよ」

ファルマは一人で店の中に入ってゆき、アルブールというラベルの付いた薬瓶を見て手に取り、すぐに贋物だと見破った。そして顔を出した店主に一言放った。

「店主。神術薬を標榜して偽物を売ってはいけない、この店では神術薬の調合はできないはずだ。この薬には神力がまったく含まれていない。これは詐欺薬だ」

「な、……大人しく聞いてりゃ……フルーヴ訛りのクソガキが! 出ていけ!」

ファルマの話し言葉の中に帝国のなまりを聞き取ったらしく、店主は露骨に悪態をつく。

「だいたい、何を根拠に神術薬を偽物だと言いやがる。お前のようなガキに薬の何がわかるってんだ」

「確かにこの国の薬師の調合には詳しくない。だが、神術薬か否かは一目瞭然だ。神力を感じない」

「ぬかせぇ!」

頭に血が上ったのか、店主はいきなり殴りかかってきた。

ファルマは店主の攻撃をするりと躱し、ファルマを殴打しようとした店主の拳の表面を神術で凍らせた。脅し程度で、数分もすれば氷は自然と溶ける。

「うわああっ! つめてええっ! このクソガキ、神術使いか!」

「エルヴェティア王国薬師ギルドにはあとで話をしておこう、追って違法販売の処罰を待つがいい」

店主の口が、ぽかんと開いた。

「な、何でてめえみたいなガキが他国の薬師ギルドに手を回せる⁉」

「名乗るのが遅れたが、私はサン・フルーヴ帝国宮廷筆頭薬師のファルマ・ド・メディシスだ。他国であろうと、薬師の人事に対して多少の裁量はある」

それを聞いた店主は、ようやくファルマの襟元に光る宮廷薬師の黄金バッジを見つけて、店の床に這いつくばるように許しを乞うた。

彼の目の前の少年の一存で、この薬店の営業許可が取り消されることがようやく理解できたからだ。

「ま、待て……! 許してくれ、俺が悪かったなんでもする! もう神術薬は売らねえ、無礼もわびる。まさかあのファルマ・ド・メディシスがこんな……」

「こんなクソガキとは思わなかったか?」

「ひいっ……」

薬学において数々の功績を打ち立てている宮廷薬師ファルマ・ド・メディシスの名は、他国の末端薬師たちの間にまで知れ渡っていたらしかった。

ただ、店主は名前を知っていても、その宮廷薬師が、まだあどけなさすら残る十二歳の少年薬師であるとは知らなかったのだ。ファルマが詐欺薬を売った罪を告発すれば、許可証をはく奪し平民薬師一人廃業させることなど、造作もない。

「薬を騙り、人の心を踏みにじるな。二度としないとここで誓え!」

ファルマは店主を見下ろしながら厳しく命じ、店主は泣きべそをかきながら懺悔と改心の宣誓をした。

事の成り行きを見守っていた少女は、少し離れた物陰から茫然と店主とファルマのやり取りを見ていた。ファルマは店から出てきて、少女に笑いかける。

「行こう。君の思っている薬は売っていなかったよ」

「ありがとうございます。やりとりがよく聞こえませんでしたが、……なかったということは、売り切れてしまったのですね」

「あー……そうか。お母さんの薬だ」

「で、でも私、隣の町に探しに行ってみます! 神術薬の手がかりがあるかもしれません。ありがとうございました! 私、くじけそうになっていました。ひもじくて、足が痛くて、喉もカラカラで、もうだめだと思って。でも、まだ歩けます。夕方になる前に帰らないといけません、私、頑張ってみます」

神術薬を求めて、彼女は痛む足をひきずって、腹をすかせながらどこまでも歩いてゆくのだろう。

ぺこぺこと礼をして急いで去ろうとする彼女に、ファルマは呼びかけた。

「ちょっと待って。代わりといってはなんだけど、君がほしかったものは俺が調合するよ」

「え? で、でも……私は神術薬が必要で、平民が買える神術薬を探しに行かなければ……母が待っているんです」

「いいかい、見てて」

ファルマは両手を軽く前にかざすと、片手で氷のグラスを造形し、片手で宙に水球を浮かせてそれをグラスにそそぎ、少女に差し出した。

「これは神術……ですか。初めて見ました」

少女はすっかり神術に魅了されて、瞳をまん丸にしている。

「こんなにきれいな水も初めてです」

「喉が渇いているんだっけ、しっかり喉を潤すといいよ」

少女はファルマの水にありつき、喉をごくごく鳴らして三杯も飲んだ。

パサパサだった彼女の肌にも、心なしか潤いが出て来たと言って喜んでいた。

「はあっ、こんなおいしい水がこの世にあるなんて、生き返ったみたいです」

「それはよかった」

「でも、どうして外国の貴族のかたが、見ず知らずの平民の私なんかによくしてくださるのですか? 私はお金を全部盗られてしまったのに」

貴族から声をかけられたのも初めてだ、と少女は言う。

それまで彼女は、貴族に対してよい印象を持っていなかったようだ。彼女の故国にとっての貴族は平民をさげすみ、神術をふりかざし、平民に重い負担を強いるものでしかなかったという。

「どんな身分の、どこの国の誰であろうと、お金があろうとなかろうと、大切な人のために薬を必要としている人を放ってはおけないよ」

「え……」

「俺は薬師だから」

ファルマは彼女を安心させるように、にっこりとほほ笑んだ。

少女が求めていたアルブールという神術薬は、帝国医薬学校で調合できる神術の変法で調合できる。神術によって抽出されたセイヨウヤナギのエキスを含む複数の生薬を、神術の生成水で煮詰めたものである。

それをファルマに調合しろと言われれば、ものの30分で調合できる。

だが、アルブールの解熱鎮痛薬よりもっと効果のある現代薬を処方することもできた。

患者にとってアルブールの処方が最善なのか、現代薬を処方すればよいのか、患者を診てみなければわからない。

「ところで、それを必要とする人はどこに? 俺がここで調合して薬を渡すこともできるけど、その薬が本当に必要かどうか、患者さんを診て決めたいんだ」

「母は村で熱にうなされながら、弟とともに私の帰りを待っています」

「君はどこに帰るの?」

少女の故郷を尋ねると、どうやら街道沿いの村で、ファルマたちの帰途と同じ道を通って帰るようだった。進路が同じとなれば、話は早い。

ファルマはド・メディシス家の従者たちに話を通して、馬車列の最後の馬車に少女を乗せてもらった。彼女は豪勢な食事にもありついたが、食事にはほんの少ししか手をつけなかった。

「口に合わなかった? 体調が悪い?」

ファルマが少女に尋ねると、少女は恥ずかしそうに白状した。

「あの、このお料理を持ってかえってよいでしょうか。真っ白なパンと柔らかなお肉を、母と、弟にも食べさせてあげたいのです」

「それなら、新しいのを持って帰るといいよ。パンも新しいものにするといい」

ファルマは女帝にも成り行きを話し、二時間だけという約束で母親の診察と薬の調合を許可してもらった。女帝は彼女の事情に理解を示した。

たった一人の平民の少女のために、皇帝の旅程を変更することに彼女は寛容だった。そして女帝は彼女の母親を気遣う。

「その薬は一度きり飲めばよい見通しか」

「まだ患者を診ていませんが、病状によります。もし継続的に薬が必要であれば、帝国郵便を使って彼女の村に薬を送るしかありません」

ファルマは、彼女とかかわったからには最後まで責任をもって母親の治療にあたろうと考えていた。それを聞いた女帝はふうむ、と口をとがらせる。

「このあたりには、ろくな薬局と薬店がないのか。現代薬や、伝統薬を扱う店は」

「エルヴェティア王国には、現代薬を扱う店はありません」

「何をしておる、ファルマよ。はよう出店せんか」

「た、他国にですか?」

「エルヴェティアだけではなく、大街道沿いに薬局の出店を求める書簡を、神聖国へ送っておく」

こうしていとも簡単に、街道沿いに異世界薬局の国外出店が決まった。

…━━…━━…━━…

ベアトリスとともにド・メディシス家の屋敷の周囲に結界を張り終えたエレンは、寝食も忘れロッテの傍に付き添っていた。

今、ロッテの呼吸は一分間に数回だけだ。

一日以上経口補水ができないことによる脱水を防ぐために、生理食塩水やブドウ糖の輸液を適宜ゆっくりと行っている。

心拍数が極端に下がってきたのでアトロピンを打つと、脈拍と血圧は一時的に改善するが、容体はすぐもとに戻る。

いつ、息をひきとるか。そんな危機感から、エレンはロッテのそばをいっときも目を離せない。

ロッテの血液を一部とりわけて簡易血液検査を行っても、ロッテの血液を標本にして顕微鏡でのぞいても異常はみられない。

だが、伝統的な神術試薬とロッテの血液と反応させると、最悪といってもいい強反応が出ていた。

悪霊がとりついている、エレンにはそうとしか判断できなかった。

(ただの迷走神経反射じゃない。悪霊は血液に乗って全身に呪詛を運んだのかもしれない。こんなことを考えなければいけないなんて)

エレンの一級薬師としての経験が警鐘し、最悪の予想が付きまとう。

悪霊に脈をとられる症例も、過去いくつか経験している。

アトロピンで拮抗していても、いつまでもつかわからない。

それらを一つ一つ思い起こしながら、彼女はファルマがこの世界にもたらした医学、薬学が効果を発揮しない世界がなおも存在することの深刻さと向かい合っていた。

(何でもかんでも悪霊のせいにしていた昔に逆戻りしたみたいだわ)

それでもエレンは、ロッテを失うわけにはいかなかった。

彼女にとってロッテは、古くからの馴染みであると同時に、多くの時間を共有した大切な存在となっていた。

「夜が来るわ。どうしよう」

ロッテの手首に触れながら、彼女は泣きそうになる。

夜の訪れに心がざわつくのは、久しぶりだった。

帝都の神殿の秘宝の盗難の影響も、これほどまでに大きかったのだと思い知らされる。

「エレオノール、シャルロットの容態はどうだ」

帝都の悪霊の駆逐を一段落つけたらしく、ずぶ濡れになったパッレがタオルで頭を拭きながら戻ってきた。ちなみにパッレは、銀髪の地毛がきれいに生えそろったため、最近はブランシュ由来のカツラをつけていない。

「エレン先生……ロッテ、助かるよね?」

ブランシュも心配そうに、ロッテの運び込まれた客室について入ってきた。

「よくない徴候ね。あのあと、いくつか解呪薬を調合してみたのだけど、どれも効果はなかった。ごめんなさい」

エレンは素直に自らの力量不足をみとめ、謝罪した。

「だめなの? 諦めたの?」

ブランシュの目にじわりと涙が浮かぶ。

「諦めてはいないわ」

「まあ、どーせそんなことだろうとは思った。なにせお前、へっぽこだからな!」

エレンはパッレの挑発に、いつものように煽り返す気力もない。

ノバルート仕込みの革新神術による神術の練度の差を見せつけられた後では、エレンは意気阻喪していた。エレンがつっかかってこないのを肩透かしに感じたのか、パッレは鼻を鳴らす。

「はっ、言い返さないのかよ」

「言い返さないわ。悪霊の発生状況はどう? 帝都全域が闇に包まれれば、ロッテちゃんの容体も闇に引きずられるわ」

「残念ながら、悪霊は発生し続けている。各個撃破は無理だ。帝都市民も憲兵隊の先導により避難所への避難が完了したようだ。あとは各所の避難所の結界でもちこたえるしかない。ボヌフォワ家も指定避難所になっているが、神術陣が屋外に二層立ち上がっていたので無事だろう」

「ああ、よかったわ。気になっていたの、教えてくれてありがとう」

「ド・メディシス家の結界を張ったのはお前か?」

「私と、あなたのお母上よ」

「ほう。ド・メディシス家の屋敷を守ってくれた礼は言うぞ」

雷鳴が轟き、豪雨が窓を打ち始めた。

窓の外を見ると、帝都全域を分厚い黒雲が覆いつくしている。

悪霊の発生は今もなお続いている、この天気では状況は悪化の一途をたどるだろう。

(夜闇が深まる前にロッテちゃんを救い出さないと。私が知っている神術はすべて試したけど、この悪霊には通用しなかった……これ以上、できることはないの? 本当に?)

「いえ……あるわ! 考えてもみなかったものが」

彼女は刮目した。

「禁術系列なら」

エレンは震えながら、禁断の言葉を口にする。

悪霊に対して特に効果の高い薬学の禁術系列が存在する。

だが、禁術は失敗すれば術者とその薬を受ける者の命にかかわるため、誰にも調合されないよう、人目の触れない場所に厳重に保管されている。

その保管場所は……そう、サン・フルーヴ帝国医薬大学校だ。

「私、大学に行ってくる! パッレ君、ロッテちゃんを見ていて! 書架の場所はわかっているわ」

エレンはコートを羽織り、勢いよく部屋を駆け出してゆくすれ違いざま、エレンの腕をパッレがはっしとつかむ。パッレの腕力で掴まれると、びくともしない。

「待て待て~、悪霊の嵐の中を一人で外に出ていくのは大バカ者だぞ~! 死にたいのか~?」

「でも、ロッテちゃんを助けるには禁術を試すしかない!」

「待て、それならうちにあるぞ」

パッレは何かを思い出したようにドタバタと部屋を出て行く。メディシス家の地下から爆発音のような物音が断続的に聞こえてしてしばらくした後、黒い革表紙の、鍵つきの書籍を抱えて戻ってきた。大勢の使用人たちがパッレを追いかけてきた。

「パッレ様、そのようなことをなさっては困ります!」

「旦那様の書物を禁書庫へお返しください! 旦那様にお叱りを受けます」

「ごたごたうるせー!」

パッレは使用人たちを部屋の外へ押し返し、ロッテのいる客間に鍵をかけると、書籍を掲げあげて嬉しそうにエレンに告げる。

「エレオノール、見ろ、これが禁書だ!」

「今、お師匠様の禁書庫を爆破して強奪してこなかった?」

まさか禁書がメディシス家にあるとは思わず、エレンは反応が遅れてしまったが、もしブリュノの知れるところとなればパッレと一緒に謝るしかない。

「バテラスールの調合法は載ってる?」

エレンは鍵を神術で破壊し、強引にページをめくるパッレに問いかけた。

「何だそりゃ。聞いたことはないな……あった、赤の霊薬のことか?」

パッレが禁書の中の目録から、バテラスールという項目を探し当てた。

該当のページをめくると、まるまる数ページ白紙である。

「白紙だ。何で書いてない、この項目だけ」

「貸して、こうやって読むの」

エレンは杖で氷を作り出し、氷を手に握ってページをゆっくりとなぞっていった。すると神術の氷の触れた部分にすうっと文字が浮かび上がる。

「神術の氷に触れると現れるの。神術の火であぶると現れる文字もあるわ……どちらも、神術が未熟だと読めなかったり、本を台無しにしてしまうわ」

「さすが霊薬調合の禁書だな。適性のない者には読ませもしないとは」

パッレが感心したように腕組みをする。

薬学神術によって生み出される薬には、上薬、貴薬、特貴薬、妙薬、霊薬、神薬がある。

エレンが神術の粋を尽くして調合できるのは特貴薬まで。

それ以上の効能を持つ薬を調合できるのは、薬神を守護神とする薬師の中でも、超がつくほど一流の薬師だけだ。

バテラスールという霊薬は、生死を彷徨う人間を現世に連れ戻す効果があるとされていた。だが、ブリュノは「これを調合できる人間は現在一人もいない」と言い切っていた。その言葉の意味を、エレンは目の当たりにすることになる。彼女は落胆しながら読み上げた。

「薬神を守護神に持つ若い女薬師でないと調合できないんですって」

薬神を守護神に持つ女薬師は世界にたった二人で、サン・フルーヴ帝国の宮廷薬師フランソワーズはそのうちの一人だ。だが、若くはない。

「そんな薬師、帝国にいないわ」

「だが、俺の守護神は薬神で、お前は若い女薬師だ。薬神守護神の、若い女薬師ならここにいる」

パッレがエレンと自分を交互に指さす。

「それ、二人合算で条件満たしたことになるのかしら……」

「お前の若さについて議論をしたいか?」

「そういう意味じゃなくて。一言余計よ……でも、やりましょう」

「全文読んだな?」

「しかと読んだわ」

それ以上の確認は互いにしない。相手の覚悟を試すことも。

パッレは氷を手にし、もう一度禁書の最後の一行をなぞる。

そこに浮かび上がった赤い文字は……

霊薬調合の失敗は術者に呪死をもたらし、成功しても術者の余命の半分を対価とする。

資質のない者の調合を固く禁ず。

そんな記載だった。