軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第8話 書ける便箋と、書けない便箋

馬車の窓の外を、王都からヴァイス領への街道が、流れていた。

眠っているのでも、起きているのでもない、中途半端な時間が、半日、続いていた。背もたれに預けた頭が、揺れの角度に合わせて、左に、時々、右に、傾く。傾くたびに、窓の木枠に、こめかみが、ごく軽く、当たる。当たっても、痛くはなかった。痛くなかったから、注意を、そちらに向ける気が、起きなかった。

「……セレナ」

「はい」

「頭」

「ああ、……はい」

ルーカス様が、私のこめかみと、窓枠の間に、外套の袖の、分厚くたたんだ端を、差し込んでくださった。

それで、窓の木枠の、硬さが、一段、遠くなった。

向かいの席で、シャルロットが、膝の上の帳面を、途中で、閉じていた。閉じたのは、私が眠っているように見えたから、だと思った。ここは、王都と、慣れたヴァイス領の、ちょうど、境目あたりの街道。──夕刻の風の、匂いが、だんだんと、潮に、戻り始めていた。

(……帰ってきているのだ)

半分、眠っていた頭で、その一つの事実だけを、確かめた。

確かめたことで、残りの半分の眠気が、ほどけた。

屋敷の玄関先で、ハンネスさんが、いつもより半拍、遅く、両手を、後ろで組んで、待っていた。

「セレナ様、おかえりなさいー……ええと、道中、お疲れ様でした」

声色が、普段の軽さより、わずかに、押さえてあった。あの報せを、昨日の昼に運んできた人の、今日の、押さえ方、だった。

「ありがとうございます、ハンネスさん。留守中、申し訳ありませんでした」

「いえいえ。経理室、問題なしです。──シャルロットが、頑張りました」

シャルロットが、後ろから、小さく「あ、そんな」と、言葉を、落とした。耳の先が、薄く、赤くなっていた。ハンネスさんは、振り返らずに、片手だけ、軽く、あげた。「後で、報告」。副官時代と同じ、省略された合図。

その合図のやり取りを、私は、横目で、見ていた。

経理室の事情が、よく、分かった。

経理室の扉を、開けた。

机の上に、今朝までに処理された頁が、二枚、整えて置かれていた。

いちばん上の一枚に、見慣れない筆跡の、署名。シャルロットの、自分の字。昨日までの下書きの、控えめな、遠慮のある線ではなく、少しだけ、紙に、力の乗った線。

「……これ、シャルロットさんが、お一人で?」

「……はい。その、ひとつだけ、です。本当は、もう一頁、進めたかったのですが、そこは、セレナ様のご確認を、お待ちしたほうがいいかと、思いまして」

「どちらの判断も、正しいです」

言ってから、頁を、机の真ん中に、置き直した。

置き直した自分の手が、昨日までの王都の空気ではなく、ヴァイス領の経理室の空気に、もう、戻っていることに、自分で、気づいた。──王都の長机の上の静けさと、この小さな机の上の静けさが、同じ種類ではないことが、指先の熱の、戻り方で、分かる。

シャルロットの頁の、右下の余白に、鉛筆で、小さな、マッテオさんの字で、一言だけ、書き込まれていた。

『兄さんに見せた。読めた』

それだけ、だった。

頁を、私は、閉じた。閉じてから、シャルロットのほうを、見た。

「──よく、なさいましたね」

「……はい」

シャルロットの耳の先が、もう一段、赤くなった。今度は、赤くなったまま、逃げなかった。逃げなかった姿勢を、私は、心に、留めた。

書斎に、戻ると、使用人が、書簡の束を、運んできてくれた。

留守中のぶんの、仕分け済み。上から、二通が、今朝、届いた、早便のもの。

一通目。王家の、個人紋の封蝋。

『セレナ様へ。

薔薇園の件、耳に致しました。

どうぞ、お気を、強く。

公務の件は、何もかも、当方で、お引き受けいたします。

お手紙の返事は、いつなりとも、お時間のあるときに。

王妃』

短かった。短いけれど、今日のこの方の書き方は、事務の書き方では、なかった。個人として、一通、差し出されたもの、だった。

私は、便箋を、二度、ゆっくり、読んだ。読んでから、ひと息、吐いた。

吐いた息が、自分で、思っていたより、長かった。

二通目の、封蝋は、王家監察局の、公式のもの。

『通知。

ラインハルト伯爵家を含む一部の商会連合筋、およびメルツ男爵家使者による、ヴァイス伯爵夫人セレナ・フォン・ヴァイスの通商方関与に関する非公式の申し立てについて、本日、王家として、正式に、不問とする旨、ご通知申し上げます。

関連する各家への通達は、当方にて、本日付で、完了いたしました。

以上』

事務の文面、だった。

どこにも、勝利の匂いは、書かれていなかった。書いていないのに、その文面の、淡白さそのものが、終わったことを、告げていた。──告げられても、私の胸には、爽快、と呼ぶほどの熱は、起きなかった。起きたのは、「ひとつ、空いた」という、軽さだけ、だった。

空いたぶんの、場所に、今夜は、別のものを、置かなければ、ならなかった。

二通目の紙を、引き出しの、いちばん下に、しまった。

一通目は、引き出しの、一番上に、入れた。書ける便箋と、書けない便箋の、同じ頃の、両方を、扱った人たちが、遠くと近くに、いた。アルベルト様のあの机の、書けなかった便箋のことも、一瞬だけ、頭の隅を、掠めた。──掠めた、ということだけ、自分で、覚えておくことにした。

夜、出発の準備を、していた。

旅装の鞄に、詰めるものは、少なかった。あの薔薇園は、遠くはない。──遠くなくとも、今回は、何泊するかが、読めない旅、だった。

ルーカス様が、部屋の入り口に、立っていた。

手に、小さな、薄い箱を、持っていた。軍用ではない、柔らかい毛布が、一枚、その中に、きちんと、畳まれていた。春先の馬車の膝の上に、ちょうどいい厚さのもの。

「……これ、入れておけ」

「ありがとうございます」

箱の縁に、もうひとつ、別のものが、あった。

白い、小さな花が、一輪。

ヴァイス領の、あの花壇の、白い花。冬を越して、春先に、いちばん早く開いた、小さな一輪。ルーカス様が、今日のどこかの時間で、自分の手で、切ってきてくれたもの、だった。

「……持って、行っていいのですか」

「向こうにも、薔薇は、あるだろうが」

ルーカス様は、視線を、別の方向に、向けた。

「──こっちの、花壇のも、一輪、連れていけ」

受け取った。

箱の、柔らかい毛布の、上に、花の茎の切り口を、紙で包んで、そっと、置き直した。一緒に旅をする、同乗者、の扱いだった。

指の動きが、自分で、少しだけ、ゆっくりになったのが、分かった。

「……明朝、出ます」

「ああ」

「三日で、戻れるとは、思います。……戻れない、かもしれません」

「ああ」

「ルーカス様」

「俺も、行く」

短かった。短いけれど、今夜のこの短さは、去年の冬の、「門の外で、待つ」と、同じ、短さだった。

同じ短さで、いつも、この人は、行き先を、決めてしまう。決めてから、口に、出す。順番が、いつも、そう、だった。

「──お願いいたします」

それだけ、返した。

返してから、私の指が、ルーカス様の外套の袖の、ほつれの端のところを、一度だけ、ごく軽く、摘まんでしまった。摘まむつもりでは、なかった。でも、摘まんでしまった。ルーカス様は、咎めなかった。摘まみ返しもしなかった。ただ、自分のほうの手のひらを、ゆっくり、私の指の、上に、重ねた。

重ねた手の、温度が、朝の食卓の、あの黄身の温度と、同じだった。

玄関先に、ハンネスさんが、待っていた。

もう、夜だった。月明かりの下で、ハンネスさんの顔の、半分だけが、薄く、見えた。

「セレナ様」

「はい」

「朝、マリーカ様が、ヴァイス領のほう、お入りになられました」

「……マリーカ様が?」

「はい。軍医局の、春先の、巡回の一環で、だそうです。三日ほど、こちら側に、滞在されるご予定だと」

私は、一瞬、薬剤か何かの、補充の話か、と、思いかけた。

でも、ハンネスさんの声色の、間の取り方が、薬剤補充の時の、それでは、なかった。

「明日、ご挨拶だけ、お立ち寄りに、なりますか。朝早くの出発、とおっしゃるでしょうから、薔薇園と、マリーカ様の宿とは、道が、逆の方向ですが──」

「──いえ」

答えが、自分でも、早かった。

「帰ってから、お会いします」

「了解っす」

ハンネスさんは、それ以上、訊かなかった。

訊かないでくださった。

訊かれたら、私のほうが、自分の答えの、意味を、まだ、うまく、説明できなかった。

マリーカ様が、ヴァイス領に、三日、おいでになる。薔薇園から、戻ってくる頃、ちょうど、お会いできる時期。──偶然、と、思うのが、いちばん、自然、だった。思うことに、した。

夜の風が、玄関先の、石畳の上を、薄く、通った。

箱の中の、白い一輪が、ほんの少しだけ、震えた。震えを、紙の包みが、支えた。

明朝、出る。