作品タイトル不明
第1話 四度目の学習
「申し訳ない、レティシア嬢と――」
アロウェンの声が途中で擦り切れた。
私はその向こうの絨毯を見ていた。窓際の縁が日に焼けて色が抜けている。本当ならもう何度か張り替えるべきだったのに、家には毎年その余裕がなかった。妹のドレスはあるのに絨毯はない、というのがローレンソン伯爵家の経済感覚だ。
四度目の婚約破棄を告げられたので、私はようやく学習した。
私には男を見る目がない。正確に言うと、私が一度見て決めた男も、妹レティシアに会った瞬間、私から見える側ではない方に行ってしまう。これは四回連続で起きた。学習能力に問題があるのは、果たしてどちらだろう。
「ヴィオラ」
父が椅子から立ち上がりかけた。その腰の動きを、私は手のひらで止める。掌をほんの少し浮かせる程度の、半分だけの仕草で。
父が止まる。椅子の脚が絨毯の同じ場所をこすって、ぎ、と鳴った。
「お幸せに、アロウェン様」
声に何の色も乗らなかった。乗せようとしても、もう乗らない。一度目でやり方を忘れて、二度目に道具を捨てて、三度目で乾いた。四度目の今、私の中で動いたのはひとつだけだ。
ああ、これでもう、明日のドレスの試着に行かなくていい。
アロウェンが顔を上げる。何か言いかけて、何も言わずに口を閉じた。彼は彼で、私に何を言ったらいいのか分からないのだろう。私もそうだ。四度目になって、私たちは似たような顔の取り扱いに困っている。
部屋の隅でレティシアが俯いていた。頬がほんのり染まっている。彼女は今、自分が「奪われた側ではない側にいる」ことを噛みしめている。悪気はないのだろう。彼女は二十三になっても悪気のないままだ。それを知っている私が、悪気のなさで救われたことは、これまで一度もない。
私は立ち上がった。椅子の背に触れた指先が、思ったより冷たかった。
応接間を出る。廊下の絨毯は応接間のものより古くて、踏むたびに毛足が固まっている。私はその上を少しゆっくり歩いた。急ぐ理由がない。誰も追いかけてこない。アロウェンも父もレティシアも、私が部屋を出た瞬間に、もう私の話を始めているか終わらせているかのどちらかだろう。
階段を上り切ったあたりで、ようやく息を吐いた。
涙は出なかった。一度目で出し切ったらしい。二度目で乾いた。三度目で忘れた。今となっては、出し方を覚えている自信もない。
自室の扉を閉めて、机に向かう。
机の右の角に小さな傷がある。十二の時に刺繍の針を取り落として擦った跡だ。それからずっとそこにある。何度拭いても消えない。妹ならこういう傷を見つけると侍女に新しい机を頼む。私は傷を見つけても何も言わない。何も言わないでいる方が楽だったからだ。
ペン皿のインクがもう乾きかけていた。新しい瓶を出すのが面倒で、乾きかけのペンに少しだけ水気をつけて書き始めた。
修道院入願。
我ながら達筆である。三度目の婚約破棄の後にも一度書いたから、二度目だ。あの時の紙は、父に目の前で破られた。「家のために」と父は言った。家のためなら、なぜ妹は何度も婚約者を奪う側に回るのだろう。私はその時にも考えた。だが、父に問うのはやめておいた。問わないことが、私の家の中での過ごし方だった。
書き終えてしばらく、紙を見ていた。字が綺麗すぎる気がした。四度目ともなれば、もう少し雑になっていてもいい。震えたって滲んだって、誰も責めなかった。けれど私の指は今日も静かに、いつもの角度で、いつもと同じ字を書いた。指が私の事情を覚えていない。それが少し腹立たしい。
扉が叩かれた。
「ヴィオラ」
父の声だった。私は紙を伏せた。入室を許可すると、父は何も言わずに机の前に立った。
私は紙を伏せたまま父を見上げた。父も伏せた紙を見て、それから私を見た。
父の上着の肩が少し皺になっている。応接間に呼ばれた時、急いで羽織ったのだろう。父は最近よく着替え損ねる。母が亡くなってからずっとそうだ、と思いかけて、思うのをやめた。母の話を、もう私は自分の中でもしないことにしている。
「お父様。これは、お見せしないでも伝わる紙だと思います」
父は何か言いかけた。「家の」と一度だけ口が動いて、続きが出なかった。
しばらく、父は机の縁に視線を落としていた。机の右の角の傷を父が見ているのが分かった。父はあの傷を一度も見たことがない、と私はずっと思っていた。だが、見たことがあったのかもしれない。それが分かったのは、四度目の今日が初めてだった。
そして、何も言わずに部屋を出ていった。扉が閉まる音の前に、廊下を踏む足音がひとつ遅れた。
私は紙を伏せたまま、机の引き出しを開けた。
引き出しの中には、母の形見の手鏡がひとつだけ入っている。それだけだ。母が亡くなった六歳の年から、ずっとそれだけ。私は大事な紙はここにしまう習慣がある。子どもの頃、ここにしまったものを母が見ている気がしたからだ。もうそんな気はしない。けれど、習慣だけは残っている。
修道院願いを、手鏡の隣に置いた。紙の角が鏡の縁に触れた。
「お母様」
口に出してから、その先を続けるか迷った。続けても、聞いてくれる人がいないことを、私はもう知っている。
「お母様が生きていらしたら、お父様は、妹をあそこまで甘やかさなかったのでしょうか」
返事はなかった。手鏡の縁が、夕方の光を一度だけ薄く返した。それだけだった。
私は引き出しを閉めた。閉めてから、なぜか、もう一度開けて、紙の角を少しだけ鏡から離した。
理由は自分でも分からない。鏡に近い場所は母の場所だ、と思ったような気もする。けれど、その紙はもう母に見せるべき紙ではない、と思ったような気もする。どちらか一方ではなく、両方だった。
引き出しを閉め直す。窓の外で犬が一度だけ鳴いた。台所の方から、鍋を竈に置く音がした。いつもより早い。来客があったから、料理人が夕食の支度を繰り上げたのだろう。
夕食の鐘は、まだ鳴らない。廊下に父の足音は、もう聞こえなかった。
私は椅子に座ったまま、しばらく机の傷だけを見ていた。