作品タイトル不明
第4話 四度目同士、釣り合いですね
「失礼する」
低い声がした。
入ってきたのは、思っていたより大きい男だった。肩が広いというのではなく、立っているだけで部屋の重心が一つずれる、そういう体格だった。
額に古い傷があった。眉の上からこめかみへ、線が一本走っている。古いというのは、傷の縁の色がもう肌に馴染んでいるからだ。何年経ったものかは知らない。けれど、私と婚約していた誰かの傷より、ずっと古い。
「グレイフィン将軍家のマルクスです」
低く、まっすぐな声だった。
私はソファから立ち上がった。立ち上がってから、彼が、立ち上がる必要はない、と言わなかったことに気づいた。普通、客が立ち上がるのを止める。けれど彼は止めなかった。彼は、私を「客」として扱うか「妻になるかもしれない人」として扱うか、まだ決めかねている。私は、それでいいと思った。私もまだ決めかねている。
「ヴィオラ・ローレンソンです」
彼がわずかに頭を下げて、向かいの椅子に座った。
座る動作が、訓練された人のそれだった。膝を曲げて、上半身の重みをゆっくり下ろす。椅子の脚がほとんど音を立てない。戦地でいきなり座ると襲われやすい人の座り方だ、と私は思った。彼は、平和な応接間でも、平和な座り方がもうできなくなっている。腰を下ろす最後の瞬間に、軍靴の踵がわずかに床を擦って、小さく鳴った。
私もソファに腰を下ろした。下ろしてから、彼をもう一度見た。
彼は私を見ていなかった。正確に言うと、私の手元の少し横、テーブルの縁を見ていた。ティーセットの足の方を。私の顔を見ると、別の誰かの顔と重ねてしまうのだろう。それが誰の顔なのか、私にはまだ分からない。けれど、見ないということを、彼は意識的に選んでいる。意識して見ないというのは、見たいけれど見られない、という意味だ。
「私は、四度、妻を亡くしている」
前置きはなかった。私はその口の動きを見ていた。
「存じ上げております」
「君は、四度、婚約者を妹に奪われている」
「ご明察です」
短い応酬だった。応酬というには、二人とも声に色を乗せていなかった。事実を、確認するために並べただけだった。確認するために並べる事実がこれだ、ということが、私には少し可笑しかった。可笑しいと感じる自分が、今日、何かが少しだけ動いた印だった。
私たちはしばらく黙った。
沈黙の間、私は彼の手元を見ていた。
手は膝の上にあった。左手の方が上に乗っていて、右手はその下にある。左手の指の、長い節と短い節が、わずかにばらついていた。何度か折れた跡だ。手の甲に、太い血管が一本浮いている。それも、戦場で長く力を使ってきた手の形だった。
戦場帰り、というのは知っていた。社交界の噂で、という意味だ。直接、戦場の話を聞いた人はいない。彼は戦場の話をしない人だ、と父も言っていた。父の話す「彼」は、その時、まだ私にとって社交界の中の名前の一つに過ぎなかった。今、目の前にいる彼が、その「彼」だ。確かに、戦場の話はしなさそうだった。
そして、私はもう一つ気づいた。
この応接間に、彼は座りたくない。ここの応接間に来たくない、という意味ではない。私を迎えたくない、という意味でもない。ただ、この椅子に、今日、彼が座っているということ自体が、彼にとって何か重い。
私はその重さを見ていた。そして、口を開いた。
「四度目同士、釣り合いますね」
声がわずかに軽くなった。軽くしようとしたのではない。口に出してから、自分でも軽く響いたと気づいた。冷たくはなかった。冗談というほどでもなかった。事実をもう一度、二人で確認した、というだけの声だった。
彼の肩がわずかに下がった。下がったというのは、力が抜けたというのに近かった。
彼は何かに構えていた。私が何か違うことを言うのを構えていた。違うこと、というのは、たとえば「四度も妻を亡くされた方と、結婚しろと言うのですか」とか、そういう種類の言葉だ。彼はその種類の言葉を、もう何度か聞いてきたのだろう。
私はそれを言わなかった。代わりに「釣り合い」と言った。
彼は、初めて、私を見た。
「条件の話をする」
彼が低く言った。私は頷いた。
「子は望まない」
「分かりました」
「寝室は別だ」
「分かりました」
「対外的には夫婦として振る舞ってもらう。社交への参加は、最低限でいい」
「分かりました」
私は相槌の語尾を、少し揃えすぎていると思った。けれど、揃えない理由がなかった。彼の条件は、私が修道院に持っていく目録より、ずっと簡素で、ずっと無理のない並びだった。私が断る理由が、最初の三つにない。
「君の条件は、便箋の通りでいいのか」
「ええ」
「もう一度、口で聞きたい」
私は彼を見た。彼はもう、ティーセットの足の方は見ていなかった。私の顔を見ていた。額の傷が、見ていない時よりほんの少し明るく見えた。光の入り方が変わったわけではない。私の方が、見方を変えたのだ。
「私は、五人目の亡き奥様にはなりません」
「ああ」
「閣下にも、私を、廊下の五枚目の肖像画にしないと、誓っていただきたい」
彼はしばらく私を見ていた。それから、息を一度だけ深く吐いた。
「努力する」
「努力ではなく、約束でお願いします」
彼の眉がわずかに動いた。誰かにこういう言い方をされたのは、久しぶりなのだろう。あるいは初めてなのかもしれない。彼は「努力する」で、これまで許されてきた。許されてきた相手は、もう廊下にいる。
「……約束する」
ようやく、彼はそう言った。声が、便箋の「提示された条件で結構」と同じ調子だった。
私は頷いた。頷いてから、ソファの背に少しもたれた。もたれてから、肩から力がひと層抜けた。抜けてから、私は自分が肩に力を入れていたことに気づいた。応接間に通された時から、ずっと入れていた。気づかなかった。気づかないでいられるくらい、私は肩に力を入れる訓練を、長くしてきたのだと思う。
彼がハロルドを呼んだ。声を張らなかった。わずかに扉の方に目を向けただけだった。それで扉が開いた、ということは、ハロルドは最初から扉の向こうで待っていた、ということだ。三年、彼はこうやって扉の向こうで、自分の主のための合図を待ち続けてきた。
「書類を」
「はい」
ハロルドが机に書類を置いた。紙は二枚。一枚は私の手元に、一枚は彼の手元に。同じ内容のものを、二人で同時にサインする。文面は便箋より少しだけ長く、条件が四つ書かれていた。子のこと、寝室のこと、社交のこと、そして肖像画のこと。
私は四つ目をゆっくり読んだ。
「私、マルクス・グレイフィンは、ヴィオラ・ローレンソンの命を、自らに先んじて守ることを、ここに約束する」
文面は彼の字だった。「条件で結構」と同じ字だった。
ペンがティーカップの隣に置かれていた。私はそれを取った。取ってから、ペン軸の根元に薄く削れた跡があるのに気づいた。彼が長く使ってきたペンだ。新しいペンを来客用に用意することは、しなかったらしい。あるいは、用意するという発想が、この家にはもうない。
私は四つ目の条文の下に署名をした。書面の右下に、私の名前が並んだ。その横に、彼がペンを動かした。紙がわずかにこすれた。
その音だけが、応接間に残った。
「閣下。ひとつ、よろしいでしょうか」
私はペンを置いてから、もう一度口を開いた。
「ああ」
「廊下の、奥様方の御名前を」
彼の指が、ペンの上で一拍止まった。
「……どうしてだ」
私は答えに少し迷った。迷ってから、嘘をつかない方を選んだ。
「廊下を、これから何度か通ります。通るたびに、御名前を知らない方々の前をただ素通りするのは、私の好みではないので」
彼は私を見ていた。見ていたが、すぐには何も言わなかった。それから、ハロルドの方を見た。ハロルドがわずかに頭を下げて、低い声で、四つの名前を私に告げた。
私はそれを繰り返さなかった。繰り返すと、まだ軽くなりすぎる気がした。覚えるのは、廊下で、もう一度、ひとり一人の絵の前で覚える。今ここで暗誦するためのものではない。
「ありがとうございます」
私はそれだけ言った。
彼はもう一度ペンを動かそうとして、止まった。それから、ペンを置いた。
「ヴィオラ・ローレンソン嬢」
「はい」
「次にこの家に来る日は、君がトランクを持ってくる日になる」
「はい」
「その時、廊下を、もう少し明るくしておく」
私は彼を見た。彼は私を見ていた。額の傷の上の方に、髪の毛が一筋落ちかかっていた。それを彼は直さなかった。
「ありがとうございます」
私はもう一度、それだけ言った。
「お見送りを」
ハロルドが扉の前で礼をした。
「ええ」
私はソファから立ち上がった。立ち上がる時、ペンが少しだけ紙の上で転がった。
転がった音を、私は聞いた。その音の後ろに、彼が椅子から立ち上がる気配があった。座った時より、ずっと軽い立ち方だった。