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作品タイトル不明

8章9話 薬神 VS. 異世界有識者会議

1148年6月28日。

サン・フルーヴ宮殿内に、聖帝エリザベスの招きで神術使いらが極秘裏に集められた。

大神殿禁書庫番、神学者リアラ・アベニウス。

宮廷薬師ブリュノ・ド・メディシス。

その息子、一級薬師パッレ・ド・メディシス。

一級薬師にして異世界薬局主任薬師、エレオノール・ボヌフォワ。

ファルマの直系の教え子、一級薬師エメリッヒ・バウアー。

同じく宮廷獣医、ジョセフィーヌ・バリエ。

エリザベスは書面で口止めをしたうえで、神殿内のみで秘密保持されていたファルマの計画を共有する。

ブリュノ以外の全員、動揺を隠しきれなかったが、ジョセフィーヌは声を震わせながらも素直な感想を述べた。

「教授が薬神様かもしれないというのは、医薬大に通うものであれば一度は疑ったことがあります。しかし、ご本人も否定されていましたし、まさか本当だったとは……道理で。私たちは守護神様に教えを授けていただいていたのですね」

ファルマを師と仰ぐエメリッヒのショックも大きかったようだ。

「私の守護神は薬神なんです。私の一族は遺伝性の死病にとりつかれ、薬神に呪われたと思っていました、しかしそうではないと励まし、弟を癒してくださったのは教授でした。あれは薬神固有の神術を使われたのですね。言葉にならないです……教授を超える案を出すのは難しいですが、教授の計画にほころびがないか、批判的吟味を行ってみます。権威の説を鵜呑みにしないこと、科学の世界に上下はないこと、それは教授に教えていただいたことです」

顔面蒼白で答えるエメリッヒは特に、ファルマを除いてこの世界で最も遺伝子操作技術に詳しく、なおかつ手技にも習熟した学生である。

彼は一分もかからないうちに、目を輝かせた。

「早速なのですが、崩せそうな部分があります」

「早いな!」

「聖下、教授は本当に不可逆的に神脈を破壊する。とおっしゃいましたか?」

「ああ、確かにそう言った。のう、アベニウス」

エリザベスが肯定し、リアラ・アベニウスも促されて頷く。

エメリッヒは深刻な顔つきで考え込む。

「……何か見逃しているのでしょうか。教授が実行されようとしている遺伝子操作は不可逆的ではありません」

「私も同じく考えていました。もとに戻せます」

パッレが、先に言われたとばかりに後に続く。

パッレはエメリッヒのように手を動かして実験をしてはいないので詳しい部分は理解できていないが、ファルマと共著で教科書を書いた彼は、原理的な部分は完全に理解できている。やや遅れてエレンとジョセフィーヌもあっという顔をする。

「確かに全身遺伝子操作ができる教授ほど簡単にではありませんが、局所的には神力を生成するメカニズムは残されており、我々にも扱える技術です。なので、この世から神術を消し去るという計画に抜け道があるように思うのですが」

エメリッヒはパッレとブリュノの顔色をうかがいながら、何か間違っているのではないかという疑いを抱きつつファルマの計画の甘い部分を指摘する。

「それはどのようにして? ちなみに、あまり難しい話はいらんぞ」

理解できないことを確信したらしい聖帝は堂々と予防線をはっておく。パッレがエメリッヒに説明を譲ったので、エメリッヒは起立して説明する。

「例えば、現在聖下の皮膚細胞を体外培養しているように、自身のリンパ球や骨芽細胞、皮膚細胞などを体外培養し、破壊された遺伝子を遺伝子組換え技術によって修復して自分の体に戻せば、少ないとはいえ神力を得ることは容易です。少ない神力でも使える神術はいくつかありますからね。それを足掛かりに、神術薬学や禁術を復活させることもできます」

エメリッヒはほぼファルマと同レベルに、実行力を伴う技術的立案ができるまでになっていた。なにより、ファルマが彼をそのように教育した。

「それに、不思議なのですが、神術遺伝子群の破壊はどうなさるのでしょうね。現実的かつ手数が少なくて済むのは、上方制御している遺伝子を変異させて神術遺伝子群の機能を止めてしまう、などでしょうか。素人意見で恐縮ですが、遺伝子配列をいじるにしても、DNA二本鎖を切断してしまえば染色体の不安定化につながり、教授は臨床でそのようなことはやらないと思います。平民化で起こることと同じプロセスを実行しようとしているのですかね……?」

「たぶんハッタリだな。詳しいやつがいないと思って説明を端折ってやがる」

パッレが切って捨てると、

「ファルマ君はそういうことはしないと思うわ。何か意図があるのよ」

エレンがファルマの弁護に出た。

「そういうことをする弟だぞ?」

パッレとエレンは二人してどちらがファルマに詳しいかを争っている。二人はエリザベスの咳払いで、聖帝の御前だったことを思い出すと口をつぐんだ。

「私は難しいことはわかりませんが、晶石にため込んだ神力は減りませんよね。晶石の神力を使って神術を行うこともできます。晶石も使っていけばいつかは神力がなくなりますが、薬神様の思し召しの通りにはならないと思います。ある日突然、貴族全員の神脈が破壊されたとしても、何とかして神力を得ようとする者は後を絶たないかと。そのあたりの可能性も、見通しておられるのかもしれませんが、素人目にはそのように見えます」

リアラ・アベニウスが申し訳なさそうに、神学者としての見解を付加する。

「世界各地に残された神秘原薬に含まれる神力もありますね、これはあと数百年はなくならないと思います。その数百年の間、神力は存在するという判定になるのなら、世界の崩壊は止められないと思います。ファルマが気付いていないのか、敢えて触れなかったのかは不明ですが。この前提ですと、ファルマの案は崩れますね。彼が墓守と刺し違える必要はないわけです。意味がないことは、論理的に考えてするべきでない」

パッレも神術薬学的な側面から見解を加える。

「ファルマは薬学の専門家でこそあれ、神術や神力の知識については素人です。代案を出して諦めさせるしかなかろうかと」

ブリュノが断じた。

「しかし、ファルマ師は神術と呪術が存在するから、世界が破綻していると考えているのですよね。それなら、その力をなくす必要はあるのではないでしょうか」

エレンが困ったように述べる。彼女はショックで何も意見が出せなくなるほど、ファルマの言葉を重く受け止めていた。

「小手先の技で神力を復活させられるなら、それはなくなったとはいえない。その時点で存在しないことは、その力がなくなったということではないんだ。ほかの方法を考えるべきだろう」

パッレがエレンに答えながら、全員に説いて聞かせる。

「面白くなってきた。やはり束になった専門家は言うことが違うの。彼の計画倒れか、想定の範囲内か……。まあいずれにせよ、貴族全員を平民に落とすというのはかなりの混乱を生じる。ファルマの思惑通り、五年間の間に混乱なく貴族制度を解体、新体制に移行できるように準備しておく。最善の策としては、ただちに、彼よりすぐれた最終解決案をぶつける。ファルマのやり方では神力はなくならない。世界の破綻を繕う別解を考えねばならん」

エリザベスは彼らを前に、挑発的な口調で言い放つ。

「薬神との知恵比べだ!」

彼女は気持ちよく言い切ってから、ふらりとパッレに視線をくれる。

「ところで、神術なき世界では皇帝は何を基準に選ばれるのだろうな? 人気投票か?」

「それでしたら私は逆にお役御免となって歓迎なのですが」

次期皇帝の期待がかかっていたパッレは、肩の荷が下りた気分だ。

「私は薬師を続けたいもので」

ブリュノ以外の同席者はパッレが何を言っているのかわからず、顔を見合わせている。

「ともすれば、臣民を悪霊から守るという大義名分と統治の正当性が崩れて、皇帝自体が必要なくなるかもしれんな。その場合、国の代表を選挙で選んで合議制になるのか? そちらの方がいいような気がするな」

当代皇帝がそんな不謹慎なことを言い始めたのでブリュノは渋い顔をする。

そうなれば宮廷薬師も廃止だ。

「神力や呪力を打ち消すような力って、ないんでしょうか。例えば、物質に対して反物質のような」

頭をかかえていたエメリッヒが新たな側面から切り込んできた。

「反物質を作り出せばいいのではないか」

パッレがひらめいた。

そしてパッレは、もう一歩で物質創造、物質消去を駆使する段階にまできている。そこまで究めた神術を手放さなければならないというのは、彼にとっても葛藤は大きい。

「反神力、反呪力のような力を使わないと、結局神力を使って反物質を作っていることになりますが」

「まいったな……反神力なんてのは、人智を超えるな」

パッレも考え込んでしまった。

「今日どうこうなるとは思わん。各自、案を練ってみてくれ。それから、ファルマにはこれまで通りの態度で接してやってほしい。動じないふりをしていても、心細い思いをしておるだろうから、決して敵視したりしないでやってくれ」

「敵視? 教授は私の命の恩人でもあり、尊敬する師です。むしろ、神術を探求するためのいい機会をいただいたこと感謝します」

エメリッヒは迷いなく言い切る。この青年はファルマに対する報恩への思いが強すぎて、少し暑苦しいところがある。

その熱量に気おされしたかのように、聖帝はふふっとほほ笑む。

「またしても命の恩人か。彼はこの世界にきてから、どれだけ人々の命を繋いだのだろうな」

「少なくとも黒死病の爆発的流行で世界が終わっていましたよね。それを考えれば、世界中の人々が教授に恩があるといっても過言ではないです」

「いや、世界中は過言だろ」

エメリッヒの言葉に、パッレが冷静につっこむ。

従来の方法では、黒死病におかされた都市ごと焼き払い、感染者もろとも皆殺しにするという対応になっていたはずだ。あの時、ファルマが抗菌薬レボフロキサシンをもたらしたことにより、ほぼ最小ともいえる犠牲者で済んだのは奇跡というほかにない。

「確かにな。薬神は疫病の流行る前年に現れ、疫病を鎮めて力を使い果たしては消えてゆく。だが、彼は薬神紋を二つ持っているだけあって、此度の守護神は滞在期間が長く、生ける伝説であるな。彼は自ら消えようとしているが、せっかくなら長居したついでに、いつまでもこの世界でゆっくりしてほしいものだ」

こうして極秘裏に開催された第一回反駁会議は終わった。

「あの……」

皆が席を立ち慌ただしく退出してゆくなか、エレンが最後にエリザベスの許に跪いて上申する。

「聖下の大神官としてのお立場からは、先ほどのお言葉はご尤もだと思いますし、私もそう願います」

「ファルマには長らくこの世界に在ってほしいという話か?」

「はい。しかし彼はもう疲れてしまったのではないかと……最近、近くで見ていてそう思います」

「それは多忙であったり、今後の不安のためだろう」

エレンはぎゅっと唇を引き結んでいたが、震えながら思いを伝える。

「本当にそうなのかなと思いまして。今回、私たちが話し合っただけでも、彼の計画にはいくつもの綻びがありました。でも、用意周到な彼らしくありません。だいたい、私たちの誰かに先に相談すると思います」

ファルマの計画にミスはないというより、これまでの彼の行動からするとらしくないとエレンは伝えたかった。

「彼は回避する方法があることを知っていてなお、最終解決手段として伝えたのだと思います。彼は望み通りに死にたいのかもしれません。ですから……私たちの願いはともかく、最後は本人の願うとおりにしてほしいなと。彼を追いつめてしまったのは、私たちかもしれないので」

「……そうだな」

「差し出たことを申しました」

エレンは感情をおさえきれず、一礼して引き下がった。

1148年7月5日。

新大陸に三度たどり着いたファルマは持ってきた呪器「腐水珠」を、封印つきのままメレネーに、彼女の手に沿えるようにして手渡す。

この呪器はネデール国の湖底に沈んでいたもので、濁った水と悪霊を呼び込み続けていた。

からっと晴れた空と、白い浜辺に集まったマイラカ族の集落の一族と、祖霊たちは総勢百名以上だ。

彼女は大勢の人々と霊の見守る中、呪器を大切そうに受け取った。

ファルマはやじ馬たちを眺めて危惧した。

「こんなにギャラリーがいて大丈夫かな? 悪霊が出てくるかもしれないし。せめて子供たちは家に戻ったほうが」

「なに、心配はいらん。悪霊は出んよ」

封印を解かれた腐水珠はメレネーの手に渡ると、メレネーの呪力を濾過して清らかな水を生み出し始めた。

ファルマはあまりの変貌に驚くが、メレネーは平静だった。

「すごい、浄化されてる」

「ほら。やはりこの大陸において、お前たちが呪器と名付けているものは悪しきものではない。これをマクタ(白い泉)と名付けよう」

メレネーが得意げにファルマに掲げて見せる。

マイラカ族の子供たちは大喜びで受け取って水遊びを始めた。

「海に落としてなくさないようにね」

言葉は通じないながら、ファルマが湖を浄化してからというもの、ファルマは子供たちにもなつかれている。

「丁寧に祖霊を供養しているこの大陸においては、悪しきものはいなくなるのだ」

「ほんとだね」

(n=2だけど、今のところは)

ファルマは素直に同意する。メレネーの予想は正しかった。

新大陸に呪器を持ってきても問題なさそうだということで、ファルマが呪器を少しずつ持ってくるということになった。

「闇日食まであと一か月と少し。少しでも呪器を減らしておきたい。また持ってきていいかな」

特に、鎹の歯車の存在する神聖国周囲の呪器は取り除いておきたかった。神聖国一帯で悪霊が出なくなることについて何かメリットがあるかというと微妙だが、墓守が出現するときには悪霊が付き従っていた。であれば、墓守との直接対決になるかもしれない場面で、不安材料はなくしておくに限る。

「たしかにな。一気に持ってきてもいいぞ。みんな呪器を欲しがっている」

「呪器が歓迎されるなんて、ところ変わればだなあ……ずっとは持っていられないものだけど」

メレネーはいくつでも持ってきてウェルカムといった様子だ。

「俺が運んでくるにも限度があるけど、数個ずつぐらい試してみようかな」

呪器の運搬は、大陸間を航空機より早い速度で往来できるファルマにしかできないことだった。ほかの神術使いが船などに積んで持ってこようとすると、約一か月ほど時間がかかるばかりか、大量に積載された呪器は呪力が相互作用してたちまち悪霊を引き寄せる呪われた大型装置と化す。そうなれば、安全な航海などできはしない。たちまち遭難してしまう。

「それならマイラカ族が同乗していれば、霊が暴れ出しても対処できる。問題なかろう」

メレネーは次々とアイデアがひらめくようだ。

「あんまり一気に大陸間を往来しないほうがいいかもしれない。こう人の往来が活発になると……」

サン・フルーヴ帝国と交易船が行きかうようになれば、ファルマはひとつ懸念することがある。

「何か悪いことでもあるのか?」

メレネーの知見では人流が活発化するデメリットを実感できないだろうな、とファルマは推測する。これは地球人類史をみてきたファルマだからこそ予想ができることだ。

「ある。早めに対処しておかないといけない。人の往来が始まると、感染症も往来を始めるんだよね。これまではマーセイルの検疫所の検査を受けて、俺がメレネーたちを直接見てたから感染症の持ち込み、持ち出しはないみたいだけど……。それに、こっちに来るジャンさんたちの検査もしていたから」

有史以来、人類の移動には必ず感染症の移動も伴ってきた。

人類が誕生したそのときから、感染症は人類と切っても切り離せない関係にあった。

人の移動に伴って、感染症は旅をする。

地球史をふりかえれば、ローマ帝国ではシリアから天然痘が持ち込まれ、アフリカからヨーロッパへマラリアが広がり、モンゴルからヨーロッパへはペストが流行した。

コロンブスのアメリカ大陸到達の後、イスパニョーラ島と名付けた先住民の島を天然痘によって全滅させたこともあった。

ヨーロッパからアメリカ大陸へは天然痘や麻疹、水疱瘡、おたふく風邪を運び、アステカ帝国に深刻なパンデミックを引き起こした。

アメリカ大陸からヨーロッパへは梅毒が持ち込まれた。

1980年にワクチンによって天然痘を世界から根絶し、その後も世界的な取り組みとして感染制御を目指している地球世界とは異なり、この世界にはあらゆる感染症が保存されている。

(ほぼ確実に、マーセイル港の検疫をすり抜ける細菌やウイルスが現れる)

マーセイル検疫所の設備では、ウイルスの感染や、未知の感染症は検出できないからだ。

(渡航者には、天然痘、麻疹風疹、マラリア、ペスト、水疱瘡、破傷風をはじめ各種ワクチン接種を必須にし、出入国を管理しよう。それでも不十分だとは思うけど)

ファルマが感染症の恐ろしさを話すと、メレネーは腕組みをして唸った。

「この地を苛んでいた住血吸虫症を一瞬で駆逐したお前がそういうなら、備えておくべきなんだろうな」

「うん、予防できるものは予防しておこう。メレネーの言葉を借りれば、細菌やウイルスは見えなくても、存在しないわけじゃない」

「わかった。予防のための薬はあるのか」

「全てには対応できないけど、いくつかはあるよ」

地球世界の知識と技術、人に対する臨床使用実績とその効果検証の蓄積の恩恵によって、この世界の多くの人々の命も守られるだろう。

ファルマは牛痘接種の方法を開発し、世に知らしめた人々を思い出す。ベンジャミン・ジェスティは妻子に牛痘接種を行い、エドワード・ジェンナーは使用人の息子に牛痘接種を行い、その後二十回以上も故意に天然痘を接種した。

現代に生きるファルマからすればそれは美談などではなく、目を覆いたくなるような話だが、地球世界では長らく、薬の開発には現在の医療倫理の原則に反する、人権や当人の意思や同意を置き去りにした非人道的な研究が行われていた。

1947年に、第二次世界大戦における戦争犯罪を裁く医師裁判の一環で、人間を被験者とする臨床研究に対してニュルンベルク要綱が制定され、インフォームド・コンセントと自発的な参加、科学的に評価すること、参加者に対する利益を提供することなどが定められた。

現在の地球世界では、新薬や新しい治療法の開発は臨床試験を経てその安全性と有効性が確かめられ、インフォームド・コンセントによる自発的同意を得た多くの被験者から、適切に得られたデータをもとに、過去の薬に対する優越性なども検討されたうえで、ごく一部の薬だけが承認されて世に送り出される。製品となった後もデータは市販後調査の名目で集められ、有効性と安全性の確認と、治験で得られなかった新たな副作用情報の収集が行われる。

このため、医薬品の添付文書を年を追って見れば、作用や副作用の情報が充実してゆく。

効果が不十分だった、あるいは有効性がなかったとして、再評価の末承認取り消しや販売中止になり、ひっそりと消えていった医薬品もたくさんある。

地球世界で起こったことを、メレネーにだけはかいつまんで話しながら、ファルマは医薬品の歴史に思いをはせる。

「まあなんというか、血のにじむようなどころか莫大な犠牲の上に得られたお前の世界の成果だけをもらうようで申し訳ないが。開発者や試験参加者の霊には礼をいっておく」

「人種が違うから、全部安全だとは思わずに、この世界の人たちに適した薬の在り方を検証していこう」

などと思いながらも、マイラカ族に対しては、感染症の流行の予防のため、渡航者には数種混合ワクチンの接種、隔離期間の実施を義務付ける、という話をした。

ワクチン生産については、ペストの流行を契機にすでに準備を終えていて、マーセイル工場でいくつか生産体制が確立しつつあった。

備えあれば憂いなし、とはいかないが、憂いは少なくなるはずだ。

七月下旬までには、ファルマは神聖国周辺の呪器をマイラカ族のもとへ運んで無害化し、同時に、貿易関係者の間ではワクチン接種も始まった。

8月18日付近とみられる闇日食の日は、刻一刻と迫ってきていた。

ファルマは聖帝を通じてサロモンへ指示を出し、神聖国からの神官の撤退と立ち入り制限区域を設けるようにと伝えた。聖帝の細胞を培養している平民技師に対しても、万が一に備えて、細胞の管理計画をたてて8月18日付近で培養場が無人であるよう命じた。

その先も世界が続くことを願い、万全の備えとともに日々の生活を送りながら、ファルマは今日も異世界薬局に立つ。