作品タイトル不明
第7話 奥様、と呼ぶ声
温室を見つけたのは、屋敷に来て三日目の、昼を過ぎた頃だった。
廊下の横手に、もう一本、別の廊下が伸びていた。引っ越しの日からまっすぐの廊下しか歩いていなかった私は、その日、なんとなく、覗いてみる気分になっていた。覗いて、よさそうな部屋があれば覚えておく。よさそう、というのが何のための「よさそう」なのかは、自分でもはっきりしていなかった。
最初に開けた部屋は書斎だった。暗くて、書物の背表紙が棚の半分以上を塞いでいた。誰も読んでいない部屋。私は扉を閉めた。次に開けたのは客間で、家具が布で覆われ、その上に薄く埃が積もっていた。来客を迎えていた時代があった。今は誰も迎えていない。私は扉を閉めた。
廊下のもう少し奥に行くと、行くほど少しずつ暗くなった。昼の光が届きにくい場所だった。屋敷の北側に当たるのだろう。
廊下の突き当たりに、ガラスの扉があった。ガラスは曇っていた。内側からも外側からも、両方から付いている。内側の曇りは湿気、外側の曇りは霜だ。扉の向こうは、外気と内気の両方がぶつかっている場所ということだ。
私は扉に近づいた。ガラスの向こうに、緑が見えた。緑、と言うのはほんの半分で、残りは茶色と灰色の絡まりだった。
温室だった。長く使われていない温室。
扉の取手は冷たかった。寒さではなく、長く触れられていない金属の冷たさだった。回した。回らないと思ったが、もう一度力を入れると、ガチャ、と音がして、扉は開いた。
中の空気は外より湿っていた。ガラスの天井のところどころに、ひびが入っていた。ひびの隙間から外気が入る。けれど温室の中の方が、湿気をずっと貯めている。長く貯めたまま、誰も外に出してやっていない。
植物は半分以上枯れていた。残りは強い種類だった。冬でも緑のままでいられる種類。そういう植物だけが、誰の手も入らない場所で独り立ちしている。
私は温室の中央に進んだ。中央に、噴水があった。噴水というには、もう水は流れていない。水盤の中に、枯れた葉が何枚か溜まっていた。盤の縁に、わずかに苔が生えている。水を抜いて、長く放置した跡だ。
私は噴水の縁に手を置いた。手のひらに、苔の感触が残った。濡れているのではなく、冷たく滑らかなざらつき。私はその感触を、しばらく手に留めた。
噴水は、まだ動くだろう。水を引き直せば、苔は洗える。洗わなくてもいい。洗わなくても、ここは私が寝るには悪くない。長椅子があれば、もっといい。書斎から運ばせよう。書斎の長椅子は、もう誰も座っていなかった。
「奥様」
背後から声がした。振り返ると、ハロルドが扉のところに立っていた。
「お探ししておりました」
「ごめんなさい、勝手に」
「いえ」
ハロルドは温室の中を見回した。
「こちらは、長く使われておりません。植物の世話も、いたしておりません」
「半分は、自分で生きてるみたい」
「はい」
「ハロルド。ここを片付けたいの」
ハロルドがわずかに止まった。
「奥様、それは庭師の仕事でして」
「いえ、私が片付けます」
「奥様」
「昼寝場所にしたいので」
ハロルドは私を見ていた。しばらく見ていた。それから、口を開いた。
「……かしこまりました」
それは、ここに来てから何度目かの「かしこまりました」だった。彼はもう、私の「かしこまりました」を数えていないのかもしれない。数えても、屋敷はもう変わる方向に動き始めている。彼の「かしこまりました」の役割は、止めることではなく、ついていくことに変わってきている。
「ここの噴水、水を引けば、また動きそうですね。いつか引けるか、見ておいてください。急がないで。使用人の方々も、急がなくていいです」
ハロルドは頷いた。頷いてから、温室の中の、私の足元を見た。足元に、私が無意識に踏んだ枯れ葉が、半分潰れていた。
私はその葉を退かさなかった。ハロルドも退かさなかった。
温室から廊下に戻る途中で、ミミとすれ違った。
彼女は淡い青のエプロンの上に、薄い白い上着を羽織っていた。肌寒くなった廊下に合わせて、屋敷側が上着を追加したのだろう。銀の盆を両手で抱えていた。
「お、奥様。お早うございます」
「もう、朝食は過ぎたわ」
「あ、はい、申し訳……」
「謝らないで。お早う、でいいわ」
「は、はい」
ミミはもう一度頭を下げた。そして、抱えていた盆をわずかに持ち直した。
「奥様」
「はい」
「お足元、お気をつけて」
廊下の、彼女の通った後ろを、私は見た。何もない、ただの廊下だった。
足元、というのは足元のことではなかった。彼女が私に、何か声をかけたかった。かける言葉を考えて、考えて、結局、足元の話にした。
「ありがとう、ミミ」
「はい」
ミミはもう一度頭を下げて、廊下の奥に消えた。
私は、彼女の「奥様」という呼び方の温度を、しばらく耳の中で転がした。昨日の、廊下で初めて顔を合わせた時の「奥様」より、わずかに近い場所から出てきていた。近いというのは、距離のことではない。その言葉を口の中で組み立てる時の、舌の置き方が少し変わった、ということだ。
変わったのはミミの中で起きたことだ。それを私が口に出して確かめると、ミミの方が怯える。怯えさせる必要のないものを確かめる癖は、私はずっと前に捨てた。
その日の夕食。席は、奥の彼の隣だった。三日かけて、屋敷側が私の食器をそちらに移していた。
夕食の肉は、朝食の肉よりわずかに薄かった。給仕の頬の皮膚の張りが、わずかに緩んでいた。皿の縁に、給仕の指先の跡が薄く残っていた。そういう小さな変化を、私は見ていた。
食事の終わりに、私はナプキンを置いた。そして、隣を見た。
「閣下」
彼が私の方に視線を置いた。
「ええと」
私は一度止まった。止まってから、続けた。
「廊下の肖像画のことで、お話があります」
彼の手の、ナイフが止まった。
止まったその手元を、私は見ていた。止まったまま、しばらく、彼は何も言わなかった。