作品タイトル不明
第8話 廊下で食事をしている気がします
しばらく、彼は何も言わなかった。
それから、ナイフを皿の縁にゆっくり置いた。置く音は、思ったより静かだった。戦地でいきなり置くと襲われやすい音を、彼は皿に対しても出さない。
「廊下の、肖像画」
彼はようやく口を開いた。
「はい」
それだけで、彼はまた黙った。黙ったまま、私の方を見もしなかった。皿の縁の、ナイフの腹を見ていた。ナイフの腹に、料理の脂が薄く付いていた。脂は固まりかけていた。夕食の温度が、もう皿の上で止まり始めているということだ。
「給仕の方々を、お下げいただいてもよろしいですか」
私はハロルドの方に目を向けた。
ハロルドは食堂の奥の、低い棚のところに立っていた。給仕は二人いて、扉の方の壁に沿って控えていた。ハロルドが二人に、軽く目で合図を送った。給仕は頭を下げて、扉から出ていった。
ハロルドは扉の方には行かなかった。低い棚のそばに留まっていた。留まる、というのが、退出と留まるの中間だった。聞かれて困る話なら出ます、聞いた方がいい話なら留まります、という家令の判断の待機。
私はハロルドを止めなかった。止めない方が、いい話だった。
「閣下」
私は彼の方に向き直った。
「廊下の、奥様方の肖像画について、ご相談です」
彼の視線が、ナイフからわずかに上がった。上がった先は、私の顔ではなかった。私の手元の、テーブルクロスのしわのあたりだった。彼が、私の顔を見られない時に見る場所。
「相談、というのは」
「お願い、と言い換えても構いません。奥様方には、礼拝室に移っていただこうと思います」
しばらく、彼の手が止まった。止まっていたものが、もう一段止まった、という方が近かった。彼の止まり方には段階がある。第一段階はナイフを置く。第二段階はテーブルクロスを見る。第三段階は、呼吸が半分遅れる。今、彼は第三段階に入った。
私はその止まり方を見ながら、話を続けた。急がない方が、いい話だった。
「あの廊下を、毎日、食堂に向かうのに通っています。通る、というよりも」
私は一度、自分の言葉を選び直した。
「廊下で、食事をしている気がして、しまうのです」
彼の眉がわずかに動いた。私の言い回しが、彼の予想していた角度ではなかったのだろう。彼はもう少し儀礼的な理由を想定していた。私が新しく入る家として、とか、次の代の妻として、とか、家の体面に関わる理由を。私はその種類の理由を出す気がなかった。出すと、彼の中の奥様方が、本当に邪険にされる。
「廊下で、食事を」
彼は繰り返した。繰り返した声に、笑いは混ざっていなかった。混ざっていなかったが、息の継ぎ方がほんの一拍緩んだ。彼が何かに、ようやく息をわずかに抜ける位置を見つけた、ということだ。
「亡くなった方を、忘れろとは申しません。ただ、廊下全部に見守られて食事をするのは、私には少し、消化に悪いのです」
彼はまた黙った。今度の沈黙は長かった。
食堂の奥で、ハロルドがわずかに姿勢を直した。直す音が、彼の制服の襟のあたりで静かに立った。立った音を、私は聞いた。聞いて、ハロルドの方を見はしなかった。見たら、彼は自分の音を消すために姿勢を戻す。
マルクスは、皿の縁のナイフをもう一度持ち直した。持ち直したが、肉に戻さなかった。ナイフの腹を、自分の指の付け根のあたりに軽く当てた。何かを考える時の、彼の癖だった。ナイフを、戦場以外の場所でこういう持ち方をするというのは、彼が長い時間をかけて、戦場ではない手の置き方を自分の中に作ろうとしてきた、ということだ。
「妻たちを、廊下から、移す」
「ええ」
「移す先は」
「礼拝室です」
「礼拝室は」
彼は一度止まった。
「あまり、使われていない」
「はい」
「日当たりは」
彼の声がわずかに滑った。
「廊下より、よろしいかと思います」
ハロルドが、私の代わりに答えた。私は振り返らずに、ハロルドの答えを聞いていた。ハロルドは屋敷の中の日当たりを、私よりよく知っていた。礼拝室の窓の向きまで、彼は答えに織り込んでいた。
マルクスは、ナイフをもう一度、皿の縁に戻した。今度は、置くというより、預けるような置き方だった。
「……好きにしろ」
低い声だった。
「ありがとうございます」
私は頭を下げた。下げてから、もう一度、彼を見た。彼は私を見ていなかった。テーブルクロスのしわの先の、ナプキンの折り目を見ていた。ナプキンの折り目は、給仕の手でまっすぐ整えられていた。そのまっすぐな線を、彼は見ていた。見て、何を確認していたのかは、私にはまだ分からなかった。
私が椅子から立ち上がろうとした時、彼は口を開いた。
「ヴィオラ・ローレンソン」
「はい」
私は立ち上がりかけて、足を止めた。
「彼女たちを」
彼は一度、間を置いた。
「邪険にしないでくれ」
声に、命令の響きはなかった。命令ではない、ということを、命令する立場の人が、命令ではない声で言った。それはお願いというよりも、少し別の種類の言葉だった。彼が、自分の中のいくつかの、まだ整理しきれていない感情を、ぎりぎり整理した形で私に渡してきた。
私は椅子に半分戻った。戻って、彼を見た。
「邪険にはしません。礼拝室に、ゆっくり座っていただきます」
「ああ」
「廊下より、たぶん、ご本人方も楽だと思います」
「楽」
彼が繰り返した。繰り返した時の声が、それまでよりわずかに低くなった。低いというよりも、声の底に、湿った何かが降りてきた。
「廊下にずっと立っていただくのは、奥様方にも、お疲れだったかと」
彼は私を見た。今度は、テーブルクロスのしわでも、ナプキンの折り目でもなく、私の顔を見た。額の傷の下の目だった。目の中の何かが、わずかに揺れたように見えた。
揺れたかどうかは、本当のところ分からない。私の方の目が揺れたのかもしれない。
「……そうかもしれん」
彼はそれだけ言った。短い答えだった。短かったが、私には、今夜の彼の言葉の中で一番長い言葉に聞こえた。その言葉を、彼は三年、自分の中でも誰にも言ったことがなかったのだろう。奥様方が廊下に立っていてお疲れだ、ということを、彼は考えたことがなかった。考えなかったというよりも、考えるための余白を、自分に許してこなかった。
その余白を、今夜、私が半歩だけ開けた。開けたつもりはなかった。私はただ、毎日食堂に通うのに消化に悪い、と言いたかっただけだった。
「日にちを、お決めしましょう」
ハロルドが、低い棚のところから進み出た。進み出るというほど距離はなかった。ただ、一歩、私たちの方に近づいた。
「礼拝室の準備に、二日、頂戴できればと思います」
「ええ」
「移す日は」
ハロルドはマルクスを見た。マルクスは頷きも首を振りもしなかった。ただ、ナプキンの折り目に戻した視線を、わずかに持ち上げた。それで、ハロルドは判断を自分で引き受けた。
「では、三日後の午前で、よろしいでしょうか」
「はい。ありがとうございます」
ハロルドは頭を下げた。下げてから、扉の方に向かった。扉の前でもう一度振り返って、私とマルクスを見た。それから、扉を開けて出ていった。
扉の閉まる音よりわずかに遅れて、足音が廊下を抜けていった。抜けていった先で、足音はすぐには止まらなかった。ハロルドは礼拝室まで確認に行くのだろう。日当たりの向きをもう一度見て、奥様方の座っていただく場所を考える。
私は椅子にもう一度座り直した。座り直してから、隣の彼を見た。彼は皿の上の肉に戻る気はないようだった。ナイフは皿の縁に、預けたままだった。
「閣下。もう、お下げいただいてよろしいですか」
「ああ」
私は立ち上がった。立ち上がる時、彼の額の傷の上の髪の毛が、一筋、また落ちかかっているのが見えた。今日も、彼はそれを直さなかった。
廊下に出た。廊下は夕食の前と同じ廊下だった。肖像画はまだ四枚並んでいた。
私はその並びをゆっくり見ながら歩いた。歩きながら、頭の中で、三日後、と繰り返した。三日後、奥様方はここから礼拝室に移る。廊下は、たぶん明日と明後日も、いつもと同じ廊下のままだ。それから明々後日の朝、廊下の中の見守り方が変わる。
私はその変わり方の前に、もう一度、廊下を見ておきたかった。
肖像画の額の縁に、薄く埃が積もっていた。積もっている埃を、誰もこれまで払わなかった。払うということが、この屋敷で誰にも許されていなかったのだろう。
「閣下」と呼ぶのが、まだ、私には正しい距離だった。「旦那様」と呼ぶには、私はまだ、彼の屋敷の何を知っているわけでもない。廊下の埃の積もり方ひとつ、私はようやく今日、見ているところだ。呼び方が距離を決めるのではなく、距離が呼び方を選ぶ。今の私には「閣下」が、ちょうど手の届く呼び方だった。
私は廊下の埃を、今夜も払わなかった。明後日の夜くらいに、ミミにお願いするかもしれない。それまでは、まだここにある埃だった。