作品タイトル不明
第6話 ここは戦場ですか
朝、と言うにはまだ早かった。
鐘が屋敷のどこかで二度鳴って、二度で止まった。
私は目を開けた。枕元の燭台は、まだ灯がついていなかった。アニカが、消し忘れではなく、最初から灯さずに置いていたものだった。彼女は昨夜、私の部屋を出る前に、私が眠るのを待たずに扉を閉めた。眠れなかったら自分で灯しなさい、という意味の扉の閉め方だった。
灯さずに、私は寝た。灯さずに、目を覚ました。
鐘の二度目の音が、頭の中でまだ響いていた。二度で止まるということが、決まった合図ということだ。何の合図かは、まだ私は知らなかった。
しばらく寝具の中で息を整えてから、起き上がった。枕元の燭台に灯を入れて、窓辺に行ってカーテンをわずかに開けた。
外はまだ暗かった。東の空の地平の、ほんの底の方にだけ、ぼんやりと別の色が滲んでいた。夜と昼の境目というよりも、夜がまだほとんどの場所を占めている時間の色だった。
時計を確認した。五時を、わずかに回っていた。
ガウンを羽織って、扉を開けた。
廊下に出ると、燭台が半分だけ灯っていた。全部は灯さない。それも、この屋敷の半分の流儀なのだろう。天窓に薄い布、半喪の制服、半分閉じたカーテン。光に対して、この家はいつも半分だけ開けて半分だけ閉じている。
廊下を、誰かが歩く音がした。複数の足音だった。複数なのに揃っている。
私は廊下の角に立ったまま、それを聞いていた。足音は、誰の話し声も伴っていなかった。息継ぎの音もほとんど聞こえない。盆を運ぶ音だけが、足音より半拍遅れてついていく。
それは、私の家で聞いたことのある朝の音ではなかった。私の家の朝は、もっとばらついていた。誰かが廊下の途中で咳をして、誰かが別の誰かに低い声で何かを言って、盆を運ぶ手がときどき滑った。ローレンソン家の朝は、人間がそれぞれの呼吸で起きてくる朝だった。
ここの朝は違った。人間が起きるのではなく、時間が人間を起こしていた。
「奥様」
廊下の奥から、声が聞こえた。ハロルドだった。
「お早うございます。お早すぎる、お目覚めで」
「ええ。鐘で起きました」
「申し訳ございません」
「謝らないで。鐘の音は、私のものではないでしょう」
ハロルドは頷いた。
私は彼の立ち姿を見ていた。昨日、玄関で見た時より、わずかに目の下の影が深い。昨夜、寝ていないのだろう。私の引っ越しを迎えるために、屋敷のあちこちを夜のうちに整えていた。半喪の制服をもう少し明るい色に変える指示を夜の間に出した、というのを、馬車を降りた時に私は察していた。彼は私のために、自分の睡眠を半日消した。
「ハロルド。ひとつ、お尋ねしてもよろしいですか」
「もちろんでございます」
「鐘は、毎朝この時間に鳴るのですか」
「はい」
「使用人の方々の、起床のための鐘?」
「左様でございます」
「では、ここは戦場ですか」
ハロルドが、わずかに目を見開いた。
「……いえ。屋敷で、ございます」
「では、せめて六時にお願いできますか」
ハロルドの表情に、軽い驚きが走った。驚きというには、目の表面がほんの一瞬ぴくりと動いただけだった。けれど、私はそれを見ていた。
「旦那様の、ご習慣でして」
「旦那様が、戦場で五時起きするのがご習慣なのは、よく分かります。けれど、ここは戦場ではないので。戦場ではない時間で、動きませんか」
ハロルドはしばらく私を見ていた。見てから、ゆっくり頭を下げた。
「……かしこまりました」
ハロルドが廊下の奥に消えていく。
私は彼の背中を見ながら、自分の手元を見た。ガウンの袖口に、糸が一本ほつれていた。夕べ、寝る前に引っかけたのだろう。そのほつれを、私は引き抜かずにそのままにした。引き抜くと、糸がもう一本誘われて出てくる。誘わずに放っておくのが、私の手の癖だった。
ハロルドの目の表面の、一瞬の動き。ああいうものを、私はいつから見るようになったのだろう。
三度目の婚約破棄の頃からだ。三度目で、私はそれまでの自分の見方に自信を失った。一度目は、自分が悪かったのかと思った。二度目は、自分の振る舞いに何か欠けていたのかと思った。三度目は、もう、自分の何かを責める根拠が見つからなかった。
責める根拠を探す代わりに、私は目の前の人の表情の、小さな緩みや疲れの色を見るようになった。気づくと、見るようになっていた。何度も期待を裏切られたから、表情を読まないと生きていけなくなったのだろう。
それは、誰かに教えてもらった見方ではなかった。私の家でも、家庭教師でも、私を婚約させた家々でも、誰もそれを教えなかった。私の中で勝手に育った見方だった。育ててくださいと頼んだ覚えはない。それでも、育っていた。
ハロルドの背中が、廊下の角を曲がって消えた。その曲がり方も、私は見ていた。曲がり方が私の家のものより、ずっと規律正しかった。規律というのは、ここでは、半喪の中で誰かが転ばないための形だった。ハロルドが、自分の家令としての最後の踏みとどまり方を、それで保っていた。
朝食は六時半に整えられた。私が廊下に降りて行くと、食堂の扉がすでに開いていた。
長い食卓だった。長い、というのが、私が想像していたよりもう少し長かった。端と端で、十人は座れる。今日は二人分の食器が用意されていた。一つは奥の窓側に、もう一つは入り口側に。
奥の席に、彼はもう座っていた。私は入り口側の椅子に案内された。
座る前に、私は奥の彼を見た。彼は私の方を見ていた。首を回してではなく、ただ視線だけをその方向に置いている、という見方だった。
「お早う」
「お早うございます」
私は答えて座った。座ってから、テーブルの距離をもう一度見た。声をわずかに張らないと、向こうまで届かない距離だった。張ると、朝食には似合わない声になる。
私は座席の高さをわずかに直した。直したのは、座席のせいではなかった。ただ、何かを直す仕草が欲しかっただけだ。
朝食が運ばれた。肉と、豆と、固いパン。戦場の朝食と呼ばれている内容だ、と私は噂で知っていた。社交界で、グレイフィン家の朝食の話が何度か出たことがある。当時の私は、それを笑い話の一つとして聞いていた。笑い話として聞いていたものが、今、自分の皿に来ている。皿が、噂よりわずかに重かった。
「奥様」
ハロルドが給仕の隣に立っていた。
「お茶を、こちらに」
彼が給仕の盆から、自分でカップを取った。そして、私のカップにお茶を注いだ。家令が、給仕の代わりに奥様のカップにお茶を注ぐというのは、普通はしない。家令には、家令のもう少し格上の役割がある。それを、ハロルドは今朝、自分から降りた。私の朝の鐘の発言が、彼に何かの判断をさせたのだろう。
「ありがとうございます、ハロルド」
「いえ」
「お茶も結構ですが、できればもう少し、ゆっくり用意していただけるとありがたいです。私は急ぎません。使用人の方々も、たぶん急がなくていいです」
ハロルドは頭を下げた。下げてから、奥のマルクスの方を見た。
マルクスは肉を切っていた。切る手が、一瞬止まった。止まってから、彼はナイフを置いた。
「ハロルド。何か、屋敷が緩んでいる気がするが」
ハロルドはためらわずに答えた。
「奥様のご希望で、起床を六時に変えました」
マルクスはしばらくハロルドを見ていた。それから、私の方を見た。私は彼を見返した。
「ええ。五時の鐘で、私が起きてしまったので」
彼は何も言わなかった。何も言わないということが、彼の許可だった。ハロルドはそれを知っていた。ハロルドはもう一度頭を下げて、給仕の方に戻った。
朝食のあと、私は廊下を戻った。
戻る途中で、廊下の別の方から足音が聞こえてきた。軽い足音だった。朝の複数の足音とは別の音。たぶん一人。そして、その足音の上に、ほんの一筋、小さな声が乗っていた。
歌だった。正確には鼻歌と呼ばれるものだった。ほんの半分にも満たない長さ。歌っているのは若い女性だった。
廊下の角から、姿が現れた。銀の盆を抱えていた。顔がまだ子供っぽさを残している。十六か、十七か。半喪の制服を、もう着ていなかった。淡い青のエプロンを着けていた。
彼女は私と目が合った。合った瞬間、鼻歌がぴたりと止まった。そして、顔がぱっと赤くなった。
「申し訳、ありません、奥様。私、つい」
「いえ」
私は首を振った。
「いい歌……ううん、歌のことはよく分からないけれど。廊下で歌が聞こえるのは、悪くないと思う」
言ってから、自分でも少し言葉が足りない気がした。けれど、足したい言葉が出てこなかった。彼女は私を見ていた。見ていた目が潤んだわけではなかった。ただ、頬の赤さがもう一段、深くなった。
「お名前は」
「ミミ、と申します」
「ミミ。これから、よろしくね」
「は、はい」
ミミはもう一度頭を下げた。下げてから、銀の盆を抱え直して、廊下の奥に消えた。
消えたその方向は、廊下の肖像画の並んだ方だった。私は彼女の背中を見ていた。見ていた背中の、廊下の先で、肖像画の額が四枚、まだ並んでいた。
私はそれをしばらく見ていた。それから、自分の部屋の方に戻った。
戻り道で、私はガウンの袖口のほつれをもう一度見た。そして、ほつれの糸をわずかに引っ張って、すぐに止めた。引き抜かないことに決めた。