作品タイトル不明
第9話 お疲れさまでした
朝、約束の日。
空は低く、雲が垂れていた。雪というほどではないが、雪を含んだ雲の色だった。廊下の窓から、その雲が見えた。
廊下に、四枚の肖像画がまだ並んでいた。ハロルドが廊下の中ほどに立っていて、その後ろに、ミミと、別の若い使用人と、年配の使用人の三人が控えていた。三人とも、揃いの淡い青に染めた制服を着ている。半喪の、黒に近い色は、もう誰も着ていなかった。
私は廊下の端から入った。
「お早うございます、奥様」
ハロルドが頭を下げた。
「お早う」
私は肖像画の一枚目に近づいた。近づく前に、もう一度、四枚を順番に見た。額の縁が、昨日よりわずかに明るい。誰かが夜のうちに、薄く拭いたのだろう。私がミミに頼むつもりだった仕事は、私に頼まれる前に終えられていた。誰が拭いたのかは聞かなかった。聞かない方が、頼まれずに動いた人の選び方を邪魔しない。
私は一枚目の前に立った。
若い女性の絵だった。肩から上だけが描かれている。穏やかな顔立ちで、笑っているわけではない。ただ、笑っていないことが、彼女の不機嫌ではなかった。
「マチルダ様」
私は低く口に出した。声を廊下の長さに合わせて調整した。廊下の向こうまで届かせる必要はない。絵の中の彼女まで届けば、それでよかった。
「初めまして。お会いしたことはありませんが、お名前は伺いました。流行り病とは、無念でしたね。旦那様が戦地にいらした間、ずっとお一人で」
私はそこで一度止まった。自分の言葉を確かめるためだった。
彼女が本当に一人だったかは、私には分からない。お側に家令も給仕も医師もいたはずだ。けれど「一人」というのは人数のことではない。ご自分の夫がお側にいなかった、ということだった。それが、一人ということだった。
「これからは、皆さんとご一緒です。廊下にお立ちのままで、お疲れだったでしょう。礼拝室で、ゆっくりお休みください」
私は頭を下げた。下げてから、後ろのハロルドの方を見た。ハロルドがわずかに頷いた。
ミミが、もう一人の使用人と一緒に、絵の方に進み出てきた。丁寧に、額を両側から持ち上げる。額の長さはミミの背の半分くらいあって、重さもそれなりにあるようだった。けれど、彼女はしっかり両手で抱えていた。持ち上げて、ゆっくり廊下の奥に運んでいった。
廊下に、一枚分の絵の場所が空いた。空いた場所の壁の色が、わずかに他と違っていた。長く絵がかかっていたところは、壁紙の色が抜けずに残っている。他の場所は三年の間にわずかに褪せた。だから絵があった場所だけ、もとの色のまま、四角く残った。
私は二枚目の前に立った。
絵の中の彼女は、もう少し年上だった。二十代の終わりだろう。落ち着いた表情で、ドレスの胸元に控えめなブローチがひとつ描かれていた。
「エイラ様。初めまして。お産の苦しみは、私には想像もつきません。お子様もご一緒、と伺いました。お二人で、ゆっくりお休みください。これから、皆さんとご一緒になります」
私は頭を下げた。下げて、もう一度ハロルドを見た。
ハロルドの顔の、目の下のあたりが、わずかに緊張していた。彼が緊張するというのが、私には少し意外だった。ハロルドは家令で、こういう場面に長く立ち会ってきた人のはずだ。それでも、彼は緊張していた。
たぶん彼は、私が何を言うのか、本当には知らずに立っていた。私の言葉の順序を、彼は決めていない。私はただ廊下に来て、目の前の絵に口を開いて、出てきた言葉を絵に渡しているだけだった。
二人目の絵が運ばれていった。
私は三枚目の前に立った。
絵の中の彼女は三十を過ぎていた。肩の開きがしっかりしている。長く屋敷を回してきた人だ。家令と給仕と料理人をまとめ上げてきた、女主人の姿勢だった。
「ロザリー様。初めまして。ご心臓をいきなり止められたのは、無念だったかと。旦那様がお戻りになって、三日後だったと伺いました。三日、お会いになれたのが、お救いだったと信じます」
私はそこで一度止まって、目をわずかに伏せた。
三日が長いか短いか、それを決められるのは彼女本人だった。私が勝手に「救い」と決めていいことではない。それでも、私はその言葉を選んだ。選んだ責任は、私が取る。今日の私の言葉は、私が責任を取る。取らない言葉を廊下に置いて立ち去ることは、私はしない。
「これから、皆さんとご一緒になります」
私は頭を下げた。三人目の絵が運ばれていった。
私は最後の、四枚目の前に立った。
横顔の絵だった。正面を描かれていない。療養先で、最後に描かせた絵だ。正面を向ける力が、もうなかった。画家はそれを無理に向けさせなかった。彼女の横顔を、そのまま描いた。
「シーラ様」
私は絵の横顔に向かって口を開いた。
「初めまして。療養先で、お一人で、寂しかったでしょう。お会いになりたかった方がお側にいらっしゃらなかったのは、無念だったかと」
私はそこで、もう一度止まった。
止まったのは、私が自分の言葉に少しだけ震えたからだった。震えるというのは、声ではない。喉の奥の、もう少し下のあたりだった。そこに、何か押し戻されないものが上がってきた。押し戻さずに上げきってしまえば、その続きの言葉は出やすかったかもしれない。けれど、私は押し戻した。
押し戻したのは、私がここで震えると、絵の中の彼女が申し訳ないと思うからだ。彼女に申し訳なく思わせるような震え方は、廊下でするべきではなかった。
「これから、皆さんとご一緒です。もう、一人ではありません」
私は頭を下げた。下げて、しばらく下げたままでいた。
四枚目の絵が運ばれていった。廊下に、四枚分の空いた場所が並んだ。壁の色の違う四角が、四つ残った。
私はその四つの四角に向かって、もう一度口を開いた。
「皆様」
声が、四つの四角のそれぞれの中に染みていく感じがした。気のせいかもしれない。けれど、今日の私の気のせいは、信じておくべき気のせいだった。
「私が、あの方に死なれないようにしておきます。ご安心なさってください。どうぞ、お休みください」
頭を下げた。下げて、しばらく、また下げたままでいた。廊下に、誰の足音もなかった。
「奥様」
廊下の奥から、ハロルドの声がした。
私は頭を上げた。ハロルドが、肖像画の運ばれていった廊下の奥の方に立っていた。進み出てはこなかった。ただ、そこに立っていた。
「はい」
「亡き奥様方も、お喜びでしょう」
低い声だった。低いというよりも、彼がいつもよりわずかに、息を長く継いだ声だった。
私は彼を見た。ハロルドの目の下のあたりが、わずかに光っていた。涙が出ているというほどではない。ただ、目の奥の、もう少し後ろの方から、何かがにじむための用意を、彼の体が半分整えていた。
ハロルドは今夜、自分の部屋でひとりで、その続きを整えるのだろう。廊下では、まだ整えない。家令の矜持だった。
私は彼を見たまま、しばらく何も言わなかった。何かを言うと、彼の矜持を邪魔する。邪魔しないことが、私が今、ハロルドにできる礼だった。
私は廊下を戻りはじめた。
戻る途中で、応接間と書斎のある方の角を、一度だけ見た。さっき、そのあたりで何かが動いた気配があった。動いたというよりも、止まっていたものが半歩引いたような気配。けれど、見たときには、もうその先には何もなかった。何かがそこにあったあとの、空気の残りだけがあった。
私はそれを誰にも言わなかった。言わずに、廊下を戻った。
戻りながら、明日、ハロルドに花屋への手紙を渡そう、と考えた。四つの空いた四角の前ではなく、礼拝室の、並び直された四枚の絵の前に置く花だ。マチルダ様には白い花。シーラ様には、香りの強くない淡い花。
考えながら歩くと、廊下の長さが、来た時より少し短く感じた。