軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第9話 薔薇園に、雪の名残

早朝の馬車は、夜明けの前の灰色の中を、走っていた。

街道の両側の木立が、まだ、輪郭を、完全には、取り戻していなかった。夜の青と、朝の灰色の、あいだの、曖昧な色。──冬と春の、境目の朝の色に、似ていた。その似ている色を、自分の頬の窓の反射の中で、しばらく、眺めていた。

膝の上に、昨夜の箱が、あった。

箱の中で、柔らかい毛布の上に、白い花が、一輪、紙に包まれて、横たわっていた。夜の間、花弁が、ほんの少しだけ、縮んでいた。それでも、白さは、変わっていなかった。

「……寒くないか」

「いえ」

ルーカス様の声は、冬の朝の声と、少しだけ、違っていた。襟は、今朝は、半分しか、立てていなかった。春先の道の風は、この人の喉には、もう、あまり、障らない。──その、少しの違いを、今朝、ありがたい、と思った。

窓の外が、ゆっくり、明るくなっていった。

薔薇園の門の前で、馬車が、止まった。

ルーカス様は、御者台のすぐ後ろの席に、座ったまま、だった。窓を細く開けて、外の空気を、入れる。──去年の冬と、同じ位置だった。今日も、門の内側には、入らない、という、この人の、短い判断だった。

「……行ってきます」

「ああ」

「──箱は、お預かりいただいても」

「置いていけ。持っていけ、じゃないのか」

「いえ、箱ごと、ではなく」

私は、箱の蓋を、開けた。中の、白い花の、紙包みだけを、そっと、取り出した。

「花だけ、持っていきます」

ルーカス様は、頷いた。頷いた時の、目の細め方が、笑ってはいなかったけれど、笑う一歩手前の、角度だった。

門を、一人で、潜った。

砂利の音が、去年の冬よりも、柔らかかった。雪解けの湿りが、地面の底のほうに、まだ、薄く、残っていた。

奥のベンチのほうに、誰かが、いた。

寝室ではなかった。──アーチの下の、あのベンチだった。

マルガレーテ様は、年末に、お会いしたときよりも、さらに、肩の線が、細くなっておられた。毛布を、膝から、胸の下まで、上げていらっしゃる。若い侍女の方が、お傍に、お立ちになっていたのが、私の姿を見て、一度、深く、頭を下げてから、静かに、下がっていった。

──寝室まで、運ぶのを、諦めたのだ、と、直感した。

いえ、違う。諦めた、ではない。マルガレーテ様ご自身が、ここで、最後まで、と、仰ったのだろう。薔薇のアーチの下。自分の手で、蔦の根元を、指で触れるようになった場所。

近づいた。

ベンチの、端の、空いた場所に、そっと、腰を下ろした。

「……ようこそ」

声は、年末のそれより、もう一段、細かった。でも、「ようこそ」の、いちばん最後の一音までは、ちゃんと、続いていた。背筋は、まだ、かろうじて、伸びていた。──この方は、たぶん、背筋を落とすくらいなら、命を落とすほうを、先に選ぶ方だった。

「ご無沙汰しております、マルガレーテ様」

「ヴァイス領の、白い花ですわね」

指が、ゆっくりと、私の手の中の、紙包みに、向いた。

「……よく、お分かりで」

「ええ、分かります。薔薇園の、土のにおいではない、土のにおいが、しますもの」

紙包みを、ほどいた。

一輪の、白い花を、マルガレーテ様の膝の、毛布の縁のところに、そっと、置いた。倒れないように、茎の端を、毛布の折り目に、軽く、差し込むように。

マルガレーテ様は、その花を、しばらく、黙って、見ていらっしゃった。

見ている時間が、ほかのどの時間よりも、長かった。

「──お連れ、下さいましたのね」

「はい」

「ヴァイス領の、春の、気配を」

「ええ」

「ありがとう、ございます」

深く、深く、息を、吐かれた。吐いた息が、春先の薔薇園の空気の中で、白く、長く、続いて、やがて、消えた。

三十年帳簿の、最初の一冊は、もう、ベンチの、マルガレーテ様の膝の脇に、用意されていた。

春に、一冊目として、私が受け取って、夏に、もう一度、この方に、お返しに、持ってきたもの。

「一冊目は、ときどき、こちらに、戻してくださいませ」と、あの時、仰っていた。「私のほうも、もう一度、一頁だけ、見ておきたい気が、するかも、しれませんから」と。──預かっていたのは、この、最初の、一冊だけだった。

マルガレーテ様が、表紙の、革の、擦り切れのあたりを、指で、一度だけ、撫でられた。

「……最初の、一頁を」

「はい」

「もう一度だけ、一緒に、開いていただけますか」

開いた。

若い筆跡。まだ、整い方に、硬さのある、三十年前の、この方の字。最初の日付。台所の、塩の壺の在庫。──年末に、一緒に開いた、二冊目とは、違う、いちばん最初の頁。

マルガレーテ様の指が、ゆっくり、最初の日付の、上を、撫でた。

「この頁の、書き出しは、三回、書き直しませんでした」

「──はい?」

「最初の一冊の、最初の一頁だけは、書き出しを、迷わなかったのです。嫁いで、三日目の朝。厨房に、はじめて、立ち会った日。──塩の壺を指で軽く叩いて、音で残量を確かめる、あの、料理長のやり方を見て、私は、夢中で、この頁を、書きました」

「……夢中で」

「ええ。三十年、はじめから、最後まで、書く時は、夢中でした。──書き出しを、迷ったのは、二冊目以降、から。人に、読まれるかもしれない、と、気づいてから、筆が、遅くなりました」

マルガレーテ様は、ほんの少しだけ、目元を、細められた。

「あなたに、お渡しして、良かった。──あなたは、夢中で、お書きになる」

「……私」

「夢中で、お書きになる方にしか、三十年は、渡せないのです」

私の指が、頁の、欄の端を、押さえた。押さえている自分の指が、小さく、震えていることに、あとになって、気づいた。

「……マルガレーテ様」

「ええ」

「私は、自分の書いたものを、長い間、誰にも、渡さない前提で、書いていました」

「知っております」

「お恥ずかしい、限りです」

「恥ずかしくは、ございません」

マルガレーテ様が、私の、頁の上の指の、すぐ横に、ご自分の指を、そっと、並べられた。

並べた指と指の、間に、若い頃の、この方のインクの痕が、うっすら、残っていた。

「夢中で書けるうちは、いいのです。──私は、途中から、夢中ではなくなりました。人に、読ませないため、に、書くようになりました。それが、私の、いちばんの、損失でした」

「……」

「あなたに、お渡しして、良かった」

もう一度、仰った。

マルガレーテ様の指が、私の指の、横で、ほんの一瞬だけ、私の手の甲に、触れた。触れたことが、「握る」より、ずっと、遠慮のある、触れ方、だった。

「これで、一つ、減りました」

「……はい」

「三十年分の、たった一つの、正しいこと、が、──あなたに、お渡しできた、こと」

春の薔薇園の風が、アーチの蔦の、組まれた細い枝の間を、ゆっくり、通っていった。

私は、頁を、閉じなかった。閉じずに、そのまま、マルガレーテ様の膝の近くに、置いておいた。閉じるのは、私が帰ったあと、この方のご自分の手で、なさることだと、思った。

夕方、近くになって、アーチの下で、お別れをした。

マルガレーテ様は、ご自分の手で、毛布の端を、もう一度、整え直された。整え直した指の動きが、年末よりも、細くなっていた。それでも、整える、という動作自体は、迷いがなかった。

「……セレナ様」

「はい」

「もう一つ、──お渡ししたかったものが、ございましたの」

一瞬、指が、止まった。

訊くか、訊かないかで、迷った。──でも、訊かない、と、ほとんど瞬時に、決めた。

この方の「お渡ししたかった」の先を、今日、言葉にさせてしまうと、たぶん、この方の呼吸の、残りの多くを、使わせることになる。使わせるには、もう、この方の呼吸は、浅すぎた。

「……いつでも、お待ちしております」

私は、そう、申し上げた。

「いつでも」という言葉を、今日、使うことの、残酷さは、自分で、一度だけ、飲み込んだ。飲み込んでから、もう一度、頷いた。

マルガレーテ様は、ほんの、薄い微笑みを、お見せになった。

「──そうですわね」

それだけ、仰った。

アーチの下から、一人で、門のほうへ、歩いた。歩きながら、振り返らなかった。振り返らなかったのが、礼儀、だった。

門の外で、ルーカス様の馬車が、そのまま、待っていた。

御者台のすぐ後ろの、席で、ルーカス様は、降りなかった。降りずに、窓から、こちらを、見ていた。

私が、門を、出る。

門を出てから、馬車までの、わずかな距離を、歩く。

歩きながら、私は、たぶん、自分の顔を、作り直さなければ、ならない、はずだった。でも、作り直す力が、今日は、残っていなかった。残っていないまま、馬車の、開いた扉に、近づいた。

ルーカス様は、私が、扉のすぐ前に、来るまで、動かなかった。

扉のすぐ前に、来てから、ようやく、片手を、伸ばして下さった。

手を、取った。

取ったまま、私の体が、そのまま、前に、傾いた。

ルーカス様の、軍服の胸のあたりに、私の、額が、当たった。当てた、のではなかった。当たった、のほうが、近かった。

ルーカス様の、もう片方の手が、私の、頭の、後ろに、そっと、添えられた。強くは、押さえなかった。ただ、倒れないように、支えた。

何も、言わなかった。

私も、何も、言わなかった。

夜半、近くの宿。

庭師の方が、門まで、お知らせを、届けてくださった。

「先ほど、お逝きに、なられました」

それだけ、だった。

私は、頷いた。何も、返さなかった。返せなかった、のほうが、正しかった。

部屋に、戻って、窓辺の、小さな卓に、置いてあった花瓶を、見た。薔薇園で、マルガレーテ様の膝の毛布に、置いてきた一輪の、代わりに、侍女の方が、別の一輪を、私の手のひらに、そっと、握らせてくださっていた。──「薔薇の、蕾の、今日の、最後の、一本です」と。

その蕾を、花瓶の水に、挿してあった。

今、その蕾が、水の中で、ほんの、少しだけ、開きかけていた。

翌朝、ヴァイス領へ戻る馬車の中で、視界の右下が、深く、にじんだ。

涙では、なかった。今度こそ、はっきりと、違った。

「……セレナ」

「はい、……少し、目を」

「マリーカを、呼んでいる」

「──え」

「昨日、ハンネスに、伝えた。マリーカに、薔薇園まで、来てもらえ、と。──道中で、合流する」

「……」

「お前に、相談せずに、決めた。──すまん」

私は、首を、横には、振れなかった。振れるほどの力が、残っていなかった。

代わりに、膝の上の、片手を、ゆっくり、動かした。

お腹の、いちばん下のほうに、手のひらを、そっと、当てた。

当てた自分の動きを、自分で、少しだけ、遅れて、見た。──見たことで、自分が、昨日の看取りのあいだに、すでに、半分、気づいていたことに、今、気づいた。

声には、出さなかった。

ルーカス様は、私の手の動きを、見ていた。見ていたけれど、言葉には、しなかった。

馬車の、前の小窓が、一度だけ、コンと、叩かれた。御者の方が、「前方、黒い外套、軍医局の徽章」と、短く、告げた。

マリーカ様が、道の真ん中で、こちらの馬車を、待って、くださっていた。