作品タイトル不明
第14話 思い出と進む先
会場の端にいる俺たちのところまで、競りのざわめきが波のように広がってきていた。
正面の大型モニターには、《千景を継ぐ額縁》が映っている。
司会の声が、ホールの奥から響いた。
「二百二十万」
「まだ上がりました……!」
乃々さんが、胸の前で両手を握りしめた。
さっきまで展示品の前で目を輝かせていた時とは、明らかに違う。今の乃々さんは、目の前で起きていることに飲み込まれかけている。
「ここからは、欲しい理由がはっきりしている人同士の競り合いだね」
「二百万を超えても、降りない人がいるんだ」
「この額縁、必要な人に見つかった」
「必要な人に……。そうですね。本気で欲しいと思ってくださる方が何人もいるんですね」
「二百四十万」
表示が切り替わる。金額だけが上がっていくのに、会場の奥にいる人たちの顔は見えない。
だからこそ、余計に不思議だった。
俺たちが箱から出した額縁を、誰かが本気で取り合っている。
「落札希望者……個人、施設、代理……いろいろあるんだ」
「個人所有、美術収蔵、ホテルや式典会場。用途はかなり広いと思うよ〜」
「二百六十万」
「二百六十万……!」
「まだ、止まらない」
目を丸くするニーナに、千紘さんが微笑む。
「この額縁は、ただ飾るだけの品じゃないからね。過去に見た景色を、室内で再現できる。施設側にも、個人にも刺さる」
「いつでも見られる、思い出の再現」
「額縁なのに、そこまでできるんですね……」
乃々さんの声が少し震えた。
撮影者として、宝箱から出た瞬間を最初に見届けた人として、今の金額はただの数字ではないんだろう。
木箱から出た額縁が、知らない誰かの事情に触れている。
その事実が、会場の熱をさらに押し上げていく。
「二百八十万」
「ここまで来ると、見たい景色がある人が残ってる感じがする」
「たぶんね。絶景だけじゃない。家、庭、店、病室、食卓。本人にとって大事な場所なら、価値は跳ねるよ」
「大事な景色は、豪華とは限らない」
静寂が広がった後——。
「三百万」
「三百万! 信じられません!」
乃々さんの声が、会場のざわめきに混ざった。
すぐに、両手で口元を押さえる。
俺も、言葉がすぐには出なかった。
三百万ゴールド。
Ⅲ級昇格に必要だと言われていた資金ラインに、この一品で届いてしまった。
「千紘さん……三百万って」
「うん。Ⅲ級昇格に必要な資金ラインへ届いたね」
「じゃあ、本当に……」
「資金条件は、今ので満たしたことになるよ〜」
その言葉で、ようやく実感が追いついてきた。
銅箱から出た額縁。
ただ、島の景色を映しただけだと思っていたアノマリー。
それが今、俺たちがⅢ級へ進むために必要だった金額を越えた。
「一品で……。あの額縁だけで……!」
「でも、まだ終わってない」
ニーナが、画面から目を離さずに言った。
「まだ、欲しい人がいる」
「三百二十万」
「まだ……!」
乃々さんが、今度こそ言葉を失った。
三百万で終わると思っていた。
少なくとも俺は、どこかでそう思っていた。
けれど、会場の奥にいる誰かにとっては……違う。
「残っている入札者は、かなり絞られてきたね〜」
「これは……画面の表示、さっきから同じ番号が残ってるよ」
「個人登録の入札者だね。ずっと迷っていない」
「欲しい景色が、はっきりしてる、のかな」
「たぶんね。値段じゃなくて、その景色を見ることを選んでる」
ニーナは、画面の中の額縁をじっと見ていた。
その横顔はいつも通り静かだけれど、何かを見届けようとしているようにも見えた。
「三百五十万」
金額が変わった瞬間、会場の空気が止まった。
大きな声が上がったわけではない。
ただ、誰もが次の表示を待っているのが分かった。
「施設関係者の入札が止まった」
「残ったのは、個人登録の人?」
「ええ。代理入札も止まった。今の札で、ほぼ決まりだと思う」
「ほかにございませんか」
司会の声が、広いホールに響いた。
俺たちのいる端まで、静けさが届く。
乃々さんは息を止めていた。
ニーナも、瞬きせずに画面を見ている。
「三百五十万ゴールド」
ひと呼吸置いて……
「落札です」
モニターに『落札』の二文字が表示された。
乃々さんが、ふっと息を吐く。
「三百五十万ゴールド……これだけあるなら、宝箱のアノマリーも買えますね……ごくり」
「のの、これは昇格用のお金」
「おめでとう。連理くん、乃々ちゃん、ニーナちゃん。資金面は、これで大きく越えたよ」
「額縁、ありがとう」
◇
落札処理が終わってしばらくしてから、会場の端にいた俺たちのところへ千紘さんが戻ってきた。
「落札者の方が、少しだけ話をしたいそうよ。無理にとは言わないけど、会ってみる?」
「俺は大丈夫だよ。乃々さんは?」
「私も……お会いしたいです。是非!」
「ニーナも見る」
案内された応接室は、会場よりずっと静かだった。
机の上には、布をかけられた《千景を継ぐ額縁》が置かれている。
上品な着物姿の女性が、ゆっくり立ち上がった。
「久遠寺小夜子です。あなたたちが、この額縁を箱から出した方々ね」
「日野枝連理です。こっちが乃々さんと、ニーナ」
「あ、安曇乃々です……!」
「ニーナ」
小夜子さんは、ニーナをまっすぐ見た。
「あなたが、この額縁の性質を見抜いた精霊さん?」
「見た。これは、景色を閉じ込めるものじゃない」
「では、何かしら」
「もう行けない場所を、もう一度見るためのもの」
「……ええ。きっと、そうなのでしょうね」
小夜子さんの声は穏やかだった。
けれど、額縁に向ける目だけは、長い時間をかけてここまで来た人のものだった。
「久遠寺様。効果確認は、こちらで行いますか?」
千紘さんの声に小夜子さんは少し間を置いて応えた。
「お願いできますか。もし映らなくても構いません。私は、これを買ったことを後悔しませんから」
その言葉に、小さく唇を結ぶ乃々さん。
たぶん、今の一言だけで分かったんだ。
この人は、高価なアノマリーを手に入れたかった……そんな人じゃない。
「小夜子さんは、どんな景色を見たいのかな」
「高級ホテルでも、美術館でも、海外の別荘でもありません」
「では……」
「子どもの頃、祖母と暮らしていた小さな家の台所です」
「小さな台所」
ニーナの言葉を聞いた小夜子さんは少しずつ、思い出すように言葉を出した。
「磨り減った木のテーブル。古い窓。物干し竿にかかった白い手ぬぐい。狭い庭に咲いていた朝顔。祖母が座っていた古い椅子」
「それを、もう一度見たいんですね」
「ええ。長い間、思い出せると思っていました。でも、人の記憶は少しずつ薄くなるのね」
応接室の空気が、少しだけ深くなった。
乃々さんは、ただ、小夜子さんの声を聞いていた。
「顔は覚えているのに、部屋の広さが分からない。匂いは覚えているのに、窓の位置が曖昧になる。大切だったはずの場所が、少しずつ遠くなる」
「きっと、その台所、映るよ」
「額縁へ触れてください。無理に強く思い出そうとせず、最初に浮かんだ景色をそのまま見てください」
「分かりました」
小夜子さんの指先が、額縁に触れる。
額縁の内側に淡い光が満ちた。
最初は、ぼんやりとした色だけだった。
そこから生まれる輪郭。
暗い木の色。低い窓の形。白い手ぬぐいの揺れ。狭い庭に差す明るさ。
「額縁が……」と乃々さん。
「映り始めた」と俺。
「……ああ」
小夜子さんの声が、そこで小さくほどけた。
「台所……です」
「お椀から、湯気」
「本当だ。お椀から湯気が上がってる」
「こんなに小さな台所だったのね。子どもの頃は、もっと広いと思っていたのに」
額縁が描いた景色を見て、乃々さんは笑んだ。
「窓の外に、物干し竿があります。白い手ぬぐいも……」
「庭に、朝顔」
「祖母が、いつもここに立っていました。私はその椅子に座って、味噌汁の匂いを待っていたんです」
画面の中に、人は映っていない。
けれど、古い椅子の前だけ、小夜子さんの視線が長く止まった。
そこにいない人を、そこにいるみたいに見ている。
そう思った。
「……ちゃんと映ったんだね」
「はい。映りました」
「すごいです。宝石でも、お城でも、絶景でもないのに……目が離せません」
一筋の涙が流れ、落ちていく。
「私には、これが一番高い景色です。もうどこにもない……いくらお金を払っても見られない光景」
「小夜子の、大事な場所」
「ありがとう。これは、もう会えない人と過ごした場所を、ほんの少しだけ見せてくれるものなのですね。素晴らしいものをありがとう」
「俺たちは、たまたま箱から出しただけだよ。でも……その景色が、ちゃんと映ってよかった」
「たまたまでも、私には意味があります。あなたたちが開けてくれたから、私はこれを見ることができました」
「宝箱の価値って、人によってこんなに変わるんですね」
「そうね。その人に必要だから、高くても欲しいと思うのよ」
「額縁、いい人のところに行った」
「ええ。大切にします」
「お願いします」
小夜子さんは、もう一度だけ額縁を見て、それから深く頭を下げた。
応接室を出ると、廊下の明かりがまぶしく感じた。
さっきまで見ていた小さな台所の色が、まだ目の奥に残っている。
「これで資金面は問題なしね。連理くん、乃々ちゃん。必要なゴールドは、きちんと越えたわ〜」
「三百五十万ゴールド……。まだ信じられません……」
「Ⅲ級昇格に必要な資金条件は満たしたわ。残る条件は、Ⅱ式ダンジョンの正式クリア」
「また新しい箱、探そう」
ニーナがそう言うと、乃々さんが小さく息を吸った。
資金の問題は越えた。
あとは、俺たちがⅡ式ダンジョンを正式にクリアするだけだ。