軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第2話 便箋に、紋章

「お嬢様、こちらの本は」

侍女のアニカが、装丁の擦れた本を一冊、棚から抜いて持ち上げていた。

私は窓辺で、修道院から送られてきた目録を読んでいた。入って構わない持ち物、書ききれぬので別紙参照、と上の方に小さく印刷されている。別紙の方が目録より厚い。修道院に持っていけないものの方が、持っていけるものより多いということを、印刷の段階で修道院は伝えてくる。

「持っていきません」

「では」

「図書室に戻して。気が向いたら、誰かが読むでしょう」

アニカが頷く。

彼女は最近、私に質問する時、語尾を完全には言わない癖がついた。「では、図書室に戻してよろしいでしょうか」と、本当は言いたい。けれど語尾を全部言うと、私が自分で答えなければならなくなる。彼女はそれを避けて、私の代わりに途中で口を閉じる。私はその優しさを、黙って受け取っている。

修道院に持っていく荷物は、思ったより少ない。一月かけて選別して、トランク一つに収まりかけている。四度の婚約破棄を経て、私の持ち物は自然と減ってきた。一度目の時にルシオン王太子から贈られたものを全部返した。二度目の時にも三度目の時にも、同じことをした。四度目のアロウェンに至っては、贈り物自体が少なかった。彼は彼で、何かを薄々察していたのかもしれない。最後の婚約者にしては、一番、私に対して律儀だった。律儀な人は、こういう家に深入りしない方がよかった。

「ヴィオラ様」

扉から、侍従頭の声がした。ノックは一度だけ。年配の侍従頭は、私の名前を呼ぶ時にもいつも一拍遅れる。

「お父様が、書斎にお呼びです」

私は目録を閉じた。別紙の方が厚い。別紙を読むのは、あとでもいい。別紙を読むためには、まず修道院に行くという前提が要る。前提が要る読み物は、後回しでも誰にも怒られない。

書斎は応接間より暗い。窓が一つしかない。

父はそこで「家のことを考えている」と私たちに言うが、私は、父が実際に書類を書いている姿をあまり見たことがない。父は「家のことを考える」ということを、机の前に座ることだと信じているふしがある。座ってさえいれば、家のことは考えたことになる。そういう家で、私は育った。

扉を開けると、父は机の向こうに立っていた。

立っていた、というのが、まず私には引っかかった。父は普段、書斎では座っている。立っている時の父を見るのは、応接間か玄関か、たまに庭だけだ。書斎で立っている父は、書斎にいる父ではない。違う父が、ここで私を待っている。

「お父様」

「ヴィオラ」

机の上に、便箋が一通あった。封蝋はもう切られている。父が読み終えている。読み終えた便箋をわざわざ机の真ん中に置いている、ということは、私にも読ませるという意味だ。けれど父は、読みなさい、とは言わない。

私は近づいた。紋章があった。剣と、その下に小さな鳥。

グレイフィン将軍家の紋章だ。私は知っていた。一度目の婚約者がルシオン王太子だった頃、社交界で何度か見た紋章だ。当時の私は、知っていても、その家のことを深く考えたことはなかった。考える理由がなかった。あの家は社交界に出てこない。当主は戦場にいる時間の方が長い。家のために結婚をする家ではない、と父も、その頃はよく言っていた。

そして父は今、その家からの便箋を、机の真ん中に置いている。

「グレイフィン将軍家から、お前を娶りたいと、打診が来ている」

私は便箋を見ていた。紙の角がごくわずかに反っている。封筒から出して、そのまま置いて、しばらく経った紙の反り方だ。父はこの紙を、半日前に読んだ。半日、机の上に置いていた。座らずに、立って、見ていたのかもしれない。あるいは、何度か座って、何度か立った。

「四度妻を亡くされた、あの方ですか」

声に出してから、私は自分の声が思ったより冷たかったのに少し驚いた。冷たい声を出すつもりはなかった。ただ、頭の中で考えていた言葉を、そのまま唇に乗せただけだ。けれどそれが冷たく響いたということは、私の頭の中の言葉は、もう冷たくしか並ばないようになってしまったのかもしれない。それを誰かに直してもらいたいとは、今は思わなかった。

「そうだ」

父は机の縁を見ていた。私が便箋を読まないので、自分も視線を落としているのだろう。

「断ってもいい」

父はそう言った。そして、続けた。

「だが、修道院よりは」

その先を、父は言わなかった。

私は便箋に伸ばしかけた指を止めた。

「お父様。私はもう、家のために結婚はしません」

父はゆっくりと目を上げた。私は父の目を見た。父も私の目を見た。父の目は、私が思っていたより少し疲れていた。

「これは」

父は机の縁を一度、指で叩いた。爪の音だった。

「家のためではない」

そう言ってから、父は少し止まって、息を継いだ。

「お前自身の、引き取り先の話だ」

引き取り先。その言葉が、私の中で不思議に響いた。

家のため、という言葉は十年以上聞いてきた。私はこの言葉に慣れていた。慣れていたから、はね除ける用意もしていた。一度目で、二度目で、三度目で、四度目で、私は「家のため」を四回はね除けた。父は四回とも、別の言葉で言い直した。お前の将来のため。家の体面のため。妹のため。私のため。父はそれを家のための翻訳だと思っていた。私はそれを、家のための言い換えだと知っていた。

けれど、引き取り先、というのは慣れていない言葉だった。父の口から出てくると思っていなかった。

私は目を伏せた。伏せてから、机の上の便箋に指を伸ばした。

紋章を指でなぞる。剣の柄から刃の先まで、そして下の鳥の翼まで。封蝋の蝋は、まだほんの少し、私の指の温度で柔らかくなる気がした。気のせいかもしれない。けれど指の腹に、わずかに何かが残った。

「最後の奥様は、いつ頃」

「三年前と聞いている」

「三年」

私は繰り返した。繰り返してから、なぜそこに引っかかったのか、自分でも分からなかった。三年前は、ちょうど私が三度目の婚約破棄をされた頃に近い。あの頃、私は二度目の修道院願いを書いて、父に破られた。グレイフィン家では、四人目の妻が亡くなった。重ねるべきではない出来事だったが、私の頭は勝手に重ねた。同じ年に、別の場所で、たぶん同じくらいに、私とその家の知らない奥様は、何かを終わらせていた。

「お父様。お返事を、書いてもよろしいですか」

父がわずかに私を見た。

「断るのか」

「いえ」

私は紋章から指を離した。離した指の腹に、封蝋の匂いが薄く残っている。私はそれを机の縁で拭わなかった。

「条件です」

父は私を見ていた。何かを言いかけて、口の動きだけが残った。「家の」と、五回目の翻訳をしかけて、自分で飲み込んだ。父が「家の」を飲み込むのを見るのは、今日が初めてだった。

「分かった」

それだけ言って、父は机の縁から指を離した。

自室の机に戻って、引き出しを開けた。母の形見の手鏡と、修道院願いの紙が、一月前と同じ位置にあった。

紙はもう必要ないかもしれない、と一度は思った。けれど、私は紙を引き出しの中に残したまま、別の紙を取り出した。家紋の入っていない、地味な、私物の便箋。

ペンを取った。一月前にしまったインク瓶を出して、栓を抜く。乾きかけてはいない。アニカが、いつか書く時のためにと、隔日で湿らせてくれていた。それが私の侍女の、語尾を最後まで言わない優しさだ。彼女は私が修道院に行くと信じていない。けれど信じていないとも言わない。信じていない人のインクを、彼女は隔日で湿らせる。それで私は、書きたい時に書ける。

書き出しを考えた。

最初に思いついたのは「五人目の亡妻にはなりません」だった。書斎で父に言うために、すでに私の頭の中に並んでいた言葉だ。けれど、書面に書くと少し違って見える。書面の文字には、声の冷たさが乗らない。冷たくない私が冷たい意図だけを伝えると、相手は私のことを少し誤解する。

私は書き直した。書き直して少し意地が悪い文面になったが、書き直す気にはなれなかった。一度書き直したものをまた書き直すと、最後には何も伝わらない文章になる。私はそれが何より嫌いだった。家のため、という言葉に私が長く付き合わされてきたのは、たぶんそれが、何も伝わらない言葉だったからだ。

封蝋を取り出した。私はローレンソン家の紋章をまだ正式には持っていない。婚約解消の手続きが終わるまで、伯爵令嬢の正式な印は使えない。封蝋は無地で押した。押した蝋に指先が少し触れて、跡が残った。それもそのままにした。

封筒の宛名を書いている時、扉が静かに叩かれた。アニカだった。

「ヴィオラ様、もう一度、図書室にお戻りに」

「いいえ」

私は便箋を封筒に入れた。

「先に、この手紙を、お父様にお渡しください」

アニカは封筒を受け取って、宛名を見た。それから、宛名から私の顔に視線を上げた。

「お父様にお渡しする封筒なのですよね」

「ええ。けれど、中の宛先は別の方です。お父様に、転送をお願いしたいの」

アニカは何かを尋ねたそうな顔をした。けれど、いつものように、語尾を完全には言わずに、ただ頷いた。封筒が、彼女の手の中に消えた。扉が閉まる。

私は机の上の、母の形見の手鏡を引き出しから出した。出してから、しばらく自分の顔を映してみた。

一月前より少し痩せた。それは食事の量のせいだけではない、と私は思っている。けれど、痩せた理由をあまり考えたくない。考えると、母の不在をもう一度思い出してしまう気がする。

鏡を引き出しに戻した。修道院願いの紙の隣に置いた。

紙はまだ引き出しの中にある。私はまだ、紙を捨てていない。返事が来るまで、捨てる気はなかった。返事が来てから、捨てるかどうかを決める。そのくらいの順序を、私はもう、自分に許してもいい気がしていた。

窓の外で、犬がまた一度だけ鳴いた。一月前とほとんど同じ声だった。季節は、少しだけ進んでいた。