軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

8章10話 薬神紋と雷について

1148年7月15日。

大学の勤務を終えて敷地内を出たファルマは、自身に杖を向けてきた大勢の武装覆面神官らを前に困惑していた。

エリザベスの下命でファルマ専属の護衛の聖騎士も何名かついていたのだが、いつのまにかいなくなっている。どこかで殺されていなければいいが、とファルマは気に掛ける。

数名の神官らが渾身の神力を込めて放ってきたであろう神封じの術を軽く弾いて、二十五名もの神官らの神術を物質消去を用いて同時に無効化する。

「私を封じれば神術は消えない、そう考える気持ちもわかりますが」

ファルマは杖も持っていない。

「この世界が安定するのと、わずかな期間神術をながらえて滅びるの、どちらが優先だと思い……っ⁉」

ファルマの言葉を遮るように、背後からフォーク状の巨大な杖で腹部に抜けるように刺されていた。

ファルマが肉体であれば致命傷になるが、物理攻撃を透過するため、彼は痛みすら感じない。

(これは……)

ファルマは自分の腹部から突き抜けた青い杖の先端を驚いて触りながら、凶器の正体を見極める。大神殿に伝わる邪神封じの秘宝だ、間違いない。実物を見たことがある。

まさか自分がそれで刺されるとは思いもしなかったが。

この杖はジュリアナがファルマから神力を奪うために持ってきたものと類似している。

秘宝の管理は厳重に行われているため、それなりに権限のある神官がこの襲撃に絡んでいることが推測される。

ファルマが言葉を失った隙に、背後から邪神封じの拘束鎖をかけられてきつく縛られている。

邪神封じの鎖は霊体にも効く、つまりファルマを拘束することもできるのだが、ファルマの秘めた神力量が大きすぎるために、まったく神力を吸収しきれていない。

「っ……一体どうしたいのですか」

ファルマは拘束されたふりをしながら彼らの目的を聞き出す。

「悪霊と戦う唯一のすべである神術をこの世から消そうとするなど、ありえない。そんな存在は邪神に違いない。エリザベス聖下もサロモン殿下も、まんまと邪神に篭絡されてしまっている」

(そういう解釈か。とんでもない理屈だな)

そもそもが思い込みの激しい人物ばかり集まっていると噂の神殿という集団だ。

ファルマは嘆きつつ、どうしたものかと考える。

縛られたままノーモーションでその場にいた全員に聖泉の水涸をかける。

神力が消えたことに気付き、激昂して自刃しようとした者のナイフの刃を、物質消去で消す。

少なくとも、自分の見ている前で自殺者を出したくない。どう弁解しようと、ファルマが彼らを殺した、という構図だけは作りたくなかった。

「神封じ、邪神封じ、物理攻撃は私には効きません。頭が冷えるまで、神術は預かっておきます。大神官にも報告しません、そもそも私はあなた方の敵ではない」

憎悪に曇った瞳には何も映らず、もう何を言っても聞く耳を持たないのかもしれないが、とファルマは俯く。

「一時の気の迷いであることを願います。ほとぼりが冷めたら、後日会いにきてください」

ファルマは邪神封じの鎖をまるで糸くずを切るように引き裂いてその場に放り投げ、砂ぼこりで汚れた服をパンパンと手で払う。服に穴が開いてしまった。

神官らはほうほうのていでその場を立ち去って行った。

とはいえ、神術の使えなくなった神官はもう神殿には戻れない。

神殿組織では悪霊の侵入を防ぐため、朝と夕に一日二度、公然で神力量の確認をしなければならない。

聖泉の水涸をかけられていれば、神力量はゼロを表示する。すぐにバレてしまう。

造反者を処刑することはできるが、そこまで自暴自棄になっている神官が次々と現れている状態であれば、ほかの一団が報復に来るか、ファルマの身近な人々に攻撃が向かうだけだ。

毎回襲撃者のメンバーは違えど、とにかくファルマの思惑を止めたいという勢力が後から後から蠢いているのは想像できた。

エリザベスやサロモンに告げれば、彼らの性格から予想しても、裏切者の命はないだろう。だからファルマは一度もこの件を報告していない。

ファルマの対応が甘いことがかえって、襲撃をエスカレートさせているような気もする。

(これで三度目の襲撃か。守護神と聖下の求心力は弱まり、神殿組織の統率に歯止めがきかなくなっている)

あの日、聖帝エリザベスの招集でファルマは神官らを集め、神術をこの世界からなくす予定だと宣告した時点で、神官らからいくらか造反が出ることはわかっていた。

神術を取り上げるということは、貴族らのアイデンティティにかかわる。

心の準備期間を与えるという意味合いもあるが、造反者をいぶり出すために早めに伝えていたともいえる。

(どうせ神力をはく奪されるなら、ワンチャン賭けようと考えるのかなあ……)

だがこうも頻繁に一人で大勢の神官に囲まれるのは想定外で、弄られているような気にもなるし、特に敵視してもいない大の大人にこれでもかと憎悪を向けられると単純に落ち込む。

神術を失ったあと神殿組織は解体されるのか、地球世界のように神術のない状態でも世界的宗教団体として存続するのか。

それはエリザベスの判断による。

大陸唯一の宗教として、世界各国への支配を維持することは難しいだろう。

神殿を後ろ盾に即位していた各国の王たちも、軒並み追放されてしまうかもしれない。

今、ファルマを襲撃してきている彼らも路頭に迷ってしまうかもしれないが、代書屋などをやって生計をたててゆくことはできるし、退職金などを支払って生活を保障することはできるかもしれない。

(貴族や神官の生活保障もしないと、治安の悪化につながりそうだな……)

その制度を、エリザベスに早めに提案する必要がある。

場合によってはファルマの個人財産の殆どを充当してもかまわない。

ただ、元貴族優遇にしてしまうと平民との格差問題にもなる。

ファルマの排除を企てている神官たちもいる一方で、ジュリアナやリアラなどはファルマに対して逆恨みしている様子もないが、それに甘えるべきではない。

明日の生活が保障されなくなるなら、造反が出るのは当然なのだ。

ファルマは帝国医薬大学内の敷地に対して診眼をかける。

すると、病棟以外に青い光の反応が集まっている部分がある。

「屋上か」

ファルマは人目のない建物の影に隠れ、目的地にむけて跳び、ふわりと静かに屋上に着地する。

探していた護衛の聖騎士らはボコボコに殴られて屋上の鳩小屋の前に転がされていた。ファルマは致命傷がないことを確認して縄を切ってやり、救出する。

エリザベスが直々に選んだ聖騎士らの人選に間違いはないのだが、武装神官の技量はその上をゆき、神術使いの技能を制限する神術もある。

武装神官に襲われたら、聖騎士らもひとたまりもない。

「すみません、ファルマ様。屋上に呼び出されて何者かに襲われて動けず。お怪我は」

「怪我はありません。あなたがたこそ外科医に治療してもらってください。今日は帰るだけなので、もう護衛はいりません」

「は……ファルマ様には何かございましたか?」

「ありません」

「は、それでは本日は失礼いたします」

護衛が怪我をする頻度のほうが高いので、もう放っておいてほしい。

ファルマは護衛らを帰宅させると、厩舎から馬を出しつつ思い悩む。

「よっ」

誰が声をかけてきたのかと思えば、エレンが馬上からファルマを見下ろしていた。

「ファルマ君。今から帰るところ? ちょっと付き合ってよ」

「いいよ、一緒に帰ろう」

ファルマもシルヴェスタという自馬に騎乗する。

この馬にも危害を加えられるようなら、もう通勤に馬を使うべきではない。

帰宅途中の襲撃に遭わないよう、飛んで移動をすべきだろう。

護衛もいらないというべきだ。不便なことが増えてゆく。

「お腹と背中、大丈夫だった?」

エレンは尋ねるのを迷ったようなそぶりを見せながらも、直撃してきた。

「そっか、さっきの見てたんだ? 嫌なもの見せちゃったね」

「見ちゃった。助けようと思ったけど、あっという間に形勢逆転してたから出番なくて」

「全然平気だよ。服に穴があいたぐらい。背中側、目立つかな」

「コートを脱いで腰に巻いてたら見えないよ」

「ご指南ありがと」

ファルマは切なくなりながらその通りにする。

「あんなことされたのに、許しちゃうんだ」

「許すとか許さないじゃなくて、黙っておくだけだよ。エレンも黙っていてくれると嬉しい」

エレンの口は堅いが、念をおしておく。

「いいわ。でもあれ、ガチ神封じの神術で、刺されてたの秘宝だったでしょ。なんであんな状況に?」

「なんか、邪神に見えるんだってさ」

「へこむわね……」

「ね、でも気持ちはわからないこともないから」

エレンはどこまで聞いただろうか、とファルマは懸念するが、彼女の反応を伺うと、肝心な部分は聞いていないようにも思える。

「確かにファルマ君は強いし神力も切れないしどんな攻撃も通らないけど、だからってさすがに邪神扱いは酷いよね……そもそも邪な部分ある?」

エレンはかなり憤っている。

「聖下にバレてクビになっちゃえばいいのに!」

そろそろクビになった頃だろう、後で詫びに来れば神力を戻してもいいが、とファルマは他人事としてそう思う。

神官の行動原理も理解できるだけに、憤るほどの感情がわいてこないファルマに対し、エレンのほとばしる感情がまぶしい。

「そういえば、何に付き合えばいい? 今日は護衛がいないから付き合えるよ」

「神術訓練! ちょっとだけだから」

「なるほど、でも俺とエレンじゃ、あまりいい訓練相手にならないかもしれないな。怪我もさせたくないし」

ファルマが攻撃をしなくても、エレンが自爆したりするということはありえる。

怪我をされれば治すのはこちらなので、わざわざ傷つけたくない。

「なによー見くびらないでよー」

「実際、相手にならないよ」

ファルマは神籍に入ってより、模擬戦とはいえ対人戦闘を避けるようになっている。

新大陸でメレネーたちと戦った時に、対人戦闘はすべきではないと学んだ。

「ファルマ君と随分試合ってないから、たまにはいいでしょ」

「うーん」

「Voulez-vous danser ?(私と踊らない?)」

エレンはいたずらっぽくほほ笑む。

「Oui」

断りたい気もしたが、ダンスに誘うセリフで申し込まれると頷いてしまう。

三十分ほど馬を走らせて到着したのは、ボヌフォワ邸の所有する湖のほとりの神術訓練場だ。

二人で馬を繋いで、五メートルほどの距離をとって正対する。

「あれ、杖いらないの? 命の次に大事な神杖は?」

ファルマはエレンが杖を外して荷物と一緒にベンチの上に置いていることに気付いた。

そういえば、ファルマがこちらの世界にきて初めてエレンの個人授業を受けた日、杖を持っていなくて怒られたな、と思い出す。

そのエレンが杖を手放すのはどういった心境だろう。

「今日はいいわ。みてて」

エレンは杖を持たず、指先に神力を集中しはじめる。

彼女の周囲に神力が漂い、大きなハンマー型の形状になってゆく。

「すごい! 無杖、無詠唱の上位神技の水の大槌だ! この短期間にすごいよ」

ファルマは素直に驚いたので惜しみなく褒める。

エレンはファルマの歓声に集中が切れて、術が解けた。

「ファルマ君やパッレ君のいうことがやっと分かってきたから、見てほしくて」

エレンは照れたように髪をかき上げる。

「ちゃんとできてるよ」

「素手で撃つ神術、こんなに軽くて操作性が高いんだね。ファルマ君が杖を持たなくなったの、わかる気がする」

「フォーマルな場では持ってるけどね」

「私も君も、毎日何百回と杖を振ってきたでしょ。杖を握る手に血豆ができて潰れてさ。毎日杖を磨いてさ」

「エレンは杖が好きだったもんね。何本持ってるんだっけ」

「324本」

「……博物館が開けそう」

この世界の人々が杖を振るって悪霊から人々を守ってきたから、今の世界がある。

でも、これからは役割を終える。

ファルマが何とも言えず彼女を眺めていると、エレンは笑顔で振り返る。

「神術戦闘の前に、ファルマ君の神術も見せてくれる?」

(墓守との決戦を考えれば、もうあまり神力を使いたくないけど……)

ファルマは神力消費をおさえながら予備動作なしで湖面を凍てつかせ、表層に美しいフロストフラワーを形成する。エレンはきゃーっと言いながら湖に走り出す。

フロストフラワーはファルマが風を作り出すと空中を舞い散って太陽光を反射し、ダイヤモンドダストを伴った幻想的な光景を作り出す。

「走ると滑るよ」

注意が遅かったか、既に滑って尻もちをついていた。

ファルマも湖面を踏みしめて、少し冷やされた空気に浸り、つかの間の癒しを得る。

「真夏の銀世界! 夢を見ているみたい。こんな神技見たことないわ!」

「神術が描き出す光景を、たくさん写真に撮っておくといいね」

そしていつか、かつて存在した思い出として懐かしむといい。

異世界に根差し、異世界の人々を悪霊から守ってきたこの技術は、もうじき消える。

それぞれの胸に思い入れはあるだろうが、ファルマの心に躊躇いはなかった。

湖面の氷を溶かして、元の湖の姿に戻す。

「そろそろ神術戦闘してもいい?」

「エレンは思い切り打ち込んできてよ。俺は反撃はしないけど防御したり躱したりはする。それでよければ相手になるね」

「ファルマ君は神術に当たっても怪我しないんだっけ」

「しないよ。俺が怪我したの、三年前に落雷を受けたあの日から見たことないでしょ」

あの日からずっと、かすり傷ひとつない。

「そうだったんだ!」

意外と気付かれてなかったのだな、とファルマは目を丸くする。

「そう、的だと思って撃ってきてよ」

それでもサンドバック状態にならないのは、とにかく、神術に関しては攻撃を受け付けないからだ。

「わかった。胸を借りるね。お相手ねがいます」

エレンは杖を地面に置き、上着を脱いでトレーニングウェアになり、素手で構える。

ファルマはエレンの的になるために少し彼女から距離を取る。

エレンにとって、一方的に神術を打ち込むのにこれほど最適な相手はいない。

神術使いと試合をすれば、必ずどちらかが怪我をする。恨みっこなしが基本だとはいえ、やはりお互いの禍根を残す。ファルマはその心配がない。

無敵の守護神は、怪我をしない。

ありとあらゆるダメージが入らない。

「いつでもどうぞ」

エレンは一気に神力を練り上げる。

最初の攻撃は下位、「水の槍」を無杖、無詠唱、ノータイムで繰り出してくる。

速度、威力ともに、以前より格段に強化されている。

ファルマは襲い来る水柱を神術を使わず、よけもせず受け止める。

ファルマの体に触れた水属性神術の攻撃は、水蒸気となって消えてしまう。

ファルマが攻撃を受けている間に、エレンは中位、「水の戯れ」を無詠唱で立ち上げ、波状攻撃をしかけてきた。これもファルマは見切り、身をよじって水滴の弾丸をかわす。

地をえぐる攻撃をみるに、以前彼女の技を見たときより、水弾が加速している。

初めて出会った頃から既に上位神術使いであったエレンは、紛れもなく帝国屈指の達人の域に達している。

無詠唱、無動作の神術は、相手に次の一手を読ませない。

術の展開速度はパッレより速い。彼女に勝てる神術使いは、そうそういないだろう。

エレンは脚先の動きを使って、上位、「水の精」を展開している。

まるで自我を持ったかのように攻撃を仕掛けてくる水の巨人を、ファルマは指をはじいて消滅させる。

(速くなってる。成長してる)

術の立ち上げと整形、安定化には目を見張る。

興味深い、ファルマはそう感じた。神術を磨き上げていたのはパッレだけではなかった。

エレンもまた、神術の改良と進歩を見せている。

エレンは出し惜しみをせず、変幻自在の攻撃を繰り出す。

脚に神力を凝縮させて湖の水面へとたたきつければ、湖面にステップを作ることができる。

エレンは湖を駆け、あらゆる角度から神術を撃ち込んでくる。湖上の戦闘においては、湖底から剣山が突き上げるかのような攻撃を受ける。

氷の剣山は、ファルマの頬をかすめた。生身であったら即死していた。

「見たことのない神術だね、すごくいい」

「ゾクゾクするでしょ?」

水、氷、熱水、水蒸気、すべての水属性神術を撃ち尽くして、これで十六連撃。

ファルマはわき目もふらず自分に向けて変幻自在の攻撃を放ってくる彼女に、躍動する美を見出した。

彼女の体にわずかに宿る薬神紋が神力を供給し続けているとはいっても、神力計で測定したエレンの一日の神力上限を超えている。

ファルマはエレンの全力をみたことがない。これが初めての機会となる。

(エレンの持っている神力を使い果たしてしまいたいかのような)

神力消費量には日内上限があるので、霊薬や禁術を使わない限り、短期間に神力を使い果たすことは難しい。それでも、エレンの神力消費のペース配分は、全力を思わせた。

「エレン、そろそろ神力の日内上限でしょ」

「やっと神力が空っぽになった。これを待っていたの。みて、ここからが本番だから」

エレンは両手を胸の前に出し、細心の注意を払いながら、ごくごく小さな水滴を作り出した。ファルマには殆ど見えない、拡大視を使ってようやく見える程度だ。

ただの神術水に見えるが、ファルマは感想を控えてじっとその様子を観察する。

エレンは小さな水滴に神力を込めてゆく。そして、ファルマに告げた。

「これ、何だと思う?」

「わからない」

眼鏡の奥のエレンの、青く涼やかな瞳とファルマの視線がぶつかりあう。

ファルマはエレンの瞳に宿った力の強さに惹かれる。

「それ、なに」

ファルマは真顔で尋ねる。

「ファルマ君に教えてもらったもので、ファルマ君がまだ造ったことがないもの」

エレンは妖艶な笑顔でなぞかけをしながら、回答をはぐらかす。

彼女は作り上げたものを人差し指で湖面に放つ。

すると、その場で湖水はすべてを噴き上げるほどの大爆発を起こした。

大地は揺らぎ、鳥は湖畔から一斉に飛び立ち、爆風が木々をなぎ倒す。

ファルマは降り注いでくる湖水すべてを咄嗟に物質消去で消す。

放っておけば、五秒後には周囲一帯大洪水になる。

何が起こったのか、ファルマは考えを巡らせる。

「超臨界水でも作った? 核物質?」

「違うわ」

「反物質か」

反物質自体は安定なものだが、わずか1グラムの反物質を物質と衝突させただけで、対消滅が起きて核兵器にも匹敵するほどのエネルギーがその場に残される。

エレンは知っていたのだろう、あるいは計算したのだろう。

反物質創造を完全に制御して、何とか湖水と相殺できるほどのエネルギーにとどめた。

「反物質」を扱う人間は、人体のすべてを反物質で構成された「反人間」でなければならない。

エレンの体は物質でできているため、反物質に触れれば致命的となる。

なんて危ない橋を渡ったんだ、とさすがにファルマは青くなる。

「空気中の水蒸気と反応してはいけないから周囲を真空にしていたの。見た? 私ね、反神力を使ったのよ」

「反神力……」

ファルマは全く新しい概念の登場に戸惑う。

「神脈から神力を引き出すのではなく、神力の枯れた空っぽの体で、無のエネルギーを神脈に押し込むの。この世界に存在する神力を、自身の神脈の向こうに返すのよ。そして向こう側に送った力をもう一度薬神紋から引き出すの。その時に、反神力が発生し、反物質を作れるようになる」

「すごい……」

ファルマはお世辞ではなく、エレンの偉業に圧倒されてした。

神力と対になる力が見つかった。それで神力や呪力とつり合いがとれるのならば、神力と反神力のバランスを整えるだけで、神力や呪力をなくすことなしに、世界の調律をしていけるかもしれない。

エレンは神力切れを起こして起き上がれないようだった。

ファルマは神力を補充せず、エレンの背中に自身のコートを敷いてエレンと空を見上げる。

「大した発想力だよ」

「ファルマ君の物理学の講義を聞いていてよかったわ」

「発案と実験を同時にこなして、それに反物質をその場に固定するって、すごく難しいんだよ。そこまでのことを、無傷でできるようになっていたなんて」

ファルマはエレンが怪我らしい怪我をしていないことに驚く。

たった一度失敗しただけで、即死は免れ得ない。

地球においては、反物質の生成は素粒子衝突型加速器内での衝突によって行われる。

「エレンはやっぱり神術の専門家だよ」

「たまにはそう言われるのも悪くないわね」

「でも、何で反神力で反物質なんて作ろうと思ったの?」

「ファルマ君が私にくれた薬神紋のかけらがヒントになったんだよ」

エレンは恥ずかしそうに打ち明ける。

落雷によってファルマに宿った二つの薬神紋。

その欠片を、エレンは授かっている。

「雷は反物質を大量に作ってはすぐに対消滅している、ってファルマ君講義で前言ってたの、覚えてる? 薬神紋は雷の形をかたどっているでしょう。変だよね? 薬神の紋なのに。雷神じゃないんだよ。何で薬神が雷なんだろうって。だから、何かヒントをもらっているような気がして、色々と試しているうちに薬神紋を使ってみたの」

偶然だったのだろうが、なぜ雷を通して薬神紋が宿ったのか、薬神紋が雷のモチーフを用いているのか、ファルマにはずっと理解できなかったことだった。

彼の性格的に分からないで片づけることができず、これは雷ではなく薬用の樹木や藻類を模したフラクタル図形なのではという結論に落ち着いていた。

メレネーたちには根として認識されていた。

これは何かのヒントだったのだろうか、と今になって振り返る。

ファルマがそっと神力を注ぎ込んでエレンを助け起こすと、彼女はようやく歩けるようになった。日内上限を使い切らなければ発動できない、反神術。

まぎれもなく革新的アイデアだ。

「反神術、ファルマ君にもできるよ、きっと」

「俺には日内上限がないけど。もしかしてこれ、この世界でエレンにしか使えないんじゃないか?」

「でもファルマ君には薬神紋が二つもあるんだよ? どっちかを入力ゲートにして、どっちかを出力ゲートにするんだよきっと。私とは違うやり方かもしれないけど、出来るはずだよ」

「んー……試すのも怖いな。この惑星上で練習するのはやめとく」

やるとしても、誰もいない場所、望ましくは真空中でやるべきだ。

下手をすると、惑星一個分消えてなくなるかもしれない。

「宇宙に向けて練習したほうがいいかもね。ファルマ君らしいや」

「自分でも使ってみたほうがいいな、課題が増えた」

エレンはスケールの大きな話になってきた、とほほ笑む。

「ファルマ君の人生の課題の一つにしてもらって光栄だね。ところでこれまでの課題はこなせたの?」

「一つ目は薬局を開きたかったけど、それはもう叶った。もう一つは、この世界の医療が発展して、助かるはずの病気で亡くなる人が減っていくことかな。これももう、叶いつつあるね。帝都の平均寿命を十歳引き上げるというのも叶った。俺が教えられることは限られている、種火はきっと灯せた。あとはこの世界の人々が引き受けてくれる」

「その他には、これといってやりたいことってないんだ?」

「ないよ。なんか底の浅い人間でごめん」

ファルマは申し訳なさそうに頭をかく。彼の妹、薬谷 ちゆが令和の時空で助かっていて、薬谷 完治と幸せそうにしていた。

それを一目見ることができたら、この世への未練のようなものはもうない。

あとは墓守とぶつかって、この世界の正常化へと舵を切らせる。

こちらの世界から神術や呪術がなくなれば、向こうの世界への悪影響もなくなるだろう。

エレンがたった今提示したアイデアは、ファルマの作戦を変更させるかもしれない。だが、それでも使命を果たして、きちんと死ぬときが来たんだろうな、とファルマは思っている。

「そういう意味じゃなくって、自分自身の幸せは?」

「今、十分に幸せだよ」

「その答えは納得できない」

エレンはふくれたように眉をひそめる。

「エレンの人生の課題、っていうか夢はたくさんある?」

「あるわ。薬学をもっときわめて、異世界薬局がずっと続くようにして、おばあちゃんになっても薬を調合していたいの」

詳しい話題は避けているが、エレンも誰かいい人と結ばれるんだろうな、とファルマは漠然と思う。ファルマ自身は、彼女の人生にかかわってはならない。

パッレはあれでもいい人だしお似合いだと思うよ、と口添えをしたいところだが、お互いまったく眼中にないようなのでやめておく。

「それは楽しみだね。夢はたくさんあったほうがいいよ」

そのとき、ふいに湖から吹き上げてきた風が二人を大きく煽った。

エレンはとっさにファルマの手をつなぎ、抱きしめるようにする。

「エレン?」

「ごめん、急に。ファルマ君、どっかに飛んで行っちゃうかと思って」

「……飛んでいかない。ここにいるよ。今日も、明日も、来年も、三年後も」

でも、十年後とは言わない。

できない約束はしない。

「エレンも俺も、ちゃんと人生を楽しんでる。今を生きてる。だから今日は、それでいいことにしよう」

「……うん」

エレンは溢れだした涙を隠すようにファルマの手をつかまえたまま、しがみつくようにして体を預ける。

ファルマの身長はエレンを追い越して、少し見下ろすほどになった。

体は大人になってゆくが、この存在はまがい物だ。

エレンの体温に触れながら、ファルマは静かに目を閉じた。

「さっきのエレンの技、かなりインパクトがあったよ」

まだファルマは先ほどの興奮が醒めやらない。

エレンはぎゅっと彼を抱きしめる。あまり強く触れると、ファルマの体を透過してしまう。

存在の輪郭をなぞるように、そっと触れた。

「人生設計、変わっちゃうぐらい?」

「……そうだね。そうなるかもしれない」

「ファルマ君の人生設計が、いい感じになることを願うよ」

彼女のアイデアは、まだ自分を地上につなぎとめるかもしれない。