作品タイトル不明
第3話 想像以上でした
「提示された条件で結構」
便箋の真ん中に、その文だけが書かれていた。
便箋自体は、私が一週間前に父の書斎で見たのと同じ、軍部の紋章入りの紙だった。けれど一週間前のものより、書き方はずっと簡素だった。あの時の紙には形式ばった挨拶があった。家紋の下に、誰からの手紙で、いつのもので、後を継ぐ立場として何を考えていて、家と家のあいだをどう整えるつもりか、というようなことが、父の読みやすい順に並んでいた。
今度の紙には、それがない。
書いた本人の字なのだろう。紙の右下に署名はなかったが、一週間前の紙にもなかった。グレイフィン家は、署名で家紋を立てない家らしい。署名がいらない返事をする家は、約束を破らない家だ。約束を守ると思っているから、署名で確認する必要がない。
私の条件は二つあった。私は貴家の五人目の亡き奥様にはならない覚悟で参ります。閣下にも、私を五人目の肖像画にしない覚悟をいただけますか。その両方が「結構」だ、ということだ。
私は便箋を引き出しにしまった。母の形見の手鏡と、修道院願いの紙の隣に置いた。紙が三枚になった。
引き出しに紙が増えるたびに、私は自分の生活が少しずつ揃ってきている気がする。何が揃っているのかは、まだ分からない。揃いきってから、ようやく分かる。揃いきる前に名前をつけるのは、私の趣味ではない。
訪問は四日後と決まった。
朝の早い時間に、馬車を出してくれと父が侍従頭に伝えた。私は出発の前夜、トランクには触らなかった。今日は訪問だ。最終的な打ち合わせをして、その上で婚姻儀礼の段取りを決める。荷物は後日になる。父は同行しない、と早朝に書斎の窓から声をかけてきた。書斎の窓から声をかけてくる父は、もう何年も見ていなかった。私は窓を確かめなかった。窓を確かめると、父が立っているか座っているかが分かってしまう。立っているか座っているかで、父の今日の気分が分かってしまう。今日の私は、父の気分を預かりたくなかった。
「ヴィオラ様」
侍従頭が玄関で私を待っていた。馬車に乗り込んで、向かいの席に彼が座った。
彼は六十を超えていて、私が生まれる前からローレンソン家にいる。十年前、私の最初の婚約破棄の時にも、彼は同じように私の向かいに座って、王宮からの帰り道、何も言わずに、ただ私の隣に水差しを置いた。彼の物言わぬ習慣を、私は信頼していた。
馬車が動き出す。窓の外の景色は、もう冬の入り口の色をしていた。
道の両側の木は葉をほとんど落としている。残っている葉も霜に焼けて色が褪せていた。一月前なら赤かったはずの葉が、今は茶色だ。赤の段階で落ちた葉と、茶色になるまで残った葉と、どちらが幸せだったのかは、葉自身に聞かないと分からない。
私は窓から目を逸らした。逸らした先に、侍従頭の手元があった。
彼の手は膝の上で組まれている。指の節が年齢相応に膨らんでいる。左の薬指に、薄く、輪のような跡があった。指輪を長く嵌めていた跡。今は嵌めていない。
私はその跡を、見ない振りをした。
馬車が緩んで、止まった。
「お嬢様。グレイフィン家でございます」
扉が開いて、冷たい風が首筋に当たった。
私は降りた。正面の屋敷は、想像していたよりもう少し低く、もう少し古かった。新しい屋敷ではない。けれど壊れているわけでもない。手入れはしてある。していないわけがない。ただ、その手入れに生活の気配がない。庭の木は揃って剪定してあるが、剪定の仕方が、植物のためというより、敷地の輪郭を保つためのものだった。
玄関の石段の上に、一人、男が立っていた。その後ろに、使用人たちが横一列に並んでいた。
私は数えなかった。並んでいる人数を数える趣味は、私にはない。十人より少なく五人より多い、というのが目に入った印象だった。全員、揃いの制服を着ていた。色は暗い。黒というよりも、黒に近い、けれど完全に黒ではない、灰色を底に沈めたような色だった。
その色を、私は知っていた。社交界で、伴侶を亡くした家の使用人たちが、半喪の意味で身に着ける色だ。喪は本来、長くて一年で解く。
三年経っていた、と私は来る前に父から聞いていた。
………想像以上でした。
声には出さなかった。ただ、唇の内側で、一度だけ転がした。
「お待ち申し上げておりました」
石段の上の男が、低く礼をした。
「ヴィオラ・ローレンソン様。本家の家令、ハロルドと申します」
老執事ハロルド。年齢はローレンソン家の侍従頭と近い。けれど立ち姿はもう少し骨ばっている。背筋がまっすぐすぎる。あれは、戦地から戻る人を何度も玄関で迎えた背筋だ、と私は思った。迎えた人の数より、迎えられなかった人の数の方が多かったのだろう。
「ヴィオラ・ローレンソンです。本日は、ありがとうございます」
ハロルドがもう一度礼をした。
「どうぞ、お入りくださいませ」
玄関を入って、廊下を歩いた。廊下は外より少し暖かく、けれど暗かった。
天窓があるのに、その下にだけ薄い布がかけられている。光を全部入れない、けれど全部遮りもしない。それは、半喪の制服の色と似た判断の仕方だった。光に対しても、この家は半喪のまま三年来ているらしい。
廊下の両側に、肖像画が並んでいた。
私は足を止めた。四枚あった。
一枚目は若い女性。二十歳前後だろう。穏やかな顔立ちで、肩から上だけが描かれている。額の縁が四枚の中で一番古かった。二枚目はもう少し落ち着いた表情の女性で、二十代の終わりに見える。額は一枚目より少し新しい。三枚目は落ち着いた色合いのドレスを着た女性で、三十を過ぎている顔立ちだ。四枚目は四枚の中で一番額が新しい。横顔の絵だった。痩せていた。療養先で描かれた絵だろう、と私は察した。
額の新しさを順番に見て、気づいた。若い順に並んでいるのではない。亡くなった順番だ。手前が一番古い亡くなり、奥が一番新しい亡くなり。
私は口に出さずに、四人を順番に見た。頭の中で、ひとり一人に挨拶をした。
はじめまして。
それしか、まだ言えなかった。あなた方のお名前を、私はまだ知らない。けれど、お名前を知らなくても、ここに並んでいる順番のことは知っておいた方がいい。私の場所は、この奥の、その先になる。なる、と決まったわけではないけれど、なる、ということを、私は今日、ここの方と話しに来ている。
「ヴィオラ様」
ハロルドが廊下の奥から私を振り返った。
「失礼しました」
「いえ」
ハロルドは立ち止まって、私が追いつくのを待った。待つ間、彼の視線は、私のではなく、四枚の絵の方を向いていた。
その視線の動き方を、私は見ない振りをした。
応接間の扉の前で、ハロルドが立ち止まった。
「旦那様は、すぐにいらっしゃいます。お茶を、用意させております」
「ありがとうございます」
扉が開く。応接間は廊下より少し明るく、けれど明るいというほどではなかった。
カーテンが半分閉じられていた。全部閉めれば暗すぎる。全部開ければ明るすぎる。だから半分。それも半喪と同じ判断だ。この家は、判断の仕方を家全体で揃えている。
暖炉に火は入っていなかった。今日は私のための火を入れていない、ということだ。あるいは、この応接間が長く使われていない部屋だったということ。火を入れる習慣のなかった部屋に、今日のために少しだけ使う支度を、家令はした。けれど暖炉までは思い至らなかった。あるいは思い至ったが、入れる薪の用意がなかった。
ティーセットがテーブルの上に置かれていた。カップは二客。二客の位置は揃っていなかった。一客はソファ側に、もう一客は向かいの椅子の方に。けれどソファ側のカップの方が、わずかに奥に置かれている。客の方を、少しだけ招き入れている置き方だった。それを誰がいつ誰のためにそうしたのか、私には分からない。分からないけれど、ありがたいとは思った。
ソファの肘掛けの布が、片側だけ、わずかに色が違っていた。一度、何かをこぼして、その部分だけ拭いたか、張り替えたのだろう。来客のない部屋の、来客のなかった時間の跡だった。
「どうぞ、お掛けくださいませ」
ハロルドが言った。
私はソファに歩み寄った。歩み寄ったが、すぐには座らなかった。座る前に、向かいの椅子の方をもう一度見た。
そちらに、人が座る。私の知らない、まだ会ったことのない人が、その椅子に座って、私を迎える。
「失礼いたします」
ハロルドが扉のところで礼をして、扉が彼の後ろで静かに閉まった。
私はようやくソファに腰を下ろした。カップから湯気は、もう、ほとんど立っていなかった。
待った。長くも短くもなかった、と思う。
ただ、その間に、私は自分が右手で左手の指を何度か握っているのに気づいた。緊張、というには心臓は静かだった。けれど指は、私の心臓と別の場所で勝手に動いていた。
廊下の遠くから、足音が近づいてきた。低く、まっすぐな足音だった。ローレンソン家の侍従頭の足音にも、父の足音にも、似ていなかった。
止まる、と思った瞬間、その通り、扉の前で止まった。
止まってから、一拍、間があった。その間、私は向かいの椅子を見ていた。
それから、扉が開いた。