軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第10話 立ち聞き

肖像画が運ばれていった後、私はしばらく廊下に立っていた。

立っていた時間がどれくらいだったのかは、分からない。ハロルドがいつのまにか廊下からいなくなっていた。ミミも、他の使用人もいなくなっていた。廊下に、私ひとりだった。

ひとりになって、私はもう一度、壁の四つの四角を見た。四角は四つとも、もとの壁紙の色のまま、そこに残っている。絵を運び出しても、その四角だけは運び出せない。三年そこに絵がかかっていたという事実は、絵を移しても壁に残る。

私はそれを消そうとは思わなかった。消すべきものではない。ただ、空いた、というだけの四角だった。

午後、私は礼拝室に行ってみた。

行くと決めていたわけではない。ただ、昼の食事のあと、廊下を戻る時に、足が礼拝室の方に向いた。

礼拝室は屋敷の南の端にあった。ハロルドが「日当たりは廊下よりよろしいかと」と言った、その通り、廊下よりずっと光が入る部屋だった。

四枚の肖像画は、もう壁に並べ直されていた。並べ直し方は廊下の時と同じ順番だ。亡くなった順番。マチルダ、エイラ、ロザリー、シーラ。廊下の時より、額と額の間が少し広く取られていた。窮屈ではない。四人が横に並んで座っているような間隔だった。

私はしばらく、その並びを見ていた。見ていて、ふと、花が欲しいと思った。四人のそれぞれの前に。どの花がいいのかは、まだ分からない。けれど、花があれば、礼拝室はもう少し、座っている人の部屋になる。

礼拝室の隅に、古い如雨露がひとつ転がっていた。誰が、いつ、何のために置いたものなのか、私には分からない。たぶん、ハロルドにも分からない。誰のものか分からないものは、誰も動かさないまま、そこにある。私もそれを動かさなかった。

夕食の席で、マルクスはいつもと少し違った。

違うというのが、どこが、とすぐには言えなかった。肉を切る手はいつも通りだった。ナイフを置く音もいつも通り静かだった。私の方に視線を置く置き方も、いつも通りだった。それでも、違った。

しばらく、私はその「違う」の場所を探した。探して、ようやく分かった。

彼は今夜、私の顔を見て、すぐに視線を外さなかった。

いつもなら、彼は私の顔を見て、それからテーブルクロスのしわか、ナプキンの折り目に視線を移す。今夜は、移すのが一拍遅かった。一拍長く、彼は私の顔を見ていた。それから、いつものようにテーブルクロスに視線を落とした。

私はそれに気づいた。気づいたが、何も言わなかった。何かが彼の中で動いていた。動いているということだけ、私には分かった。何が動いているのかは分からない。分からないものを、こちらから引き出すのは、私のしないことだった。

「お肉、今夜は薄いですね」

私は代わりに、そう言った。肉の話をした。

彼がわずかに私を見た。

「……ああ」

「私は、薄いほうが好きです」

「そうか」

「ええ」

それだけの会話だった。それだけの会話を、私たちはした。彼の中で動いているものに、私は触れなかった。触れないことで、彼の動いているものを急かさなかった。

夜、自室の机に向かった。

便箋を出した。家紋の入っていない、私物の便箋。ペンを取った。インクは乾いていなかった。アニカが、グレイフィン家でも隔日で湿らせる習慣を続けていた。彼女はローレンソン家の習慣を、そのままこちらに持ってきている。語尾を最後まで言わない癖も、たぶんそのまま持ってきた。

宛先は決まっていた。王都の花屋。ローレンソン家が社交の季節に花を頼んでいた店だ。私はその店の名前を覚えていた。覚えていたことに、自分で少し驚いた。社交の季節の花の店の名前を、私はもう使うことはないと思っていた。思っていたものを、まだ覚えていた。

注文の中身を書いた。四つ。

マチルダ様には白い花を。エイラ様には赤い花を。ロザリー様には濃い色の、葉のしっかりした花を。

「シーラ様には」

そこで、ペンを止めた。シーラ様の横顔の絵を思い出した。正面を向けなかった絵。

「シーラ様には、香りの強くない、淡い花を」

私はそう書いた。香りの強い花は、療養先で、たぶん彼女にはつらかった。つらかったかどうかは私には分からない。分からないけれど、淡い花の方が彼女は楽だ。

楽、という言葉を、私は今日、何度も使っている。廊下で奥様方に楽と言った。夕食で、肉は薄いほうが好きだと言った。楽と好きは、私の中で近い場所にある。

ペンを走らせている途中で、廊下に足音がした。部屋の外だ。

低い足音だった。ローレンソン家の侍従頭の足音でも、ハロルドの足音でもない。

足音は、私の部屋の扉の前で止まった。

私はペンを止めた。止めたが、顔は上げなかった。

足音は扉の前でしばらく止まっていた。それから、また動き出して、廊下の奥の方に行った。すぐに戻ってきて、また私の部屋の扉の前で止まった。

私はペンを机に置いた。置いて、しばらく、扉の方を見ないでいた。

扉は叩かれなかった。足音は、何度か、奥に行って戻る音を繰り返した。そのあいだ、私はペンを置いた手を動かさなかった。

私は扉を開けなかった。

開けようと思えば、開けられた。廊下に出て「どうぞ」と言えば、足音は入ってきただろう。けれど、私は開けなかった。

足音は、扉を叩こうとして止めていた。止めているということは、まだ入る用意ができていないということだった。用意ができていない人を、こちらから引き入れるのは、私のしないことだった。

肖像画を廊下から礼拝室に移したのは、三日かけて、彼が用意を整えてからだった。彼は、用意のできていないものを急がない人だ。私も、彼の用意を急がないことにした。

足音が、また扉の前で止まった。私は顔を少し上げた。上げたが、扉は見なかった。窓の方を見た。

窓の外は暗く、その暗い中に、白いものがいくつかゆっくり降りていた。雪だった。冬が来ていた。

足音が最後にもう一度、扉の前で止まった。止まって、しばらくそこにいた。それから、扉を叩かずに、廊下の奥の方へ遠ざかっていった。遠ざかって、もう戻ってはこなかった。

私はペンをもう一度取った。手紙の続きを書いた。

「以上、四つ、お願いいたします。礼拝室に飾ります。急ぎませんので、よい花が入り次第で結構です」

書き終えて、便箋を封筒に入れた。封蝋は無地で押した。

私はまだ、グレイフィン家の紋章を使っていなかった。婚姻の届けはもう出してある。けれど、紋章の刻印を新しく作るには、まだしばらくかかる、とハロルドが言っていた。職人に頼んで、印が手元に届くのは、何週間か先になる。それまで、私の封蝋は無地のままだ。

無地のままで、私は不便を感じなかった。むしろ、今はそれでいい気がした。どの家の紋章でもない封蝋を、もうしばらく使っていたかった。

封筒を机の端に置いた。明日、ハロルドに渡す。

私は燭台の灯を消した。消す前に、もう一度、窓の外を見た。雪はまだ降っていた。

降る雪の向こうで、屋敷のどこかが、さっきまでと違う空気になっていた。何が違うのかは分からない。けれど、屋敷は確かに、さっきとは違う夜に入っていた。