軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

6章8話 鎹(かすがい)の歯車の中にあったもの

鎹の歯車は実在した。

ファルマは歯車機構を覗き込む。構造物は複雑かつ大規模で、歯車の狭間に空中に漂う礫片の挙動を見るに、鏡を兼ねる床材の向こうは無重力空間となっているようだ。

人間には鎹の歯車は造れないし設計すら不可能、それは一目瞭然だった。

ピウスの言葉は、部分的には真実であるようだ。

「さて、あなたは鎹の歯車を見たのだろう。そのうえでもう一度尋ねておく。あなたはこの、神力を動力に永遠に回し続けなければならない歯車を、一体どうしたい」

ピウスは厳かにファルマの判断を問う。

ファルマは言葉が纏まらないままに口を開いた。

「神殿はどう見積もっていますか? 私がここで何をしようとも、それは結局数百年先に問題を先送りしているにすぎないのでしょう? ならば当面様子を見るのでは不都合なのでしょうか」

「次の守護神が必ず降りるという保証はなく、できれば永久的な問題解決をお願いしたい。このままでは、私も無念を募らせ、悪霊になってしまいかねない」

ピウスの口から悪霊という言葉が飛び出してきて、傍で聞いていた女帝は失笑して訊ねた。

「大神官が悪霊化など、遺された者が困るでしょう。もっと手本となっていただかねば」

ファルマが聞き間違いかと眉を顰めると、ピウスは、冷気の立ち上る地下空洞を見渡した。ピウスの虚ろな表情は、感情の欠落を思わせた。

「いや、今もここにいるのだよ。神聖国でも殆どの人間は知らぬだろうが。こんな話を知っているかね、十二年に一度、大神官は代がわりをする」

ピウスはおもむろに詰襟をはずし、踵を返すとファルマらに背を見せた。彼の病的なほど青白くやせこけた膚には、彼の背を覆いつくすほど広範囲に焼き印があった。

焼き印を編む瘢痕は九割が黒く変色し、残りの一割は青みを帯びている。異様な光景に、ファルマは目を凝らす。女帝やファルマの薬神紋と同質のものとみえた。興味を覚えた様子の女帝が、ピウスに率直に尋ねる。

「この聖紋が意味する守護神は……?」

「これは聖紋などではない。 融解陣(ゆうかいじん) という神術陣を背に負ったものが、大神官となるのだ。闇日食の祭日になると、この神術陣は動き始める」

「するとどうなるのですか? 動き始めるというのは」

ファルマは矢継ぎ早に尋ねる。

「歯車を動かすには、神力だけでは足りないのです。潤滑油を差さねば、歯車が摩耗する。鎹の歯車もしかり、潤滑油を必要とするのです」

ファルマはピウスの言葉の先を読み、愕然とした。

「この神術陣は、人間を鎹の歯車の潤滑油にするためのもの。私は溶け落ち、この鏡をすり抜けて、見えない歯車を潤すのだろう。そして私が消滅したとき、大神官は代がわりをする。誰かは知らぬが、次の融解陣を負った者が大神官になる。……私には歯車は見えない。この歯車について知ることも少ないが、闇日食の日を生き延びた大神官は歴代、ただ一人も存在しないのだ」

ファルマは茫然としたが、周囲の枢機神官たちも、ピウスの発言をさも当然のごと聞き流していた。ピウスは得体のしれない機構に命を使い潰されようとしている。

ファルマは、身が凍えてくるのを感じていた。

戸惑うファルマに、ピウスは状況を確認するかのように言葉を繋いだ。

「鎹の歯車は、実在するのでしょう。あなたがご覧になったように」

(そういうことだったのか……)

ファルマはピウスと出会った時から、ピウスが神聖国の神官たちの中でもずば抜けて神力が強いわけではないことを、多少疑問に感じていた。

神力の強い者ほど守護神の加護が強いという世界観だ。

仮に神力量が大神官としての資質の全てであれば、神聖国の最上位にある大神官は神聖国で最も神力を持つ者が継承するのが順当だと思われたからだ。

ピウスはどうやら、融解陣に選ばれたという悲惨な経緯を持つらしい。

女帝に火神紋が刻まれたのと同様の事情だが、栄誉とは程遠かった。

ピウスを待ち受ける運命は、女帝のそれより過酷だ。

「いずれにせよ、ここが私の墓所になる。何をどうあがこうとな。なに、殺風景だが、悪くはない。話し相手も多かろう」

ファルマがこの地下空間で目撃していた大量の死者。

それは、歴代の大神官が霊となり、地縛されていた者たちだ。

「あなたに言っても仕方がないが、守護神は何故、こんなものを創ったのだろうな」

ピウスはため息交じりに、誰に問うでもなく呟いた。

ファルマはその質問に、返す言葉も持ち合わせていなかった。

神聖国では、高位神官になるほど守護神への信仰心が薄らいでいる……その謎も解ける。一片の慈悲もない融解陣と、繰り返される生贄の死を目の当たりにしては、高位神官の間で信仰心など生じようはずもない。

「困りましたなぁ。薬師ファルマ様。あなたはかつてないほど強力な神力を備えているにもかかわらず、守護神でもなければ、歯車のことも知らないという。只人だという戯言を貫かれるわけですか」

ファルマはただピウスの失望を受け止めるしかなかった。

「いつになったら我々は、この装置の真実を知る守護神と出会えるのか。そしてなにゆえ、守護神の穿った呪詛に振り回され続けなければならないのか。いつか知りたいものですな。人類がいつか、守護神の恵みという名の支配から解放される時を、私は希うばかりです」

ファルマはピウスに会う前、ジュリアナを手駒として使い、ファルマの命を幾度となく狙ったピウスを、冷徹で狡猾な男だと想像していた。

さらに神聖国がピウスを大神官として戴いているのは、人徳を考えると不審だった。

だが、ピウスのその冷徹さは他者に対してのみならず、彼自身にも向けられ、彼は逃れ難い運命を受容し、生きながらの供儀として、自らの命を手放した男だと判明した。

「ピウスさん……今年、即位して何年目だと言いましたか? もしかして、もうすぐその年にあたるのでは」

ファルマが尋ねると、ピウスは渇ききった嗤いを浮かべた。

「演技にしても、そんな些事を気に掛けてくださるのは意外だ。このような血も涙もない殺戮機構を創り上げた守護神の言動としては、矛盾を覚えます。気に召されますな」

女帝は即位十年目で、即位時に大神官であったピウスと会ったと言っていたので、十年はとうに過ぎていた。

大神官が十二年に一度代替わりをする。

その言葉が真実なら、ピウスもまた近いうちに落命するということになる。

ピウスは薄く嗤った。

「私はもう死んでいるに等しい半死人。思い致すのは、死後のこの世界のことです」

「残り時間を教えてください! それまでに鎹の歯車の謎を解き、悲劇と憎悪の連鎖を止めなければ……!」

ファルマはピウスから、次の闇日食を聞き出そうとしたが、ピウスは口を割らなかった。

「憐れむふりをしてくださるな。もうよいのです」

「フリなんかではありません! 次の闇日食はいつですか!」

ピウスが殺されたあと、また誰かが選ばれる。悪夢の連鎖は続くのだ。ファルマはこの惨禍が起こるのを阻止しなければという思いにかられる。

そのとき、足元から突き上げるような衝撃がファルマたちを襲い、全員が体勢を崩す。

(地震⁉ でかい!)

だが、周囲をよく見ると構造物全体は揺れていない。地震ではなかった。逡巡している間に床面全体に罅が入り、数秒置いて鏡面の床が砕ける。空間の中央にいたピウスと女帝が、鎹の歯車のある空間へと舞った。

(抜け……うわっ!)

漏れた空気が真空中へと、二人を攫って猛烈な勢いで流れこむ。

このままでは完全に床が抜けると同時に全員が真空中へ放り出され、落下と同時に鎹の歯車にすり潰されて即死は不可避だ。

瞬時に判断したファルマは、足元に向け物質生成で金属板を繰り出した。崩落する床面を補強しつつ再生し、神官たちの落下を食い止めながら、繕われてゆく板の割け目から真空中へ体を滑り込ませ、鎹の歯車の機巧の内部へと侵入した。

真っ先に吸い込まれたピウスは、鎹の歯車の最も大きな刃に直撃し、既に肉塊と化していた。女帝は即死はまぬかれたものの、鎹の歯車の中枢部へと猛烈な勢いで落下を始めていた。

彼女は目を見開きもがくが、宙に投げ出され無情にも落下を続ける。杖を振って神術を使おうとしているそぶりはあれど、真空中では炎術は使えないのだ。

ファルマは身を刻む低温に全身が硬直しそうになりながら、金属板の裏側を強く蹴り込み、一気に加速して彼女のもとへとたどり着き、その細い手首を掴んだ。

そのまま踏みとどまって上昇し、歯車側から床上へと戻ろうとしたところで、ファルマははっとする。薬神杖は揚力を失っていた。

(なっ……力が! 戻れない⁉)

それどころか、ファルマの全身から神力が抜けている。

力が湧いてこない。

薬神紋から神力が供給される、いつものひりつく感覚もないのだ。

ファルマ自身が鎹の歯車の内部に引き込まれているかのように、中枢部から壮絶な引力を受けていた。ファルマはおののく。歯車全体の機巧が、捕食者の大顎のようにも見える。

(だめだ……まずい! 喰われる!)

ファルマが引力に抗いきれなくなったとき、ファルマと女帝は薄い水のような膜で包まれ、空間を漂う。胞の内部は暖かく、息ができ、窒息しかけていた女帝の呼吸は保たれた。

ファルマが戸惑っていると、胞の中へ響くように静かな少女の声が聞こえて来たのだ。

『やあ。きてしまったのだね、こんなところへ』

「あなたは……?」

『鎹の歯車が、新たな生贄を欲しがっているようだ。だが、まだ君はここに来てはいけない』

「あなたは誰ですか? 一体何を」

ファルマは改めて周囲を見渡し声の主を探すも、姿はどこにも見当たらない。

胞が意思を持っているかのようだ。

『君と似た境遇にあって、一番最後にここに囚われた者さ……ああ、すまないね。自己紹介したいのだが、名は忘れてしまったのだよ』

(まさか……)

守護神と呼ばれる存在かもしれない、とファルマは直感が働いた。最後の守護神とされる存在は、農神の少女だったと、ファルマはサロモンから仕入れた予備知識を思い出す。ファルマと似た立場にあって守護神として祀られてしまった人間……つまりこの死者は地球から来たのだろうか。

「農神……ですよね。地球の出身ですか?」

『農神、そんな風に呼ばれたこともあったか。地球というものは知らない。いかにも私は農神としてこの世界に召喚され、この歯車に呼ばれ消滅した。ここにある残渣はもうすぐ溶ける私の自我で、先代の自我はもう溶けた』

声は生への渇望をまったくといって感じない。いかにも死者と会話をしている不気味さが伝わってくる。

『あの墓守は、また外の世界から人柱を送り込んで来たのか。この装置は、一度動き始めたら止まれない。生贄の守護神と人間の魂で駆動し続けているが、よほど君をほしがっているらしい』

彼女の話は理不尽と謎に満ちていて、ファルマはすんなりと受け入れられない。

ファルマと女帝は彼女に助けられたが、ピウスは即死した。ファルマはこの機を逃してなるものかと、食い下がって尋ねる。

「何故私を助けてくださったのですか。そして墓守というのは、誰なんです?」

『この世界を創り、一方では破綻させ、壊れかけたものを繕っている。君は覚えていないか。この世界に君を放った者を?』

ファルマは記憶を辿る。落雷によって目覚めた少し前。暗い場所から、彼は見出された。彼が何者かの手に包まれたのを覚えているような、そんな気もするーー。ただ、暗い場所にいた記憶はひどく曖昧で、その場面も断片的、抽象的だった。ファルマは記憶のブレを正すかのように頭を振り、目には見えない存在に話しかける。

「この装置を、止めることはできないんですか⁉」

『墓守に抗うことはできるかもしれんが、この世界を壊すことでしか止められない。この宇宙は、無数の鎹で多くの宇宙に寄生し、複雑な因果を共有しているのだそうだ。繋がったまま片方が崩壊すれば……どうなるか想像してみるといい』

「そんな……地球も」

『そういうことだ。君のいた世界は地球というのか。そこに、神術はあったかね』

「ありません」

『そうだろう。この神術というのが、便利だがくせものでな……ああ、もう時間がきたようだ。地上に戻りなさい。ここから、この世界で君のしてきたことを見ていた。君はまだここに来てはいけない。墓守の逆鱗に触れるかもしれないが、今回は助けよう』

「ありがとうございます……あの!」

その後、どれだけファルマが地下へ呼びかけても、彼女からの返事はなかった。

胞は床をすり抜けるように、ファルマと女帝を地上に運んだ。

「ファルマ様!」

サロモンがファルマを助け起こしてくれた。女帝はぐったりとしており意識は戻らないので、その場に横たえた。金属板の上に取り残された神官たちは、螺旋階段へと避難し騒然としていた。

「なぜこの床は崩落したんだ……! こんなの、聞いたことがない」

「神力を注ぎすぎたのでは! 猊下はどこへ……!」

「それなんですけど……ピウス聖下はお亡くなりになりました」

ファルマは狼狽する枢機神官たちに、一部を伏せて事実を話した。ファルマがピウスを殺害したという嫌疑がかかるだろうが、どうしようもできなかった。

ピウスは鎹の歯車に衝突して即死だった。

空間の向こうでは神術が使えず、後から落下した女帝を助けるのに精いっぱいで、ピウスを救出することはできなかったのだと。

床の崩落に手も足も出なかった枢機神官たちは、ファルマの話を飲むしかなかった。ファルマが物質創造で床を打ちなおさなければ、全員死んでいたかもしれないし、神官たちがピウスを助けられなかったのも事実だ。ファルマは全員を見渡して言った。

「地上に戻りましょう……ここは危険です、封印した方がいいと思います」

ファルマはなおも意識の戻らない女帝が呼吸をしていることを確認し、地上へ運んでもらった。ファルマが彼らの後ろから階段を上がっていると、ふと彼の目に女帝の背にある赤いやけどの痕が飛び込んできた。

(陛下のうなじにあんな火傷なんてなかった……なんだ⁉)

ファルマはぞくりとして、診眼を発動する。すると、彼女のドレスの下にくっきりと見えたのは……先ほどピウスが見せたものと同じ融解陣だった。

ピウスの負っていた融解陣が消え、女帝に乗り移ってきたのだ。

「陛下……! まさか、次の生贄に……!」

ファルマはピウスの死にざまを思い出す。彼は圧死しただけで、融解陣に溶かされて絶命したわけではない。

次の闇日食に、女帝は無事でいられるだろうか――。

…━━…━━…━━…

「今日は悪霊がたくさん見えるのー……」

「そうねえ……こんなの久しぶり。変だわ」

エレンについて帝都郊外の男爵の屋敷に往診に行っていたブランシュは、エレンと馬を並走させている。今回の往診では、エレンが数年ぶりに目にした症例に当たった。

本物の悪霊憑きだ。一見して見破ったエレンは患者から悪霊を追い出し、エレンの神術で悪霊は追い払われ、森の闇へと消えた。エレンは神力を使い果たし、回復を必要としていた。彼女はただ、疲れ果てていた。

そんな彼女は帰る道すがら、農作業へ向かう老女についてゆく悪霊を見つけた。これから、彼女にとり憑こうとしているのだろう。エレンは杖を抜いた。

「”水の禁域!”」

エレンの杖から放たれた水滴が悪霊を囲み、悪霊を切り開いてゆく。しかし、神力切れで思ったように術が維持できない。エレンの神術に驚いたかのように、悪霊は退散した。

神官でないエレンは浄化神術を使えないので、悪霊を完全に浄化させてしまうことはできない。追い払うのがせいぜいで、もどかしい。

「杖をこんなに使うようになるとはねえ……気が抜けないわ」

「エレオノール先生、どうしよう、こわいのー」

「ブランシュちゃんも戦わないとだめよ」

「あいー……でもー」

これで何体目だろうか。ここ数日、帝都に、悪霊憑きや悪霊の出現が増えた。

帝都神殿の神官たちがパトロールを強化し一体ずつ浄化しているが、追いついていないようだ。彼女がブランシュを家に帰らせ薬局に戻ると、異世界薬局の門は閉じて、多くのメディシス家の聖騎士たちが集まって警備を強めていた。

「一時閉店? そんな、どうして⁉」

エレンは彼らの間をかきわけ、薬局に駆け込む。

すると、店内は荒れ果て客の姿はなく、セドリックとセルスト、そして清掃人たちが店舗内に散乱する割れたガラス類、薬瓶の片づけをしていた。セルストが気付いてエレンに声をかけた。

「エレオノール様おかえりなさいませ、シャルロットさんが……! 二階です!」

「ロッテちゃんが、どうしたの⁉」

エレンが二階に駆け上がると、ロッテは二階の処置室で寝込んでおり、周囲にはロジェとレベッカが深刻そうな顔をして付き添っていた。エレンはロッテの傍に駆け寄る。

「ロッテちゃん、どうしたの青い顔をして。具合が悪いの?」

エレンが尋ねても、薬師たちは顔を見合わせている。

すると、いつも明るいロジェが痛ましそうに口を開いた。

「悪霊憑きが店に入ってきて、声をかけたロッテさんに襲い掛かって来まシタよ。ロッテさん、噛みつかれて怪我をしまシタ」

「どうして……!」

ド・メディシス家の門番の聖騎士と、ロジェ、そしてセドリックが悪霊憑きと神術で戦闘し、その間にトム少年に神殿に応援に行かせた。悪霊の発生との連絡を受けて駆けつけてきた帝都神殿の神官が、セドリックとロジェ、そして聖騎士が追い詰めた悪霊に浄化神術をかけたという。幸い、悪霊に憑かれた者は無事で、何も覚えていなかった。

神官たちは、ここ数日、帝都各地でひっきりなしに呼ばれているという。神官長コームが神聖国へと女帝を案内して行ったので、帝都神殿には神官が五名ほどしか残っておらず、神聖国へ増援を依頼したとのことだった。

エレンは血の気のないロッテを目にし、狼狽する。ロッテは首筋を悪霊憑きに噛まれており、適切に処置がされていた。

「ロッテちゃんの傷に浄化詠唱はかけた? 解呪のポーションは飲ませた⁉ すぐに⁉ あとは、何するんだっけ……そうだ、噛まれたのよね。傷口の洗浄と抗生物質は!」

「浄化神術は私がかけました! 抗生物質もロジェさんの判断で、傷が熱をもちはじめたので予防投与しました。解呪ポーションはセルストさんが調合してくれました」

レベッカが力強く頷く。悪霊憑きに傷つけられた時には、浄化詠唱と解呪のポーションを飲ませるというのが手順だ。それでも、呪いが体に回って助からない者もいる。

その呪いの原因の半分は、感染症であろうとエレンは判断している。

バイト薬師たちは、忘れかけていた伝統的な神術使い兼薬師としての仕事をこなしていた。

神術を使える一級、二級薬師、そして貴族の医師が患者を治す以外にしてきたもう一つの仕事。それは、一見病気と見違える悪霊憑きを見破り、祓い、危害を加えられた者の命を救う戦いだ。

「ロッテちゃん……なんてこと」

「明日までに目が覚めなければ神官様が追加の神術をかけに来てくださるとのことです。今日は私がずっとついています。ド・メディシス家にも連絡を飛ばしました。パッレ様が、よく効く解呪薬を調合してくださると」

レベッカがロッテの看護を引き受けると言った。ファルマに対して不穏な動きをしていた神殿であるが、有事の際はなんだかんだ言って、帝都神殿は市民を守っている。

「エレオノール様、一階をご覧になりましたか?」

「ええ、レベッカちゃん。大変な戦闘になっていたみたいね」

「薬庫にあるものは無事です。店頭のものはご覧の通りですが。悪霊が来たので、店内のものが穢されてしまったかもしれません。店主様がいらっしゃらない時に……どうして」

「ファルマ君だけじゃない。陛下も、神官長も不在だわ。昔に逆戻りしたみたい」

もしかして、とエレンははっとした。

(ファルマ君が帝都にいないから?)

いや、それだけではない。ファルマはマーセイル領や各地を往復して、一週間ほど帝都を去っていたことなどざらだった。それでも、こんな異変はこれまでになかったのだ。神聖国ほど遠い場所に、長期間出かけたことはないが……。異変が起こっている。神聖国へ赴き、女帝に随行したファルマの身が案じられる。

(今まで、帝都全体に影響していたファルマ君の強大な神力に押しつぶされて、絶滅したかに見えた帝都の悪霊……それが湧いて出てきている。どういうこと?)

エレンは考えた。もし、ファルマが帝都やその周辺国にいたために悪霊が消えたのではなく、出てくることができなかっただけなら……。

「でも、帝都神殿には秘宝が……まだある筈なのに」

神殿の秘宝は、悪霊を遠ざけてくれる聖域を形成するとされていた。その聖域が破綻しているのだろうか。するとロジェが思い出したように手を打つ。

「神官さん、秘宝が盗まれたといっていまシタ。なので、神聖国から新しい秘宝を取り寄せているとのことデス」

「えーっ⁉ どうしてこんな時に!」

エレンは絶叫する。神殿の警備が手薄だったところを、盗難に遭ったのだ。

秘宝安置室に複数の土足あとがついていたので、窃盗だろうとのことだった。

「ファルマ君、ジュリアナちゃん、サロモン様は陛下とともに神聖国へ。いま、帝都に神官は五名しかいない。秘宝は盗難……もう……」

エレンの予想では、浄化神術を使える帝都の神官は五名しかいない。

最悪の状況がそろった。エレンはきっと外を睨みつけて口走る。

「揺り戻しがくるわ」

こうして再び、帝都市民に悪霊に怯えながら過ごす日々が訪れたのかもしれない――。

エレンは体の芯から恐怖がこみ上げてくるのを感じていた。