作品タイトル不明
第5話 もう関係ありません
トランクは三つになった。
一つは衣装、一つは書物、もう一つは私物。私物のトランクが、一番軽かった。
訪問から二週間が経っていた。両家の立会人だけを呼んだ簡素な婚姻の儀を、昨日、済ませた。儀礼というより、書面を交わした応接間と同じ空気の、短い手続きだった。それで私は、今日からグレイフィン家の妻になる。今朝が、引っ越しの朝だった。
玄関ホールの石の上に三つのトランクを並べると、揃いのトランクのはずなのに、それぞれわずかに高さが違って見えた。中身の偏りが、トランクの上蓋の閉まり具合に出ている。私の家での生活が、それぞれの箱に不均等に詰まっている。詰めた本人として、その不均等を、私は文句のつけられない順番だと思った。
「お嬢様」
アニカが私の後ろから声をかけた。
「こちらを、お忘れでは」
彼女の手の中に、母の形見の手鏡があった。私はそれを受け取った。
最後にトランクに入れる時、私が自分の手で入れたかった。アニカはそれを知っていた。語尾を最後まで言わない侍女は、私が黙って受け取りたいものを、いつも最後に差し出す。
「ありがとう」
「いえ」
「あなたも、来てくれるのよね」
「はい」
私は頷いた。頷いてから、私物のトランクを開けて、母の形見の手鏡を一番上に入れた。
蓋を閉める前に、引き出しから持ってきた紙の束を横に並べておいた。便箋が二通。それから、白紙が一枚。白紙は、修道院願いの紙だった。
私はそれを捨てなかった。捨てる代わりに、白紙に戻した。書いてあった字は薄く擦れていたが、まだ読めた。読めたまま、私はそれを私物のトランクの底に入れた。
なぜ持っていくのか、自分にも説明できなかった。説明できないものを、捨てる気にもなれなかった。
玄関の方で、足音が聞こえた。軽い、走る音だった。
レティシアの足音だ、と聞かなくても分かった。私と妹は、足音がまるで違う。
「お姉様」
レティシアが玄関ホールに駆け込んできた。頬が薄く紅潮している。彼女は走っただけでは、頬をこんな色にはしない。何かを言いに来た、ということだ。
「お姉様、行ってしまわれるの」
「ええ」
「アロウェン様が」
レティシアは少し息を整えた。
「アロウェン様が、私のこと、本当に好きでいらして、私、もう、抑えられないって」
私はトランクの蓋に手を置いたまま、彼女を見た。
彼女は両手を胸の前で組んでいた。祈りの仕草ではなく、自分の言葉に対する確認の仕草だった。彼女はいつも、こうやって自分の言いたいことを自分の手で抱きしめてから、相手に渡す。母の代わりの、抱きしめる対象を、彼女は自分の言葉にしてきたのだろう。
「お姉様、許してくださるでしょう?」
私はトランクから手を離した。
「許すも何も、もう関係ありません」
声に何の色も乗らなかった。応接間でアロウェンに、お幸せに、と言った時と同じ調子だった。ただ、あの時よりも、今のほうが、私の声が私のものに聞こえた。私の冷たさが、ようやく私の声に追いついてきている。
「でも、お姉様。お姉様が、選ばなかったから」
私はしばらく彼女を見ていた。見てから、ゆっくり息を継いだ。
「私が選ばなかったんじゃないわ、レティシア」
「え?」
「彼が、私じゃないほうを選んだの。四回とも」
レティシアの顔から、一瞬、表情が抜けた。
それは初めて見る顔だった。笑顔でも泣き顔でもなく、頬の紅潮が残ったまま、目の動きが止まった顔。彼女がいつも両手で抱きしめていた自分の言葉が、抱きしめきれなくなった顔だった。
彼女は、生まれて初めて、自分が「選ばれた」のではなく「私が選ばれなかった」のではないか、と考え始めた。考え始めただけだ。考え終えるには、まだ彼女には時間が要る。それでもいい、と私は思った。時間は、レティシアにも、これからはいくらでもある。彼女は、まだ二十三だ。
「お姉様」
レティシアはもう一度、声をかけた。声のあとに、続きはなかった。
私はそれを待たなかった。トランクの取手を確かめた。
「ヴィオラ」
父の声がした。玄関ホールの奥の方からだった。
父は最近、私の名前を廊下の途中で呼ぶようになった。書斎から呼ばずに、廊下のどこかから呼ぶ。書斎の机に座ったままでは、私の名前をもう呼べないのだろう。
「お父様」
私は振り返った。父は廊下と玄関ホールの境のところに立っていた。立っていた、というのが、書斎の時と同じだった。座らないということを、父は私に対しては習慣にし始めている。
「達者でな、ヴィオラ」
簡素な別れの挨拶だった。父はそれしか言わなかった。言わないというよりも、それ以上を言葉の形に、まだ整えられないのだろう。
私は頷いた。頷いてから、もう一度、父を見た。
父の上着の肩の皺が、四度目の婚約破棄の日と同じ位置に寄っていた。あの日と同じ服を着ている。あの日と同じ皺を、いつもの侍従に、いつも通り伸ばさせなかった。それが、父の今日の選び方だった。
「お父様」
「ああ」
「レティシアのこと」
私は一度止まった。止まってから、続けた。
「お母様が見ていらしたら、もう少し違う育て方をされたかもしれません」
父は私の顔を見ていた。見ていた目が、一瞬、伏せた。伏せて、すぐには上げなかった。廊下の床板の継ぎ目あたりを、父は見ていた。それから、ゆっくり息を吐いた。
それは、父にとって何年かぶりの、亡き妻の話だった。何年か、というのが何年なのかは、私には数えられなかった。父が何年、母の話を自分の中でもしないままここまで来たのか。私が何年、父の前で母の話をしないままここまで来たのか。たぶん、同じ年月だ。母が亡くなった年から、ずっと、私たちは同じ年月を、別々の場所で避けてきた。
父は何も答えなかった。答えないということが、今日、父にできた最大限の応答だった。
私は頷いた。頷いて、トランクの取手を持ち上げた。
「行ってまいります」
「ああ」
それだけだった。
レティシアは、玄関ホールの少し離れたところに立っていた。彼女はもう、両手で自分の言葉を抱きしめていなかった。両手は彼女の体の脇に、ただ垂れていた。
私は彼女には、もう声をかけなかった。かける理由がなかった。かける必要のあることは、もう全部、彼女自身が自分で考えなければならない。私がそれを代わりにしてやる時期は、四度目の婚約破棄の日に終わった。
馬車に乗った。向かいの席に、アニカが座った。
侍従頭ではなく、アニカが私についてきてくれることになっていた。彼女はグレイフィン家で、私の侍女として雇われ直す。ローレンソン家を辞めるのではない。グレイフィン家に移籍するのだ。語尾を完全には言わない侍女と、私はこれからもしばらく、同じ家で暮らす。
「ヴィオラ様」
アニカは座ってから、しばらくためらってから、言った。
「お父様、お可哀想に」
「そう?」
私は窓の方を見た。
「私には、まだ、そう見えない」
「申し訳ありません」
「謝らないで」
私はもう一度、彼女を見た。
「あなたがそう見えたなら、そういう側面もあるんでしょう。私が、まだ、それを見たくないだけ」
アニカは頷いた。頷いてから、彼女もまた窓の方を向いた。彼女の薬指には、輪の跡がなかった。彼女はまだ若い。誰の死別も、まだ彼女の体には刻まれていない。
馬車が動き出した。
道は四日前と同じ道だった。同じ道なのに、葉の色が四日前よりもう少し褪せていた。四日前は、まだ茶色の中にわずかに赤の残りが混ざっていた。今日は、もうほとんど灰色に近い茶色になっている。
冬が私の四日を追い越して進んでいた——と、そこまで考えて、少し気取った言い方だと思い直した。葉は、ただ褪せただけだ。私の四日とは関係なく、葉には葉の都合がある。
馬車が緩んで、止まりかけた。
「お嬢様。グレイフィン家の門が、見えてまいりました」
私は窓の外を見た。
門の鉄細工が、四日前より少しだけ磨かれているように見えた。光の当たり方が、少し違っていた。私はそれを、最初は自分の目の錯覚かと思った。けれど、馬車が近づくほど、その違いははっきりした。
門だけではない。門の向こうの屋敷の正面、玄関の石段、その上の天窓。全部、四日前よりほんの少しだけ明るくなっていた。
天窓の下に、四日前は二重の布がかかっていた。今日は一枚だけだった。
それは、彼が私に約束したひとつだった。廊下を、もう少し明るくしておく。
馬車が門をくぐった。私は座席の背にもたれた。
トランクが足元でわずかに揺れた。その音だけが、しばらく馬車の中に残った。